モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その69:喜望峰⑬ 二人のスウェーデン人 と リンネの弟子達

2008-11-12 08:19:36 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

キャプテン・クック第二回の航海で、彼が指揮するレゾリューション号が
喜望峰に到着したのは1772年10月30日のことだった。 (その49喜望峰③)

フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)が喜望峰で下船し、
代わりに一人の植物の知識を持つ人物がレゾリューション号に乗船し、
約1ヵ月後の11月22日に南極海探検に向けて喜望峰を出航した。

キャプテン・クックの航海日誌にはこの状況をこのように書いている。

『フォスター氏が植物学および博物学に何がしかの知識を持ち、われわれの船に同乗を希望するスエデン人スパーマン氏の面識を得た。フォスター氏は、航海の過程で非常な助けになる人物と考えて、乗船させたい旨希望したので、私は許諾した。』

フォスターは、クック探検隊の主任植物学者であり博物学担当の息子と参加しており、
スウェーデン人のスパーマンなる人物を助手として現地で採用した。
という内容である。

スパーマンは何者だろうか?
この人物を調べてみると驚くことがわかった。

リンネとウプサラ大学の驚異
スパーマンではなく、スパルマン(Anders Sparrman 1748-1829)という。
彼はスウェーデン人で、ウプサラ大学で医学を学びリンネの優秀な弟子の一人だった。

(写真)アンダーズ・スパルマン肖像画


ということは、この時リンネの弟子が喜望峰・ケープに二人もいたことになる。
もう一人は、マッソンと一緒に植物探索の旅をしたツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)だ。
ツンベルクもウプサラ大学でリンネに学んでいる。

それにしても、海外旅行が便利になった今日でも、同じ大学のゼミ出身者が
喜望峰で偶然に出会うだろうか? 

出会う確率はかなり低いと思われる。
ということは偶然ではなく必然であり、リンネの意図・意思が反映していると思わざるを得ない。

リンネの弟子達は、空白地の植物相を調べ植物の体系を完成させるという強い動機で、
ツンベルクは南アフリカそして日本へ、スパルマンは中国・南アフリカ・南太平洋などへ、
そしてまだ登場していない弟子たち、その弟子達が世界各地に探検旅行をした。

ブラジリアンセージ、サルビア・ガラニチカを採取したレグネル(Regnell, Fredrik 1807-1884)は、
リンネの孫弟子にあたる。

スウェーデン人の、ウプサラ大学出身者の、そしてリンネの系譜の人々は、
冒険心と未知の植物の探究心にあふれフロンティアを求め、そして、功名を求め活動した。
このエネルギーは何処から来ているのだろうか?
世界の植物にリンネによる二命名法(属名 種小名)での名前をつけたい。
ということなのだろうか?

レグネルは、ブラジルでコーヒー園で財を成し、
故郷のスウェーデンにブラジルの植物研究をするレグネル基金を寄付した。
ツンベルクはウプサラ大学の学長となり、
スパルマンは王立科学アカデミーのメンバーとなり植物学の教授などを務める。

(写真) スウェーデン・ウプサラの場所 (by Google)


それにしても、こんなといったら失礼だが北国から財産形成を求めるのではなく
植物の知識を求めた人々が出現したことは驚きですらあり、
園芸を産業化したオランダ、園芸を庶民レベルまで楽しみにしたイギリスとは大きく異なる。


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