彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都・丹波地方「京北町」に行く―明智光秀ゆかりの慈眼寺や周山城址―明智の埋蔵金伝説の地

2020-02-08 11:20:21 | 滞在記

 1月25日(土)夕方から26日(日)の夕方にかけて、妻の実家がある京都市右京区京北町に、妻と共に行き宿泊した。1週間ほどの期間、妻の兄(実家の当主)たちは夫婦で東ヨーロッパを中心とした旅行に出かけ、妻の母(92歳)が一人で留守番をしているということで、妻が食事づくりもしながら母ともゆっくり過ごすためだった。

 25日の夜は、近くに暮らす妻の姉夫妻が暮らす家に行き、一緒に食事をすることとなった。妻の姉・邦代さんや夫の今泉文雄さん、夫婦の娘とその夫も京都市内で暮らす家から来ていた。彼らの幼い娘は可愛らしい。邦代さん・文雄さんとにとって初孫だ。久しぶりに彼らと会えたのは私にとって このうえない喜びだった。

 上記の左端の航空写真、妻の実家のある「山国荘」は、室町時代以降は天皇の御料地だった。室町幕府の権威がなくなり、1467年頃から戦国時代に入り下剋上の世が100年間あまり続く。御料地のここ山国荘は、1570年頃には、ここ京北町一帯で勢力を拡大した宇津氏(豪族)によって横領されていた。そして、織田信長の勢力が近畿に及び、明智光秀に命じて丹波・丹後地方の平定・支配が行われた。この戦いは4〜5年間続く。

 結局、宇津氏は丹波地方反信長連合に組したため、明智軍によって本拠地の宇津城は落城し滅亡した。その後、山国荘は天皇家御料地として復活した。山国荘にある「山国護国神社」の10月の祭礼の時の巡行の先頭には、笛と太鼓の鼓笛隊が行く。京都の10月の時代祭の際に先頭を行く鼓笛隊は、ここの鼓笛隊を模しているものだ。このあたりは今も勤王の志が強くのこる地でもある。

 妻の実家の家からは、目の前に「中江城(山城)」城址のある小高い山が見える。誰が作らせた城なのか 文献資料等がないので、いまだ不明だが、おそらくこの山国荘を支配するために宇津氏によってつくられた山城ではないかと私は推測している。城址の存在を地元の人もほとんど知らない山城址だ。

 古くの歴史をもつ旧家が妻の実家の近くにある。草木家の家だ。江戸時代はこの山国荘の荘屋で、それ以前の戦国時代から続く旧家らしい。武家屋敷のような門があり、倉も二つある立派な旧家だ。妻の話では、けっこう年の近い年上の草木家の子供たちもいたが、地元の山国小学校や京北中学、北桑田高校には通わず、京都市内の学校に通わせていたので、ほとんど一緒に遊んだ記憶はないという。「まあ、このあたりでは、深窓のお姫様のような存在だった」とのことだった。このあたりは、今も、かやぶき屋根の形の屋根をもつ家も多い。この草木家には中江城にかんするなんらかも文献が残っているかも知れない。

 26日(日)の午後3時頃まで妻の実家・高室家で3人でゆっくりと過ごした後、山国地区を後にして車で7〜8分くらいの京北町周山地区にある明智光秀ゆかりの寺、慈眼寺(じがんじ)に向かう。この小さな寺には「黒塗りの光秀木像」と「光秀の位牌」といわれるものがある。

  慈眼寺の背後にある山には、光秀が作らせた周山城の址が石垣とともに残っている。この城址はけっこう大規模な近世城郭の山城で、本丸には天守閣跡を示す礎石も残されている。麓の周山の町からは1時間ほどで本丸に登頂できる。ここは京都の町から若狭・小浜に至る西の鯖街道の中間的要衝の地の一つ(もう一つは美山町の静原地区)となる。明智光秀は、中国古代王朝「周」の名君として名高い王「武王」に自らをなぞらえ、1579年にこの地域を「周山」と名付けた。「くろみつ寺」とも呼ばれる慈眼寺だが、「くろみつ」とは黒い光秀のこと。後世に、反逆者・謀反人としての世間の指弾から世を憚(はばか)るために木像が黒く塗られたとも伝わる。

  「本日、所用のため 拝観を休止させていただきます」の貼り紙が貼られていた。この日は「くろみつ」を見ることはできなかった。

 「光秀と京―入京から本能寺の変へ」「信長、義昭、そして町の人びと」京都市考古資料館・京都市歴史資料館 共同主催(令和2年2月7日~6月21日) 大河ドラマ「麒麟がくる」の放映に合わせて、京都市内の歴史博物館ではも講演会や連続講座などが予定されているというパンフレットがあった。パンフの表紙には「くろみつ」(明智光秀座像)が載せられていた。

  周山の小さな商店街に「亀屋廣清」という老舗和菓子屋がある。この店は、周山城と「くろみつ」・光秀に関することにはとても関心をもって取り組んできた店のようだ。店内に置かれた光秀関連の書籍や雑誌の名前を見れば、その関心の深さがわかる。周山城・明智光秀にちなんだ和菓子も売り出していた。「城山」「明智の埋蔵金伝説 百両小判」など。

 ここ周山には、「明智の埋蔵金伝説」が残っている。1582年6月2日に、光秀は本能寺の変で織田信長を討ち、その後、安土城を接収した際の財宝や金銀も光秀の居城・坂本城に収蔵。山崎の合戦(天王山の戦い)で羽柴秀吉軍と対峙し決戦が迫る中、滋賀の坂本城から京都・山崎の光秀本陣に莫大な軍用金を運ぶ途中で、戦いの帰趨が決してしまい 明智軍敗走、光秀死去の知らせを受けた。

 この軍用金や財宝を牛十数頭で運搬していた進士作兵衛は、進路を急きょ周山城に変更し向かい 周山の明智縁故の寺に運び入れた。そして、腹心の部下5名だけを残し、彼らと共に軍費財宝を"ある場所"に埋める。ところが、埋蔵し終えた夜、野盗に襲われ作兵衛の他はみんな殺されてしまったと伝えられている。明智家再興のために秘匿したとも言われるが、その後の進士作兵衛の行方は不明となったという。いまも周山のどこかに明智の埋蔵金が眠っているという伝説だ。「岩戸苗のその下に こかね三百 しろかね千貫」の言葉も残される伝説だ。(※『全国29か所をリストアップ 埋蔵金を探せ 日本編』(角川文庫) 監修 畠山清行 よりの概略)

 その明智縁故の寺とはどの寺なのか。慈眼寺なのかどこなのか。慈眼寺は中世に創建された曹洞宗の寺だが、廃寺となって、江戸時代の1670年に再建された。その時に、密厳寺(廃寺)より光秀座像(くろみつ)が移されたようだ。どうやら、この密厳寺が明智家縁故の寺のように思う。この寺はどこにあったのか 調べてみたくなった。

 1月23日(木)、京都市伏見桃山の大手筋商店街の中の居酒屋にて、大学の哲学科の先輩・小野さんと泉澤さんの3人で会うこととなった。小野さんからの連絡では、午後4時に京阪電鉄・伏見桃山駅に集合とのこと。こんな時間から営業している居酒屋なんてあるんかな?と思いながら行くと。さすが、大阪の下町出身の小野さんだけあって、そんな店を知っていた。

 大阪の町は朝からも昼からもお酒を飲ませる居酒屋はけっこうあるが、ここ京都の伏見にもそんな店が開店していた。「お昼からノンストップ営業! 11:30〜24:00 年中無休」と書かれている。大阪的な店の中の雰囲気、品書きが店内に張り巡らされている。200品くらいは貼られているだろうか、壮観だ。「串カツ二度漬禁止」も大阪的だ。

  私より2〜3歳先輩の二人なのだが、学生時代から この二人とは長ーいつきあいとなった。この日は4時すぎに店に入り、ビールや日本酒を次々と注文しながら、いろいろな話や議論をしながら、気が付けば午後9時となっていたのでお開きとなった。じつに6時間の居酒屋談義となった。

 

 

 

 

 

 

 


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