モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その35:大航海時代の脱線編④:そして、スペイン語も生き延びた。

2008-03-03 08:25:43 | ときめきの植物雑学ノート
そして、スペイン語も生き延びた。

『エリザベス ゴールデン・エイジ』という映画を見てきた。
最も期待したのは、
運良く、スペインの無敵艦隊を破りイギリスが世界の海を支配していく端緒に立ったが、
弱者イギリスが強者スペインに対峙する緊張した思考・行動だった。
残念ながら、第二作になるが、ローリー卿との恋が主題のようになってしまったせいか
国家が消えるかもしれない緊張感での判断力が描ききれていなかった。
だが、ビジュアルでの時代考証の参考にすることはできた。
このシリーズでも、ローリー卿に関しては、どこかで登場してもらいたい人物ではある。

スペインにとっては、ここが分かれ道!
人生を振り返ってみると、いい事も悪いこともあそこから始まった。
ということをよく先人が語る。
スペインの歴史の中で、1492年は重要な年であり、いいことも悪いことも含めて
この後の歴史を決めるネタがそろっていた。
● コロンブス新大陸を発見
● 近代ヨーロッパ各国語の文法書の先駆けとして「カスティーリャ語文法(スペイン語)」をネブリーハが著作する。
● ユダヤ人にキリスト教への改宗か国外退去かを選択させる勅令を公布

前二者は、スペインの発展と統一を支える軸となり、三番目のユダヤ人の追放は、
ローマカトリックでの純化だが経済を支える優秀な人材の放出ともなった。
この純化という行為は、その後オランダの離反を招くなどスペインの発展を制約する大きな要因となる。

16世紀からの超大国スペイン形成の要因と、その背後で進んでいる凋落の原因をまとめてみると・・・

『スペインの成功』
1.1492年コロンブス新大陸発見
2.1494年ポルトガルとの間で、世界を二分するトルデシーリャス条約を結ぶ。スペインの領土は、大西洋ベルデ岬諸島西方370レグア地点に引かれた子午線の西側と決められる。(ブラジルはポルトガル領となる。)
3.1501年・1508年にローマ教皇はスペイン国王に大勅書を出し権限を委譲。(国王の教会保護権といわれる)内容は、アメリカ植民地の全聖職者の人選・指名権・十分の一税の徴収・運用権などを含む広範の権限を国王に委譲。これにより、国家と教会が一体となった政治体制が成立した。
4.インディアスとの貿易は、1503年にインディアス商務院をセビーリアに設立し、唯一の窓口とした。
5.1520年コルテスによりメキシコにあるアステカ帝国を征服
6.1524年、国王の諮問機関であるインディアス会議が設立され、メキシコとペルーに副王が任命され、都市には自治組織としての市参事会が設けられ、裁判機関として聴訴院がおかれ、国王代官の派遣、副王に対する本国からの巡察使の派遣観察など仕組みを整備した。
7.1531年ピサロによりペルー・ボリビアにあるインカ帝国を征服。
8.1543年からは、海賊対策として、船団を組んで航海。インディアスからは、トウモロコシ、トマト、タバコ、コチニール(洋紅染料)銀などがもたらされた。
9.1545年最大の銀山であるペルーのポトシ銀山発見。

「スペイン国力低下の原因」
1.1478年改宗を装う隠れユダヤ教徒の取り締まりをするために、セビーリヤを皮切りにカスレテーリヤ王国に異端審問制度を設置。教皇からの設立許可を権威に王権の伸張を意図した政治統制の道具として利用した。この点が中世の異端審問と異なる
・1492年ユダヤ人に改宗か国外退去かを選択させる勅令を公布。多くのユダヤ人は国外退去を望み、北アフリカ、トルコへ移住。有能な都市中間層を失ったスペインは大きな損失となる。この数は10万人を超えないといわれる。
・1530年までに6万件以上の審理が行われ、その多くは隠れユダヤ教徒の罪状で裁かれた。
2.1538年から新大陸との貿易はセビーリヤ独占となるが、人材不足であり、外国人(ジェノヴァ商人、ドイツ人、カタルーニャ人、アラゴン人)が担う。
3.1542年国王カルロス1世は、インディアス新法を発布し、先住民の奴隷化を禁止した。1545年に反対にあい撤回。
4.16世紀中ごろからネーデルランドに、カルビニズムが浸透し、1581年ユトレヒト同盟を結び、独立を宣言。(1648年ウエストファリア条約で承認される。)
5.1577年イギリスのエリザベス一世、新大陸から戻る船の拿捕(海賊行為)を奨励し、財政的支援を行う。
6.1589無敵艦隊がドーバー海峡で敗れる。海上権に打撃を与える。
7.1492年からの100年に、先住民の人口は7割も減少する。虐待・酷使・ヨーロッパからもたらした疫病による。
・先住民の大量死と植民者による酷使を禁止するために、ラス・カサス等の修道士がインディオの保護を求めて動き、1542年先住民奴隷化の禁止とエンコミエンダ(encomienda)の廃止を定めたインディアス新法が成立した。しかし、エンコミエンダ所有者が反乱を起こすと王権は簡単に譲歩した。
・エンコミエンダ制度は、自腹を切って渡航した武装集団=征服者(コンキスタドール)に、先住民の教化と保護を委託したが、奴隷化の制度となった。
8.大アンティル諸島のアラワク人はスペイン人と接触したため絶滅に瀕したが、小アンティル諸島のカリブ人はスペイン人との接触が少なかったため、16世紀中生存することができた。しかし17世紀になると今度はフランス人に攻撃され危機的な状況となる。

排除が敗因か
イスラム教徒・ユダヤ教徒・プロテスタントなどの異端分子を抱え込めずに排除した
宗教的な潔癖性というかローマ教皇と一体となった世俗の利権の追求は、
スペインをして、16世紀の超大国という成果に結びついた。

しかし、この超大国をもたらしたローマ教皇との結びつきの強化および宗教による国内統治手法は、
やらないですませることができることでも争い・戦争をもたらし、
財政破綻という自転車操業帝国に結びついたと思う。
新大陸メキシコ・ペルーなどからの金銀が手に入らなかったら、もっと早く崩壊した可能性が高い。
新大陸の銀がスペインを延命させた。

しかし、最大の問題は、拡大した帝国を運営する人材を排除してしまったことだと思う。
優秀なユダヤ人10万人を他国に追放、オランダが分離・独立。

これらの人材がいれば、東オランダ株式会社のような植民地経営ができたのではないだろうか?
産業を興しヨーロッパとの交易で自活するようにできたのであれば、
植民地経営はだいぶ変わったものになっていただろう。
オランダとの争い、イギリスとの争い、フランスとの争いなどに浪費を通り越して蕩尽(とうじん)してしまった。
神聖ローマ帝国を世界に広げ、その王になりたいという願望に蕩尽したのであろうか?

勝ち組は、自分が勝った手法で負けるとよく言われる。
ポルトガルから学習した海賊手法に自分が落ち込んでしまい、フランス・イギリス・オランダに襲われる。
勝ち組は、生き残るがゆえに勝ちに至った手法とその結果に答えなければならないと思うが、
超える新たな手法を開発するまでには至らなかった。

(アルタミーラの絵)

アルタミーラ洞窟の壁画
人目に触れない洞窟の奥に、力強い描写で色彩鮮やかなバイソン(野牛)がいた。
こんな暗闇でどう描いたのだろうと疑問に思いながらも、
いまにも飛び出しそうな写実的な壁画に驚いた記憶がある。
1879年スペイン北部サンタンデル県にある長さ270メートルの洞窟の天井から
紀元前25,000~10,000頃の時期に描かれたアルタミーラ洞窟の壁画が発見された。

これを描いた子孫は今何処にいるのだろうか?
カリブ海では先住民の遺伝子が生き延びていないという悲惨な結果になったが、
スペイン語だけは生き延びた。
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