不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

中国原産 「ホソバヒイラギナンテン」

2020-05-01 20:33:01 | その他のハーブ
植物、或いは、花との出会いは不思議なものがある。
特に意図していない時の出会いは振り返ってみると何かの意思が働いているのかもわからないと思える時がある。

(写真)ホソバヒイラギナンテン


この常緑小灌木は、ヒイラギナンテンと似ていて葉が細いので「ホソバヒイラギナンテン」と名付けられたが、
その元となるヒイラギナンテンは、遠くから見るとナンテンに似た葉と果実の付き方をしているが、葉の縁にヒイラギのような棘(トゲ)があるので「ヒイラギナンテン(Berberis japonica)」と名付けられたという。

こんなややっこしい説明関係にあるが「ホソバヒイラギナンテン」 「ヒイラギナンテン」 「ナンテン」とも中国が原産地で、
<ナンテンについて>
日本への渡来は「ナンテン」が最も早く、鎌倉時代の公家、藤原定家の日記である明月記の1230年6月20日にナンテンのことが書かれている。
庭木・薬用として我が国に入ってきており、葉に猛毒のシアン化水素が微量含まれるのでお赤飯・弁当等の飾り・防腐剤として今でも使用されている。

このナンテンをヨーロッパに紹介したのは、1690年から2年間オランダ商館付き医者として長崎・出島に滞在したケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651‐1716)で、1712年に『廻国奇観』(かいこくきかん)でナンテンをヨーロッパへ初めて紹介した。
学名は、長崎出島のオランダ商館付き医師として1775年に赴任したツンベルク(Thunberg 1743‐1828)によって1781年にNandina domestica Thunb.と命名された。
<ヒイラギナンテンについて>
一方、「ヒイラギナンテン」は、徳川綱吉時代の天和・貞享年間(1681‐1687)頃には渡来していた。
これは、現在の駒込にあたる染井の植木屋伊藤伊兵衛三之丞・政武父子が執筆した『地錦抄』付録にヒイラギナンテンが記載されている。

しかも命名者はツンベルクであり、1784年発表の『Flora Japonica』でIlex japonicaと命名したが、
1816年にブラウン(Robert Brown 1773-1858)によってBerberis japonica (Thunb.) R. Br.(1816)と修正された。
種小名にjaponica(日本)が入っているが、ツンベルクが命名した種小名を直すところまではいかなかったのだろう。

本命の「ホソバヒイラギナンテン」については後述するが、明治時代初め頃に渡来したと言われている。しかし根拠は確認できなかった。
長崎出島の三賢人の二人がかかわり、ホソバヒイラギナンテンも植物が重要であった時代の発見の物語がきっとあるのだろう!

ホソバヒイラギナンテンとの出会い
大学を出て社会人となったスタート地点が私の場合は神田錦町だった。
今ではそこに大正時代の建築物を保存する意味で本社社屋の外観レリーフが新しい建物に張り付けられて残されている。
だからか、街の変わり具合を見るためについでがあると神田神保町の古本屋街、錦町を歩いてみたくなる。

コロナウイルスが騒がれ始めたとある日
神田錦町からお茶の水駅に向かうのだが、ちょっと遠回りして神田駿河台のグルメ小路を歩いてみた。
ここには 和食の「面(おもて)」 、フランス料理の「土桜(におう)」、牛タン焼の「牡舌亭(ぼたんてい)」という味だけでなくネーミングにも凝った三姉妹店があり、健在かどうかを見ておきたかった。

小川町から駿河台に向かう最初の店が「牡舌亭(ぼたんてい)」だったがそのスペースは空き店舗となっていた。
おや!潰れたかな!!コロナの影響がすでに出たか??
他の姉妹店は?

「面(おもて)」、「土桜(におう)」、 あったあった。
と安心したその先に、何と「牡舌亭(ぼたんてい)」があり、三店そろい踏みとなっていて、願った配置フォーメーションが出来上がっていた。

よしよし、夜の外出がOKになったら来てみよう!
ということで、懐かしい店の探索を終了し、御茶ノ水駅に向かう。

ふと路傍の植木で気になるものがあった。
それが、 ホソバヒイラギナンテンだった。

(写真)ホソバヒイラギナンテン全体


最初に気になったのは、
街路樹は、車、人の通行の邪魔にならない規律正しいものが多い中で、正反対の自由奔放に伸びている雑然とした樹木をよくぞ植えたな!
という常識破りと青い実の印象が強かった。

(写真)植物紹介ボード


次に気になった点は、
近くにあった樹木の紹介ボードで、和名:ホソバヒイラギナンテン、学名:Mahonia fortuneiと知り、種小名にフォーチュンが入っていたので調べる欲求が刺激された。

ロバート・フォーチュン(Robert Fortune、1812-1880)といえば、紅茶と緑茶は同じ茶の木の葉から作られていることを見つけ出し、中国が国外持ち出し禁止をしていた茶の木をインドに持ち出し紅茶生産の道筋を作ったことで著名な英国のプラントハンターで、
しかも鎖国政策を取っていた中国、日本両国の開国に立ち会った数少ない西欧人でもあり、路傍で餓死・凍死することなく印税収入で余生を送った稀有なプラントハンターでもあった。

(写真)ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)

(出典)Kew Gardens

ホソバヒイラギナンテンの発見者は!

アヘン戦争で敗れた中国・清王朝が英国と南京条約を結び、香港の割譲、広東など5港の開港をした1842年に、フォーチュン30歳の時、ロンドン王立園芸協会から清国に派遣され、1843年2月26日に英国を出発し7月に香港に到着した。
この時のミッションは、青い花の牡丹、バラ、ツツジ、お茶の木、ミカン、皇帝の庭にある桃など、英国未知の植物を採取し健全な状態で持ってくるよう数多くの植物名が書かれたリストを渡された。
フォーチュンは3年間滞在し1846年5月に帰国したがこの間にキク・ユリ・ラン等東洋の代表的な観葉植物を当時の最先端道具ウオードの箱(Nathaniel Bagshaw Ward (1791–1868)が開発した植物輸送のガラスケースの箱)で乾燥させた標本ではなく生きたままの植物を英国に送った。
当時の中国は開国したとはいえ、鎖国日本同様に外国人が自由にどこへでも旅をして歩けることは禁止されていた。また、治安が悪く旅は危険そのものだった。
フォーチュンは、北京語を覚え、頭を剃り中国服を着て、遠方から来た片言しか話せない現地人になり済まし、英国のほとんどの人が知らない中国の今を調査し、主目的のプラントハンターの仕事を3年間行った。

ホソバヒイラギナンテンは、やはりフォーチュンが上海の南方に位置する浙江省(せっこうしょう)で1846年に発見・採取し、ロンドンに送っていた。
命名したのは、バンクス卿の秘書から出発しロンドン大学・ケンブリッジ大学の植物学教授になったリンドレイ (John Lindley1799~1865)で、ロンドン王立園芸協会の情報誌でベルベリス フォーテュネイ(Berberis fortunei Lindl.(1846)と命名し発表した。

(写真)ホソバヒイラギナンテン


ホソバヒイラギナンテン
・ホソバヒイラギナンテン(細葉柊南天)は、メギ科メギ属の常緑低木。樹皮を煎じて洗眼薬にしたことから「目木(めぎ)」の名前になった。
・学名は、ベルベリス フォーテュネイ(Berberis fortunei Lindl.(1846))。1846年に英国、ロンドン大学の教授リンドレイ(John Lindley 1799‐1865)によって命名された。
・属名のBerberis は、この仲間がberberine(ベルベリン)というアルカロイドを含むことに由来する。これには殺菌や抗菌作用が知られ、目の炎症を抑えるため、材を煎じて目薬にするので和名をメギ(目木)という。
・種小名のfortuneiは、この種を発見採取した英国のプラントハンター フォーチュン(Robert Fortune、1812‐1880)に献じられている。
・原産地は中国。明治初期に日本に伝来している。
・葉はヒイラギナンテンよりも細長く棘がなく冬にも色づかない。
・花は9月から11月頃にかけて、黄色いつぶつぶの花が咲く。(ヒイラギナンテンは冬に咲く)

コメント

キャッツ

2020-01-31 17:10:48 | 街中ウオッチング
2020年1月24日に封切られた『CATS(キャッツ)』を6日遅れで観てきました。
前評判などをネットで読みましたがボロクソ 失礼、酷評されていて、この酷評には何か違和感を感じました。
悪意をもった酷評、或いは、為にする酷評で、素直に作品を観て払ったお金に対して満足度は如何にと言う多くの映画フアンの尺度を超えているものを感じました。

それで、『CATS(キャッツ)』を観ることにしました。


(出典)CATS公式HP

ある意味で、製作費100億円をかけてつくった作品がどれほど出来が悪いのかを観に行った感もありますが、どうしてどうして 素直に感動しました!
出来れば、もう一回見ようかなとも思いました。

理由は簡単で、1日に2回『CATS(キャッツ)』を観た人のコメントを観て、観る順番が重要だという指摘がありました。
最初は「日本語吹き替え版」で観て、2回目に「原語版」というのが最適な順番だと言っていたので、吹き替え版から観ることにしました。

この日本語吹き替え版で感動したので、原語版を観ない或いは聞かないわけにはいかない。 
というのが素直な感想です。

しかも、これ以上ないというぐらいの最大の容器一杯のポップコーン(半分はシュガー、半分は塩で2種類の味が楽しめる)と、コーヒー。
上映時間109分があっという間だった。
大体の映画は、途中であくびをしたり、だれてしまう時間があるが、 『CATS(キャッツ)』は全くこれがなかった。
こんな心地よい時間を過ごせた作品は 最近珍しい。

この映画の酷評を考えてみた
評論で飯を食う人は、対象をほめると提灯記事を書いているとか、金をもらっているのではないかとか疑われる。
かといって 全面否定では、次の仕事が来なくなる可能性が高まる。 
ということで、評論で飯を食うのは作品を作るより難しい。

ベストは、観に行きたくなる、読みたくなる等の行動を促す視座を気づかせる評論かと思うが、『CATS(キャッツ)』に関しては、感情的な憎しみを感じる。

きっと、“ 舞台のCATS派が映画なんて~ ” と一線を引きたがっているのではなかろうかと感じる。 舞台の今後のCATSを守るために。

舞台のCATSを観ていない人はかなりいる。
評論に惑わされずに、映画を楽しんで観てもらいたいものだ。
そして、気になったら舞台のCATSも観るとよいのだが・・・・・・・。

コメント

2019年(平成31 ⇒令和1年)の出来事ランキング

2020-01-15 20:23:13 | 街中ウオッチング
平成から令和へ introduction
 
人と人が集まって出来る社会の最小単位「家族」が変質中!

かつての高度成長期頃の日本、昭和の時代は、「一億総中流」という認識が蔓延していた。
格差が気にならず、あなたも私も同じ“中流”という認識だった。
これは、年功序列という制度に支えられ、平社員と社長との給与の格差が責任の割には許容できる範囲にあり、また、責任がないヒラを選んだ。
という自負が成り立っていた。まるで「釣りバカ日誌 の浜崎伝助」のように。

このような錯覚を生みだした諸制度が平成の時代に解体され、 「選択と集中」を合言葉として“冷徹な切り捨て”、“配分より資本の蓄積” に傾斜し、デフレ経済をもたらした。
日産ゴーンに代表される平成の名だたる経営者は、新規事業を育て上げる人より、聖域まで踏み込んでコストカットで利益を作りだした人が多い。
平成の時代は、人を大事にしない時代だったと思う。
挑戦・努力してもスタートが悪いと格差を解消することができず果実を享受することが出来ないという現実に人々は圧倒された。

2018年の国民生活基礎調査(厚生労働省)によると、
世帯数は年々増加しており2018年には5,099万世帯となり、標準世帯(夫婦+子供がいる世帯)及び3世代世帯が年々減少し、それ以上に単身世帯、夫婦だけの世帯が増加していることにより総世帯数が増加している。
高齢者世帯、結婚していない或いは経済的に結婚できない単身世帯の増加が反映されている。
フジテレビのアニメ番組『サザエさん』は、家族としての理想形を描いてるが故にか放送開始50周年を迎えた。
しかしながら、このような娘婿マスオさんを含めた3世代家族は今や5.9%と少数派となっている。

また世帯所得をみると、年間所得が300万円以下という世帯が33.6%あり、3世帯に1世帯がこの少ない所得階層に属する。
非正規雇用(ずっ~とパート・アルバイトと同じ)、同一労働同一賃金(50歳でも20歳でもレジ係は時給900円とか)、キャリア採用&ノンキャリア採用(採用時点の違いが昇給の違いとして拡大する)、能力給・職務給万能主義(地位・職責と給与がリンクし、年齢給・家族手当など削減)、ベースアップ・定期昇給制度がなくなり、初任給と定年時の給与がほぼ同じ水準ということが現実化している。

統計以上に格差が際立つ世界、格差が固定化し江戸時代の身分制度「士・農・工・商・エタ・」(京都大学名誉教授朝尾直弘の説)のように階層化しつつある世界が出来上がりつつあると感じる。
この状況を「上級国民」「下級国民」という言葉で表現している者もいる。
下級国民に落ちることは簡単だが、上級国民に成り上がることが困難な一方通行性が定着しつつあるようだ。

データーで見れる以上に、人と人が集まって出来る社会の最小単位、「家族」が変質している。
令和の時代は、家族に関わる次のような経済的合理性では説明できない関係性はどうなるのだろうか?
「絆」、「養育」、「扶養」、「自宅介護」・・・・・。

遅ればせながら平成最後でもあり、令和元年でもある2019年の記憶に残る出来事をランキングとして記録に残しておくことにする。

第1位: ONE TEAM(ワンチーム)


日本代表ラグビーチームのスローガン或いはコンセプト「ONE TEAM(ワンチーム)」は、2019年の流行語大賞を受賞し、今や世界を救うキーワードとなる可能性を持つ。
「ONE TEAM(ワンチーム)」とは?
ラグビー日本代表チームメンバは、31人(フォワード18名、バックス13名)で編成されている。
この31人を出身地別にみると、日本:15人、ニュージランド:5人、トンガ:5人、南ア:3人、オーストラリア:1人、サモア:1人、韓国:1人となる。
日本代表なのに日本出身者はメンバーの半数を超えていない。

16人の非日本出身メンバーは、助っ人なのか? 金で集めた傭兵なのか? 出稼ぎなのか? 自国では代表になれないので日本に来たのだろうか? 一体何だろう? という疑問がわく。

日本代表メンバーになるには、36ヶ月継続して日本に居住していることが条件となるのでこれをクリアーしたメンバーであり、16人中12人は日本の高校又は大学を卒業し、トップリーグのチームに所属し活躍している。
トップリーグ、大学ラグビー、高校ラグビーという活躍の場があるから優秀な若者を海外からスカウトできるというお金の力があることも見逃せない。

しかし、日本代表がベスト8まで登りつめたせいか、大会期間中に開催された理事会で、国を代表するナショナルチームメンバーになるには60ヶ月(5年)継続居住することが条件と規定が改正された。
出る杭はこのようにして打たれるのですね~。

4年後もベスト8として勝ち残るためには、トップリーグという企業の支援に頼っているだけでは優秀な人材を獲得・育成はできない。
プロ化が検討されているが、最後のアマチュアリズム・スポーツと言われるラグビーにマッチするのだろうかと疑問を呈するものも多い。

出生地(生まれたところ)国籍(パスポートが取得できる国)で分けるとややっこしくなるので出身地としたが、このややっこしいところが「ONE TEAM(ワンチーム)」でまとまり成果を出した価値がある。
上からの改革ではなく、当事者が自らを変え、チームを変えるという可能性を現実化したのが「ONE TEAM(ワンチーム)」という行動かも知れない。

ちなみに「ONE TEAM(ワンチーム)」とは、決勝トーナメントに進出できる8チームに入ることを目標に、4年間をかけて戦い・格闘・議論をし、多くの犠牲の上に成り立った目標を共有する仲間のこと、或いは仲間達と発酵・醸成した文化のことを言っている。
とメンバーの一人、笑わない殿下 稲垣 啓太さんが解説していた。

努力も苦労もしない寄せ集めのグループでは「ONE TEAM(ワンチーム)」にはならずに、不都合があると即瓦解し、誰それが悪いという怒号が飛び交うのだろう。
もともとラグビーには『One for all、All for one』(一人はチームのために、チームは一人のために)という考えがあり、つないでつないでトライを取ってきた。
この土俵の上にさらに「ONE TEAM(ワンチーム)」が成立した。

(写真)ワンチームメンバー
 
※ 囲みなし:控えメンバー 赤囲み:フォワード 青囲み:バックス

第2位: 年を越した日本も関わる世界の大トラブル
2019年も解決しなかった世界及び東アジアを揺るがす大きな出来事
① アメリカと中国の覇権争いをバックとした貿易戦争。
世界を中長期的に不安定化し、軍拡競争をもたらしている。

② 中国の国家体制と香港・台湾・(マカオ)の統治の争い
天安門事件から30年。中国軍戦車が出陣・鎮圧出来ないとしたらどうする?学習し大人になった中国が見れるか、或いは、??という不安がある。

③ 北朝鮮の核開発と中国・ロシアVS米国・日本・韓国
ベルリンの壁崩壊・ドイツ統合から30年。
朝鮮半島の統合という同じことを夢見る文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領。そして、中国・ロシア等とヨーロッパ連合体的なことを夢想しているのだろうか? 文在寅と日本はワンチームになれるのだろうか?

④ イランの核開発と米国の争い
中近東の石油に依存していない米国、サウジアラビアとイスラエルを守るために思い切った手を打ちかねない危険性がある。

⑤ 英国、EUから離脱
島国・英国と大陸(ドイツ・フランス)はやはり仲が悪い。 おっと、身近にも似たような構造があるぞ~。(③参照)

とてもワンチームにはなれない関係ばかりだ。

第3位: 令和元年ブーム
『令和』は、2019年5月1日からスタートし、元号としては「大化」以降248番目、天皇としては、徳仁(なるひと)天皇は126代目となる。
昭和54年(1979年)に定められた元号法では、“一世一元の制”となったが、これ以前は、疫病・天変地異・飢饉などがあると気を変えるために一世で5~6回も改元されていた。
ゴールデンウイークとも重なり10連休となったが、この期間の旅行者数は2467万人と過去最高を記録し、元号グッズ等も多数売れ個人消費の活性化に寄与した。

第4位: 平成を無難に〆た安倍内閣
2019年11月20日、安倍晋三の内閣総理大臣としての通算の在任期間が2887日になり、日露戦争時の宰相で通称ニコポン宰相と揶揄された桂太郎を抜き憲政史上で最長となった。
自民党総裁の任期が3期9年まで可能という規約改定があったので2021年9月までの任期があるので、この記録はさらに伸びることになるが、
衆議院任期満了での総選挙がこの頃にあるので、4期12年を目指すのであれば、死に体にならない前に衆議院解散総選挙を行う可能性が高く、オリンピック・パラリンピック後に総選挙がありそうだ。
長ければ良いというものでもないが、初めての政権交代時に大震災による福島原発事故に遭遇した民主党の不運と不手際という失態もなく、無事・無難に7年を務めた。

成績評価として国債残高をどのくらい減らしたか或いは増やしたかを調べてみると、任期期間2012‐2019年の7年間で192兆円国債残高を増やし897兆円(国民1人当り713万円の借金)としているようだ。
マイナス金利と192兆円の借金で作り上げたアベノミックスは、平成末の安寧をもたらしたとでも言えるのだろう!
しかし、1強多弱に陰りが出始めておりポスト安倍がささやかれ始めている。
安部晋三、66歳という年齢が今、自民党の不安定感を作りだしている。

第5位: 日本企業で初の売上高30兆円企業誕生
トヨタ自動車が2018年4月~2019年3月までの売上高を30兆2556億円と発表、日本企業初の売上高30兆円越えを記録した。
第2位はホンダの15兆8,886億円(2019年3月期)でトヨタの約1/2で、如何にトヨタの売上規模が大きいかが分かる。
3~5位は以下の企業で、嘗ての親方日の丸の代表、日本郵政、NTTの巨大さにも驚かされる。
 3位:日本郵政 12兆7,749億円(2019年3月期)
 4位:NTT 11兆,8798億円(2019年3月期)
 5位:日産自動車 11兆5,742億円(2019年3月期)

世界レベルで比較すると
トヨタの売上高は、世界ランキングでは10位に位置し、
世界No1の売り上げを誇る企業は、米国の小売業『ウォルマート』でトヨタの約2倍の売り上げがある。この企業は、ウォルトン一族による同族経営企業(ファミリー・ビジネス)としても知られている。


第6位:  女子パワーが今年も全開
2019年1月26日、大坂なおみは第107回全豪オープンで日本選手として初の優勝を飾り、1月28日発表の女子テニス協会ランキングで日本選手として初の世界1位となった。素晴らし~。
8月には、イングランドで開催されていた全英女子オープンテニスで渋野日向子が日本国外メジャー初挑戦で初優勝を達成した。

二人とも、明るさときめ細やかな気遣いが観客を魅了し、2019年も女子パワーがスポーツの世界で発揮された。




第7位: 地道なステップアップが実を結んだ日本の科学技術力
2019年11月13日 、小惑星探査機「はやぶさ2」は2回の着陸探査を行なった地球に接近する軌道を持つちょっと危険な小惑星「リユウグウ」を出発し、生命誕生の謎を解明する素材が入った“玉手箱”を持ち地球への帰還の途に就いた。
到着予定は2020年末ということであり宇宙空間を1年間旅して帰還する。
この「はやぶさ2」が種子島宇宙センターで打ち上げられたのが2014年12月3日であり、打ち上げから帰還まで6年にわたる時間がかかることになる。
生命誕生の謎を解明するというプロジェクションミッションからみれば6年という時間は短くはないのだろうが、短期間での成果を求める昨今からみれば恐ろしく長すぎる。
世界初の様々な偉業があるこのミッションは宇宙開発の技術蓄積にも寄与するものだけに火を絶やさないで欲しいものだ。

(写真)「はやぶさ2」とそろばんの玉型の「リュウグウ」


宇宙航空研究開発機構(JAXA)の右肩下がりの予算推移

生命誕生の謎とまではいかないが、「日本人のルーツ、何処からやって来たのだろうか?」という謎がある。
南アフリカで誕生した人間の祖先ホモ・サピエンスは、6万年前にアフリカを旅立ち世界に拡散していった。
その子孫たちが ①3.8万年前に朝鮮半島から海をわたって、②3.5万年前に南方から沖縄列島などの島伝いに海を渡って、③2.5万年前に氷河期で大陸と陸続きだった北海道にたどりついた という3つの説がある。

(写真)人間が日本に渡来した3つのルート

と言ってもどうやって来たのだろうという謎は解明されていない。
6年をかけて海図、羅針盤、コンパス等がなくても海を渡って日本にたどりつくことが可能かということを実証するプロジェクトが、国立科学博物館の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」として展開された。

(写真)台湾から琉球列島の旧石器時代の遺跡(赤○)と黒潮の流れ

本番の実験公開は、3万年前の道具で丸木舟が作れるということを実証したので、この丸木舟を使い、台湾→与那国島の航路で行われた。
海岸線からみると与名国島は見えないが、山に登るとかすかに島が見えるようなので方向は解決したが、最大の難関はすごいスピードで流れる黒潮を乗り越え横切って与名国島に辿りつけるか?だった。

(写真)台湾から与名国島に向かった丸木舟

2019年7月7日に台湾を出発した丸木舟は、7月9日に与名国島に到着し、約225 kmを丸木舟により45時間かけて渡ることができ、帆のない丸木舟で島伝いに日本列島に近づくことが可能なことを証明した。

宇宙開発は未来技術の研鑚となり、日本人のルーツ探しは私が私であることを証明する心棒を磨くのだろう。
科学はまさに未来という希望を失った現実に、Newフロンティアを我々の社会にもたらしてくれる。

旭化成名誉フェロー吉野彰(よしの・あきら)さんが リチウムイオン電池の発明でノーベル化学賞を受賞したのも今年でした。
2014年以降、6年連続してノーベル賞受賞者をだしているというのも素晴らしい。

第8位 : 戦後はまだ解決していないという日韓問題
大分前のことになるが、韓国から1年間研修に来ていた方が期間終了で帰国するので送別会を行ない、2次会は参加できる少数のメンバーで行い1年間の単身赴任での労をねぎらい別れを惜しんだが、宴も盛り上がった頃に日韓問題が噴出した。
先ほどまでの和やかな雰囲気は吹っ飛び、先ほどまで温厚だった研修生から舌鋒鋭く日本の戦争責任を追及された。
韓国侵略は、私たちの親の時代で、生まれていない私が責任を追及されたが、悪かったと言えない私がそこにいて、無言にならざるを得なかった。
後味の悪い経験だった。 これがいまだに続いている。

安倍内閣は、これまで無言で我慢してきた方法にしびれを切らし、手を挙げてしまったから大変だ。
どこまで痛い思いを我慢できるかの我慢比べとなっているが、韓国の観光客で経済を成り立たせている対馬等は非常に厳しい状態に陥っているという。
あの宴会の席では、私も過去の政治の犠牲者だったが、対馬等はまさに今の政治の犠牲者となっている。
そして韓国にも現実に犠牲者が存在している。
解決しない問題が引き続き次の世代に渡されていくことになる。

第9位: 消費税10%に増税
2019年10月1日から消費税10%に改定された。
消費税は、30年前の1989年(平成元年)4月1日に3%で初めて導入された。
消費税が初めて導入された30年前は、日本はバブル景気でわき浮かれていたが、世界は大激動の年だった。
中国では天安門事件が起き戦車で反体制をねじ伏せ、ベルリンの壁崩壊に象徴されるように東側体制がドミノ倒しのように体制が崩壊した。
最後の仕上げが、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し『冷戦』の終結を宣言した。

こんな年に誕生した消費税だが、当初の使途目的は、シンプルに未来の日本の課題解決として社会保障と少子化対策に使うと規定されてた。
今回の増税では「幼児教育の無償化、高等教育の一部無償化、保育士・看護士の待遇改善」等で1.7兆円の使途変更がされ、使途目的を変更出来る危険な道を開いてしまった。

第10位 : しつけ(躾け)という名の“児童虐待”は 犯罪
わが町、野田市が全国的に有名になってしまった。しかも、何から何までお粗末であきれ果てるほどのどうしようもないことが起きていた。
事の起こりは、1月25日、野田市の小学4年の女児が自宅で死亡していた。病院以外での死亡の場合は当然検死となり、複数のあざなどから虐待の可能性が疑われ取り調べられ、父親が傷害の疑いで逮捕された。
ここまでは、普通の家庭内児童虐待事件だが、児童を守る学校の先生、教育委員会、家庭内暴力等から子供を保護する柏児童相談所等が、死亡した女児を全然守っていなかったということが明らかになってしまった。
このうちのどれか一つでもまっとうに機能していたら女児の死亡は防げたはずだ。ということが時間と共に明らかになっていった。
子供の命を守るという使命感が欠落していた教育委員会、児童相談所にはペナルティを出すべきだが、使命感がなく席を温めている人は異動を強く希望するか違った自分に合う仕事に転職したほうが良いと思う。
こんな仕事観、使命感を考えさせる2019年の年明けとなってしまった。

コメント

サルビア・エレガンス(Salvia elegans)の花

2019-10-18 11:14:22 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・エレガンスの花


透きとおった上品な赤とはこの色のことを言うのだろう。
秋の終わりに咲き始めるサルビアは数少なく、今シーズンのフィナーレを飾る赤色の花の一つとなる。
葉からはパイナップルの香りがするので「パイナップルセージ」 とも呼ばれる。

また、花の形は、花粉を運んでくれる誰にでも好かれる形状ではなく、特定の昆虫・鳥にだけ好かれるようにできている。
空中に停止する飛行(ホバリング)が出来ないとご褒美の蜜が吸えないようになっており、わが庭では、ホシホウジャク(蜂雀、humming‐bird moth)が毎日巡回飛来し、蜜を集めている。
このホウジャク、蜂の種類かと思うほどだが実際はガ(蛾)の一種なのだ。

(写真)ホシホウジャク

(出典)虫の写真図鑑、スズメガ図鑑

原産地は、メキシコの標高2000-3000mの高地に自生していて、鳥の仲間のハチドリ(humming bird)が蜜を吸うために空中に停止し、花粉を運んでいる。

パイナップルセージ、命名の歴史

この素晴らしい花のために用意された学名は、「サルビア・エレガンス(Salvia elegans)」であり、
1804年にリンネの使徒の一人でもあるファール(Vahl, Martin (Henrichsen) 1749‐1804)が命名した。ファール55歳で亡くなった年でもある。
(写真)Martin Vahl
 
(出典)ウイキペディア

命名者 ファールは、デンマーク・ノルウェーの植物・動物学者であり、
ウプサラ大学でリンネに学び、ヨーロッパアフリカなどの探索旅行をし、アメリカの自然誌をも著述し、彼が最初に記述したサルビア(Salvia tiliifolia)などもある。

しかし、この素晴らしい花を誰が発見したか良くわかっていない。
記録に残っているサルビア・エレガンスの命名の歴史を振り返るとヒントが隠されていた。

ファールが命名する4年前の1800年に、スペインの大植物学者 カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745‐1804)によってメキシコ原産のパイナップルセージは、「Salvia incarnata」と命名された。
種小名の“incarnata”は、ヒガンバナのような赤色だが、“肉色”の赤を意味する。
だが、この名前は認められなかった。

(写真)Cavanilles, Antonio José
 
(出典)ウイキペディア

理由は、ドイツのニュールンベルグにあるFriedrich-Alexander・Universityで21歳になったエトリンガー(Etlinger, Andreas Ernst 1756‐1785)が、
博士号を取得するためのサルビアをテーマとした論文で1777年に 「Salvia incarnata」 という名前をすでに使用・発表していたので、カバニレスの命名は認められなかった。

エトリンガーが「Salvia incarnata」(肉色のサルビア)と命名した植物は、
実際は違ったサルビアで、正式な学名は「Salvia fruticosa」(フルーティなサルビア)という。
下の写真のような淡い色合いのサルビアに、「Salvia incarnata」(肉色のサルビア)というような名前を付けるだろうか?
御覧の通り大分大きな勘違いがあったようだ。学生だからしょうがないか! と言えばそれまでだが・・・・・。
(写真)Salvia fruticosa

(出典)ウイキペディア

本来ならば、パイナップルセージの原産地(メキシコ)の宗主国、スペインの方が組織的に植物のサンプルを収集し、母国のマドリード王立植物園に集めていただけに、
また、その園長を務めていたカバニレスの方が分が良いはずだが、どこかで手違いがあった。

パイナップルセージのコレクターの歴史

記録に残っている最初の採取者は、1841年にメキシコの1000mのところで採取されているが採取者の名前はわからない。
1891 年には「サルビア・レウカンサ」などメキシコの美しい花を採取したプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838‐1911)も採取している。

カバニレスが命名したパイナップルセージを採取したのは、
マラスピーナ探検隊(期間:1786 to 1788、1789 to 1794)に植物学者として参画した ニー(Née, Luis 1734-1801) だった。
1791年10月にメキシコ中央北にあるケレタロで採取し、この標本をカバニレスがニーの自宅で見た。ということが分かっている。

・※マラスピーナ探検隊とは、スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

(写真)Née, Luis (1734 - 1803)

(出典)Australian National Herbarium

しかし、カバニレス程の大学者が命名ミスをしてしまったが、他国の大学の博士論文まで目が行き届かなかったのだろう。ましてや見た目から想像できない名前までチェックできなかったのだろう。
カバニレスは、玄人・プロが陥るわなにはまってしまったようだ。

更に気になる学名があった。
『Salvia longiflora Sessé & Moc. 1887.』だった。
1787‐1803年までの16年間に及ぶセッセ探検隊の、
セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)がパイナップルセージに「Salvia longiflora」 (longiflora=長い花)と命名していることだ。

メキシコ到着の時期からみても、ニー(Née, Luis)よりも早く到着し探検していたセッセ達がおそらく最初の採取者だったのだろう。
ただ残念なことにセッセ探検隊の成果は、歴史の谷間に沈み込み、再発見された1887年に発表されたので正式な学名として認められなかった。

パイナップルセージは “elegans(優美な)” が最も似合うサルビアだと思う。
カバニレスの“incarnata(肉色)”、セッセ達の“longiflora(長い花)”でなくて良かったと思う。 

スペインの大植物学者 カバニレスにとっての邪魔者エトリンガーは、パイナップルセージにとって最高の働きをしたと思うがいかがだろう?
彼がいなければ、パイナップルセージは “肉色のサルビア”になっていた。

園芸市場に出現したのは1870年の頃といわれていて、今では世界の秋をエレガントに魅了する花となっている。

育て方は夏場の水切れと冬場の霜対策が厄介だが、これ以外はいたって簡単で育てやすい。

(写真)サルビア・エレガンスの葉と花


サルビア・エレガンス(Salvia elegans)
・シソ科アキギリ属の半耐寒性の常緑低木。
・学名は、サルビア・エレガンス(Salvia elegans Vahl, 1804)、英名・流通名がパイナップルセージ(Pineapple sage)。
・原産地はメキシコ。標高2000~3000mの高地に生息。
・丈は成長すると1m前後。鉢植えの場合は、摘心して50cm程度にする。
・耐寒性は弱いので、冬場は地上部を刈り込みマルチングするか軒下などで育てる。
・耐暑性は強いが乾燥に弱いので水切れに注意。
・開花期は、晩秋から初冬。短日性なので日が短くならないと咲かない。
・花は上向きにダークが入った濃い赤で多数咲くので見栄えが良い。
・葉をこするとパイナップルの香りがする。
・茎は木質化するまでは非常にもろく折れてしまいやすいので、台風などの強い風の時は風を避けるようにする。

【付録 ハチドリ】
新大陸アメリカでは ハチドリ(Hummingbird) 、オセアニア・旧大陸では タイヨウチョウ 、日本では、ホウジャク(蜂雀、 humming‐bird moth)が、毎秒50回以上の高速羽ばたきをし空中に止まるというホバリングをし、大好物の花の蜜を食べる。
このホバリングする鳥、蜂、蛾に最適な蜜を吸いやすい構造に進化したのがサルビア・エレガンスの花の形態だ。

そういえば、ペルーのナスカの地上絵にもハチドリの絵が描かれている。

(写真)ナスカのハチドリの絵

(出典)ウイキペディア ナスカの地上絵

コメント (3)

サルビア・レプタンス(Salvia reptans)の花 と 命名者ジャカンの時代

2019-09-30 08:17:01 | セージ&サルビア

(写真)サルビア・レプタンスの花


「サルビア・レプタンス」は、英名では“コバルトセージ(Cobalt Sage)”と呼ばれ、
コバルトブルーのような色合いの花が咲く。
この濃いブルーの色はなかなかない。渋めで重いようなブルーであり、冬の海を連想するほど重い。

この“コバルト”という金属元素は1737年に発見され、ドイツ語で“地の妖精”を意味する“Kobold”に由来するという。
顔料としてガラスの原料にコバルトを入れるとブルーに染められるが、コバルトの量が多いほどブルーの色が濃くなるという。
なるほどという納得がいくネーミングだ。

原産地は、テキサスからメキシコの2000m前後の高地で石灰質の乾燥した荒地であり、
細長い葉の先に花穂を伸ばし1㎝程度の口唇型の小花が下から上に向かって多数咲きあがる。
匍匐性のものもあるようだが、これは立ち性で、摘心しなかったので1mぐらいまでになってしまった。

この花に、「サルビア・レプタンス(Salvia reptans Jacq.)」という学名を1798年につけたのが
オランダ・ライデンで生まれ、神聖ローマ帝国の首都ウィーンに移住した医者・植物学者のジャカン(Jacquin ,Nikolaus Joseph von 1727-1817)だった。

日本ではまだ珍しい品種でもあるが、1800年代初頭には、園芸品種としてヨーロッパの庭に導入され普及し始めたようだ。

命名者ジャカンの時代 : ハプスブルグ家とリンネとモーツアルト
オランダ・ライデンで生まれたジャカンがウィーンに行ったのは、
直接的には中部ヨーロッパを支配したハプスブルグ家の財産を相続したオーストリアの女帝マリア・テレジア(Maria Theresia 1717-1780)から宮廷の医師兼教授の職を提供されたので、1745年に移住することになった。
彼が18歳の時なので、早くから才能を認められていたようだ。

フランス革命でギロチン刑にあったルイ16世の王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette1755-1793)は、このマリア・テレジア女帝とその夫である神聖ローマ帝国皇帝フランツ一世(Franz I. 1708-1765 )との15番目の子供にあたる。

この二人は当時としては珍しい恋愛結婚のようであったが、
ハプスブルグ家の財産を引き継いだマリア・テレジアが頑強に政治を主導したので、気の優しい夫であるフランツ一世はうしろに引き、財政・科学・文化・芸術などに傾倒し、
ウィーンのシェーンブルン宮殿の庭造りなどをも趣味としていた。
現代でも婿養子は同じような構造のようでもあるが、王家の家臣からは主人として扱われず客以下でもあったようだ。

ジャカンはこの庭でフランツ一世と出会い、1755-1759年の間、カリブ海の西インド諸島及び中央アメリカに植物探索の旅に派遣され、植物・動物・鉱物などの膨大な標本を収集した。
ジャカン28‐32歳の時だった。
「サルビア・レプタンス」との出会いはこの探検旅行であったのだろう。

リンネ(Carl von Linné、1707-1778)は、この探検のことを聞きおよびお祝いの手紙を出し、ここから生涯のメール友達となった。
もちろん、未知の植物を知りリンネの植物体系を完成させるだけでなく自分の体系を普及する戦略的な意義もあったのだろう。

ジャカンは、1768年にはウィーン植物園の園長、大学教授となり、1774 年にナイト爵に叙され、1806年には男爵になり名誉だけでなく豊かさも手に入れた。

モーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)との出会いは1780年代で、
ジャカンの娘のピアノ教師としてジャカンの邸宅に出入りし、ジャカンの息子Emil Gottfried (1767–1792)とは友人でもあり彼のために二つの歌曲(K520、K530)を作曲したが、版権を売るほど貧乏をしていたので“ゴッドフリートの名で出版された。
また、かなりの作品をジャカン家に捧げたという。

モーツアルトには毒殺されたという謎があるが、“でる釘は打たれるという” 諺どおりに才能のわりには恵まれず35歳という若さで死んだ。
天才少年と誉れ高かったモーツアルト6歳の1762年に、ウィーン、シェーンブルン宮殿にてマリア・テレジアの前で演奏をし、
この時7歳のマリー・アントワネット(正しくはマリア・アントーニア)と出会い愛をささやいたという早熟なエピソードがある。

フランツ一世、モーツアルトとも“妻”という存在に悩んだようだ。
夫のほうから見るとこれを悪妻というが、ここから逃れるためにか功績を残すことになる。
フランツ一世は、ハプスブルク家がもうちょっと長持ちする財政基盤と文化・芸術そしてジャカンを残し、
モーツアルトは数多くの楽曲を残した。

(写真)サルビア・レプタンスの葉と花
        

サルビア・レプタンス(Salvia reptans)、コバルトセージ(Cobalt Sage)
・ シソ科アキギリ属の落葉性多年草で半耐寒性。
・ 学名はサルビア・レプタンス(Salvia reptans Jacq. )、英名がコバルトセージ(Cobalt Sage)、別名はWest Texas cobalt sage。
・ 原産地は北アメリカ、テキサスからメキシコの乾燥した荒地。
・ 草丈は、80-100cmで、花が咲く前に摘心をし、丈をつめ枝を増やすようにする。
・ 開花期は、9~11月で、美しいコバルトブルーの花が咲く。
・ ほふく性と立ち性のものがある。これは立ち性。
・ やや乾燥気味でアルカリ性の土壌を好む。
・ 関東では、冬は地上部が枯れるが腐葉土などでマルチングをして越冬できる。
・ さし芽、或いは、春先に株わけで殖やす。

命名者:
Jacquin, Nicolaus(Nicolaas) Joseph von (1727-1817)、1798年
コレクター:
Harley, Raymond Mervyn (1936-)
Reveal, James Lauritz (1941-) 1975年10月13日採取

        

「サルビア・レプタンス」発見の不思議
キュー植物園のデータベースでは、「サルビア・レプタンス」は、1975年10月にメキシコで発見されている。
発見者は二人で、一人は、キュー植物園の Harley, Raymond Mervyn (1936~) と
もう一人は、メリーランド大学の教授を経てメリーランドにあるNorton Brown 植物園の名誉教授 Reveal, James Lauritz (1941~) となっている。

これが公式なのだろうが、 「ウエストテキサス・コバルトセージ」と呼ぶほどテキサスの花としての誇りを持つ人たちは、自国の発見者ストーリを展開している。

発見時期は明確ではなかったが、「サルビア・レプタンス」を発見したのは、
テキサス生まれのパット・マクニール(Pat McNeal、Native Texas Plant Nursery)で、西テキサスにあるデイビス山脈(the Davis Mountains)で発見したという。

デイビス山脈のマニアのサイトを読んでいると、多様な植物相を持ちえる気候環境化にあり魅力的と感じた。
ここなら、もっと様々なセージなどの目新しい植物があるのではないかと思う。

(写真)デイビス山の光景
 
(出典)ウイキペディア
コメント (6)