たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

古代米の醸造

2020-04-15 09:57:28 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.13 *****

古くから「赤(朱・丹)」という色には、

魔除けの効果があると言われており、

稲荷系神社の鳥居を始め、

水銀朱が塗られた様々な日用雑貨など、

人々は「赤」のパワーを生活の

隅々にまで取り入れてきました。

 

「稲(いね)」という言葉には、

飯の根、生きる根、息の根、

そして命の根などの意味があると聞きますし、

人間の命を守り再生させるような、

不思議な力を秘めた食物が

「赤米」だったのかもしれません。

 

そうなると再び脳裏に浮かんでくるのが、

「崇神天皇の祟り」の件で大物主神に

献上した「日本酒」のことですね。

恐らく、当時の日本酒と言うのは、

現代人がイメージするような透明な

清酒ではなく、赤米などの古代米を

使用した粥状のにごり酒だったと思われます。

 

今回の大嘗祭でも、「白貴・白酒(しろき)」

「黒貴・黒酒(くろき)」という

2種類のにごり酒が奉納されましたが、

古代それらの酒の醸造を担っていたのが、

「造酒童女・造酒児(さかつこ)」

と呼ばれる童女を筆頭とする

専属の女性たちでした。


ひとつの相

2020-04-14 09:52:55 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.12 *****

対馬の最南端にある豆酘(つつ)地区は、

「赤米(あかまい・あかごめ)」

と呼ばれる古代米を使ったお祭りを、

千年以上もの長きに渡り伝えている場所です。

 

全国でも「赤米」をお祀りに用いる場所は

数か所のみと聞きますが、特に「赤米伝来の地」

とも言われるこの対馬の豆酘地区は、

「当受け」「田植え」「お吊りまし」など、

年間を通して神事が執り行われている

「赤米の里」だと聞きました。

 

しかしながら、昨年の秋に行われる予定だった

祭りの中心となる儀式は、神事の祭主を努める

「頭仲間(とうなかま)」の方の急病により、

残念ながら中止となってしまったのだとか……。

つまり、ニニギがもたらしたとされる

「赤米」を使った重要神事の歴史が、

一時的にせよ途絶えてしまったわけなのですね。

 

一説に、皇極天皇の時代にはこの「赤米」が、

新嘗祭等に用いられていたという話ですから、

大嘗祭でも「赤米」が主役だった

時期が確実にあるのでしょう。

もしかすると、対馬という要所で行われる

「赤米神事」の中止は、2020年を暗示する

ひとつの「相」だったのかもしれません。


赤米

2020-04-13 09:47:34 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.11 *****

昨日、天皇の即位儀礼である

「大嘗祭」誕生のきっかけが、

「三輪山の一件」にあったのではないか

という内容を記しました。

ただし、大嘗祭の大元となるような儀式は、

さらに古い「三輪山」以前の時代には、

すでに存在していたとも感じております。

よって、今回は「三輪山以前の古いしきたり」

などをひも解きつつ、「大嘗祭」の成り立ちを

想像してみることにしましょう。

 

以前の記事内で、「大嘗祭は即位後に初めて

催行される新嘗祭(にいなめさい)である」

と書いたように、大嘗祭の核となるのが

「五穀豊穣」の概念です。

中でも、「米(稲)」という作物は、

天照太御神が皇祖であるニニギに授けられた

「食いて活くべきもの」であり、

私たちの祖先は収穫した稲を

「神の賜り物」として大切に食してきました。

 

ちなみに、ニニギという名称は「丹ニギ」

であり、太古の日本の米とは「赤米」

だった可能性が高いのだとか……。

現在も、わずかながらではあるものの、

いくつかの神社の神事において

赤米が使用されているそうです。


天皇と三輪山

2020-04-12 09:43:58 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.10 *****

一般的に「大嘗祭」が成立したのは、

天武天皇から持統天皇に

かけての時代だとされますが、

これまでの経緯を踏まえれば、

「三輪山の一件」が発端となった

可能性も否定できません。

 

ちなみに、歴代の天皇は伊勢の神と同様に、

三輪山の神への崇拝も欠かさなかったそうで、

上皇陛下も譲位される前の

2014年11月に大神神社を参拝されました。

 

また、2016年に橿原神宮を訪れた際には、

昼食会の席で突然「三輪山はどの辺りですか」

とお尋ねになられ、同席した人たちが

慌てて窓を開けて、三輪山の方角を

お知らせしたこともあるのだとか……。

 

上皇后陛下も大神神社への参拝後に、

「背後のお山そのものが御神体である

大神神社の深い静けさや、

御神社に所縁ゆかりのある

花鎮祭りに心引かれたりいたしました」

と感想を述べられたと聞きますし、

「三輪山」という存在が、両陛下の中で

大きな意味を持っていたことは確かなのでしょう。

 

恐らく、大物主神の恫喝を受けて以降、

歴代の皇室には「三輪山への祭祀なくして、

国家安泰は叶えられない」という教えが

根付いているのだと思われます。


向かい干支

2020-04-11 09:17:06 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.9 *****

十二支に登場する「卯」と「酉」は、

いわゆる「向かい干支(裏干支)」

と呼ばれる間柄でして、自分の干支の

「真向いにある干支(子の場合は午など)」

をあしらったものを身に着けると、

幸福が訪れるという俗信が古くから残っております。

 

何でも「向かい干支」は、

自分に足りない性質を補う干支とも言われており、

昔は子供の着物の背中に、

「お守り」として向かい干支の柄を刺繍したそうです。

また、酉年生まれの作家・泉鏡花は、

向かい干支にあたるウサギの品々を

好んで収集していたという話もありますし、

これらの風習を元に考えるなら、

「酉」の要素を秘めた忌部氏が、

自らの不足分を補完するために、

「卯」にこだわった理由も見えてまいりますね。

 

恐らく、「大嘗祭」の日取りを決定したのは、

天皇祭祀を陰から支えていた忌部氏であり、

「三輪山の一件」にも一枚噛んでいたのでしょう。

崇神天皇の守護として「鏡」「剣」

のレプリカを鋳造したり、

大神神社の神官となった大田田根子を補佐して

「卯」の呪術を施したりすることで、

「三輪山の鎮め」を試みたのかもしれません。


秘められた力

2020-04-10 09:09:50 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.8 *****

「卯の日」と「冬至の日」とが重なる

持統天皇5年11月辛卯の日。

満を持して執り行われたのが、

持統天皇の即位儀礼の中心となる

「大嘗祭」でした。このときすでに、

天武天皇の崩御から3年以上の年月が経ち、

表向きは皇位継承が定着していた頃にも関わらず、

なぜか持統天皇はこの日まで

大嘗祭を行わなかったと想像されます。

 

一説に、「卯」が「春」「早朝」

「万物のはじまり」などを示す干支で

あることから、国や自らの繁栄を願って

「卯の日」を選んだという話がありますが、

先日からお話ししている「三輪山の出来事」

を念頭におけば、あの持統天皇が

単に「縁起が良い」という理由だけで、

卯の日を選んだとは思えず……。

恐らくは、「卯の日」の呪術的効果を

見抜いていたからこそ、わざわざこの日を

待って大嘗祭を催行したような気がするのですね。

 

ちなみに、数年前の記事の中で、

「ウサギ」を神使とする阿波の白人神社と、

「トリ」を象徴とする忌部氏との

関係について触れました。もしかすると、

「大嘗祭」にも深く関与したと思われる忌部氏は、

「卯」に秘められた何らかの力を

知っていたのかもしれません。


天皇霊の宿る山

2020-04-09 09:01:03 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.7 *****

『日本書紀』の敏達天皇の巻に、

「三輪山は天皇霊の宿る山だった」

という記述があるそうです。

何でも、敏達十年(581年)、

反乱の罪により三輪山の都へと

連れてこられた蝦夷の首領は、

「天皇霊」への忠誠を誓うために

三輪山を遥拝したとのこと

(この時代にはまだ「天皇」という

概念はなかったとは思われますが……)。

これらの話から、大王家(天皇家)の神が

三輪山に鎮座しているという話は、

人々の間で「周知の事実」だった

可能性が伺えますね。

 

また、当時の「歌」の中には、

「三輪山を見ることで、天皇霊が付着する」

という意味にも受け取れる作品があることから、

この頃の大王家の信仰が「三輪山」と

深く関わっていたことは確かなのでしょう。

恐らくは、崇神天皇の時代に、

天皇家の祖神である「天照太御神」と、

土着の国津神である「倭大国魂神」

を宮中外へと移動させたのち、

天皇祭祀の中心となったのが

「三輪山」だったのかもしれません。

そして、その発端となったのは、

件の「大物主神の祟り」であり、

「卯の日」に行われた三輪山の神事

ではないかと推測されるのです。


三輪山と大嘗祭

2020-04-08 09:51:15 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.6 *****

というわけで、現代の「流行り病」

とも言える新型コロナウイルスと、

崇神天皇の時代に起きた「疫病騒ぎ」とを絡めて、

個人的な妄想をつらつらと述べてまいりました。

 

記事を綴る中で感じたのは、今も昔も

国を揺るがす「元凶」は同じだということで、

古代の人々も現代人の私たちと同じように、

「未知のウイルス」に右往左往しながら、

不安な日々を過ごしていたのでしょう。

 

逆に言うと、古代の人々がどのようにして

「疫病」を克服したのかがわかれば、

ただ怯えるだけの生活から

抜け出せるのかもしれません。

その意味でも「三輪山」という存在は、

非常に興味深い歴史の証人だと

個人的には感じるのですね。

 

そこで改めて考えてみたいのが、

天皇祭祀のすべてが凝縮された

「大嘗祭」という秘儀だと思われます

(ようやく再登場……)。

大嘗祭についてあれこれ調べる中で、

常々疑問に思っていたキーワードが、

実は三輪山ともつながることが判明したのです。


籠の中の鳥

2020-04-07 09:29:23 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.75 *****

改めて「酒」という文字をまじまじと

眺めてみますと、「水」と「酉」という形象が

重なり合ってできていることがわかります。

 

酒造りにきれいな水は欠かせませんから、

文字の中に「水」が入っていることに

関しては納得できますが、

右側の「酉」がいったい何を示しているのか

気になったので調べてみたところ、

「酉(とり)」とは発酵した果実を入れる

「壺(つぼ)」をイメージした古代文字なのだとか……。

 

何でも、「お酒の醸造開始時期」

を意味する漢字を決める際、

たまたま「酉」という文字を選んだとのことで

(諸説あります)、酉を「とり」と読むように

なったのは後年になってからだそうです。

 

ただし、これまでの三輪山の経緯を踏まえますと、

酒の文字に「酉」が入っているのは

非常に意味深でして、たびたび取り上げます

三輪の殿「門」とは、三ツ「鳥」居であり

「酉」のことだと個人的には感じております。

 

「三ツ鳥居」の中に潜む「酉」とは、

つまりカゴメ歌の中に登場する

「籠の中の鳥」でもあるのでしょう。

「酉」が災厄を暗示する文字だとすれば、

籠の中の鳥が飛び立つ「夜明けの晩」とは、

まさしく「卯」の月・日・時間なのかもしれません。


遺伝子の修復

2020-04-06 09:26:29 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.74 *****

三輪山の「三輪」という言葉は、

大神神社の「三ツ鳥居」を暗示させる名称であり、

また「3本鎖DNA」とも深い関わりを持つ……、

と個人的にはイメージしております。

もしかすると、祭祀者として大物主神の祟りを

鎮めた大田田根子は、現在の「茅の輪くぐり」

に通じる神事を考案し、流行り病から

人々を救ったのかもしれません。

 

大物主神にお神酒を捧げる宴席で、崇神天皇が詠んだ

==========================

味酒(うまざけ) 三輪の殿(との)の
 朝門(あさと)にも 押し開かね
 三輪の殿門(とのど)を

==========================

という歌に、ウイルス耐性を得るための

「遺伝子の修復」が示唆されていたとすれば、

私たちが日常的に行う「神道」の禊払いが、

あながち「非科学的」ではないことがわかるでしょう。

 

いずれにせよ、「門」「しめ縄」「ねじれ」

という暗号が深く絡み合った大神神社、

そしてそれらの神事を取り仕切ったであろう

大田田根子という人物が、「疫病封じ」

の秘策を知っていたことは確かなのですね。


3本鎖DNA

2020-04-05 09:22:45 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.73 *****

茅の輪くぐりの元となった「蘇民将来」の物語は、

「門」や「柱」をキーワードとする、

イスラエルの「過越しの祭り」

との関連が噂される逸話です。

恐らく、茅の輪くぐりとは、

仔羊の血を塗った「血の門」を

くぐることと同意義であり、

大神神社の「三ツ鳥居」も、これらの風習を

念頭に置いて造られた可能性もあるのでしょう。

 

恐らく、「門」の下を交差しながら

三回通り抜けられるよう、

あのような不可解な形の鳥居が考案され、

最後にその門扉を閉ざして、「災厄」が

通り過ぎるのを待ったとも想像されるのですね。

 

ちなみに、ワラ束を3本撚り合わせて造る

しめ縄は、「DNAのらせん構造を示す」

という説があるのをご存知でしょうか……。

 

一般的に、遺伝子は「二重らせん構造」

と言われておりますが、近年「3本鎖DNA」

の存在が明らかになってきていると聞きますし、

もしかすると、「しめ縄がつけられた

門(輪)をらせんを描いて通り抜ける」

という日本ならではの風習は、

「遺伝子の修復作用」を促す神事なのかもしれません。


左→右→左

2020-04-04 09:19:47 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.72 *****

なぜ、大神神社に「三ツ鳥居」と呼ばれる、

不思議な形状の鳥居が造られたのかはともかく、

大物主神にお神酒を献上し終えた人々が、

どうやって「三ツ鳥居」を通り抜けたのかを

想像してみると、やはりその様子は

「茅の輪くぐり」と同様の手順

だったような気がいたしております。

 

まずは、中央の大きな鳥居をくぐってから

「左」の小さな鳥居へと移り、

さらには中央を通り「右」の小さな鳥居を

8の字を描くようにしてくぐり抜け、

最後にもう一度「左」の鳥居を通った上で、

門外へと出て行った人々の姿が思い浮かぶのですね。

 

考えてみますと、神社参拝の必須事項である

「手水舎」での作法も、左手・右手・左手と

手のひらで交互に水を受けながら心身を清めますし、

聖域に欠かせない「しめ縄」は、

撚り合わせた二本のワラ束に、

一本のワラ束(合計3本)をねじりながら

完成させます(しかも、左ねじりが多い)。

 

つまり、神道の禊払いには「三回」という数と、

「8の字」や「∞の形」に撚る作業、

さらには「左優位」という条件が

重なっていることがわかるのです。


酒と茅の輪

2020-04-03 09:16:33 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.71 *****

もし仮に、「茅の輪くぐり」という風習が、

大神神社の「三ツ鳥居」と関連するなら、

==========================

味酒(うまざけ) 三輪の殿(との)の
 朝門(あさと)にも 押し開かね
 三輪の殿門(とのど)を

==========================

という歌の「三輪の殿門」とは、現代の

「茅の輪」に相当するものなのかもしれません。

 

大きさの異なる三つの鳥居

(中央には大きめの鳥居、

左右には少し小さめの鳥居)が、

横一列に並び立つ形状の「三ツ鳥居」は、

同じく三つの鳥居を立体的に組み合わせた

「三柱鳥居(みはしらとりい)」とは、

由緒を異にするとも聞きますが、

「三柱鳥居」で有名な京都の

木嶋神社(このしまじんじゃ)は、

近隣の松尾大社と同様に秦氏系の神社ですし、

大神神社と松尾大社は「酒」との縁が深い場所です。

 

「酒」を暗示させる氏族が関わる神社に、

なぜ三つの鳥居を組み合わせた

不思議な建造物が存在するのかを考えると、

やはりそこには、「疫病除け」の重要なヒントが

隠されているのではないかと勘繰ってしまうのですね。


茅の輪くぐり

2020-04-02 09:14:11 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.70 *****

毎年6月30日になると、各地の神社で

「夏越の祓(なごしのはらえ)」

という行事が執り行われます。

その際に登場するのが、「茅の輪」と呼ばれる

茅(ちがや・草)で編んだ巨大な輪でして、

これを手順通りに潜ることで、

知らず知らずのうちに身についた

災厄を振り払うことができるのだそうです。

 

一説にこれらの風習は、「蘇民将来」

の民話から生まれたとも言われており、

スサノオ(牛頭天皇)の申し出を受け、

快く宿を提供した蘇民将来に対し、

スサノオが「腰に茅で造った輪をつければ、

流行り病を避けられる」という

言葉を残して去って行ったことから、

これらの行事が盛んに行われる

ようになったと聞きます。

 

「茅の輪くぐり」のやり方は、

神社によって多少異なるものの、

基本的には丸い輪の中を8の字を描くようにして、

左→右→左と「3回」くぐるのが特徴で、

件の大神神社では榊・杉・松をかかげた3連の輪を、

杉の輪、松の輪、杉の輪、榊の輪の順に巡るとのこと。

恐らく、この大神神社独自の茅の輪くぐりの形式は、

近年にできたものだと思われますが、

一説にこの3連の輪は、三輪山との結界を示す

「三ツ鳥居」を模したという話もあるのでした。


疫病対策のカギ

2020-04-01 09:11:37 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.69 *****

==========================

味酒(うまざけ) 三輪の殿(との)の
 朝門(あさと)にも 押し開かね
 三輪の殿門(とのど)を

==========================

大田田根子を神主として迎え、

臣下に造らせたお酒を大物主神に献上する際、

崇神天皇が詠んだこの歌に、

昨日の「卯と酉の時刻」の暗示を加えますと、

「酉の時刻から夜通し神事を行い、

卯の時刻になったら門を開けて外に出よ」

という暗示が浮かび上がります。

 

さらに、味酒(うまざけ)を

三輪山の水で造った酒に、

三輪の殿門(とのど)を

三輪山の三ツ鳥居に置き換えれば、

「三輪山の水を原料とする酒(薬)を飲み、

三ツ鳥居を潜って下界に戻る」といった

情景も見えてくるでしょう。

 

つまり、このとき崇神天皇が行った神事とは、

水やアルコールを使って場を清め、

鳥居を潜って心身を浄化する

ことだったとも考えられるのですね。

このときに「お酒」が初めて造られたとするなら、

やはり疫病対策には「水」「米」「菌」

「発酵」がカギとなってくるのかもしれません。

 

さらに、三輪の殿門(三ツ鳥居)が

何を示唆しているのかを想像してみると、

私たちも良く知る「あの風習」

がイメージされるのでした。