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モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No22:プリングルが採取したサルビア その4

2010-11-03 10:16:51 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No22 

プリングルは、1902年10月7日にメヒコ州でサルビア・パテンスを採取しているが、その100年以上前のプラントハンターと植物学者の葛藤の痕跡を取り上げる。

15. Salvia patens Cav. (1799).


(出典)モノトーンでのときめき

サルビア・パテンスは、小さな花が多いサルビアのなかでも大柄で美しい透明感のあるブルーの花が咲く。日本でも人気があるサルビアとなっているが、その由来に謎が多かった。

これまでわかったことは、
1.園芸市場への導入は、ロンドン園芸協会からメキシコに1836年に派遣されたプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)のようであり、これはハートウェグのところを参照していただきたい。

2.一方学名は、1799年にこの当時のスペインの大植物学者で、ダリアをヨーロッパに導入したマドリッド植物園の園長カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名されている。

新たにわかったことは、
カバニレスにサルビア・パテンスの植物標本を提供したのは、或いは、奪われたのは、フランスに生まれスペインで活躍したプラントハンターで植物学者のNée, Luis (1734-1801)だった。つまり、Neeが最初の発見・採取者ということになる。

(写真)Née, Luis の肖像画

(出典)ウイキペディア

Néeはどんな経緯でメキシコに行ったかといえば、
スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。
この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

(写真) マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro)

(出典) Museo Naval de Madrid

(地図) マラスピーナ探検隊の航路


(出典)ウイキペディア

この探検隊は、1789-1794年の間に行われ、南アメリカ大陸を廻りメキシコのアカプルコに到着したのが1791年で、そして、カルフォルニア・アラスカを探検してアカプルコに戻ってきたのが1792年なので、Néeがメキシコの植物を採取したのは1791年から1792年のこの時期だろう。

英国の場合は、プラントハンターと植物学者は分業と協業の関係にあり、新種と同定し学名をつけるのは植物学者の役割だった。
Neeは、この探検隊での同僚のチェコの植物学者Tadeo Haenkeが採取した植物について記述・命名してスペインの科学ジャーナルに1801年に発表しているので、単なるプラントハンターでもなく植物学者としての向上心があったようだ。

彼らは、この探検で数多くの植物を採取したが、サルビア・パテンスがそうであったように、Neeが採取した植物の大部分は、大植物学者カバニレスが命名し栄誉を得ている。

スペインに帰国後のNeeの足跡が良くわからない。また死亡時期も文献によって異なる。
Née の死亡時期を1801年と書いたが、カリフォルニア、アラスカなどで採取した植物の記述がこの時期にされているのでおかしいことになる。1803年又は1807年死亡という説が妥当であり、晩年が良くわからないがスペインに失望し、ナポレオン革命が進行中のフランスに戻ったという説がピッタリとくる。

苦労して採取した手柄を奪われ、怒り・絶望でスペインを離れたという説があるが、さもあらんと思う。
こんな美しいサルビアにも、世俗の争いがあったようだ。

さらに追加すると、探検隊の隊長マラスピーナは、政府転覆の陰謀の疑惑で捕まり、1796年から1802年まで刑務所に入れられた。
彼が書いた膨大な報告書は発禁処分となり後に散逸した。膨大な投資を行った探検の結果を活かさなかったスペインはその閉鎖性が人・モノ・カネ・情報を集めることが出来なくなり国際的な競争力を失っていくことになったのだろう。
しかし、大航海時代のスペインは論理的でないところが面白い。

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