桑の海 光る雲

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「モスモス」のこと・その8

2005-03-01 18:36:38 | アート・文化
それは突然やって来ました。

編集部からの封筒を手にして、やった、19号でも掲載されるのか、と思い、急いで封を切りました。すると、そこには1枚の便箋しか入っていませんでした。あれ、ひょっとして不採用か、と思って開けてみると、「モスモス」編集担当のOさんの見慣れた字で、「実は、『モスモス』が今度の号を持って閉刊となることに決まり、……」とありました。その時のショックと言ったら・・・・・不採用になったどころの話ではありません。何か、大切なものが心の中からすっぽりと欠け落ちてしまったような、何とも言えない喪失感にとらわれ、しばらくは呆然としていました。

文面には続けて「何かと『モスモス』に関わりの強かった方々にひとことメッセージをいただきたく……」とありました。もちろん並み居る投稿家の中から選ばれての依頼であるわけですが、少しも嬉しくありません。そんな、突然閉刊と言われたって、いったい何を書けばいいんだよ、えーっ?悲しみというより、半ば怒りのようなものが、私の心を支配していました。

時間にゆとりのない私は、どんなことを書けばよいか、すぐにあれこれ考えました。そして思いついたのが、「もう一人の自分を楽しめる」という言葉でした。そして、それをベースに、こんな文章を書いてみました。

「『モスモス』は、もう一人の自分を楽しめる場所でした。ちょっとした芸術家気どりでの投稿でしたが、自分自身の作品を見て、俺ってこんなヤツだったのかと驚くこともたびたびでした。ありがとう、さようなら、『モスモス』。」

もちろんこれでは私の「モスモス」に対する思いをいいつくすことは出来ませんでしたが、字数制限があったので、仕方がありません。(19号を見たら、もっと長い人が何人もいました。字数を無視してまでももっと書けばよかっ た!)

19号がまさか最終号になるとは思いませんでした。18号の奥付では、そんな気配は全くなく、様々なものを募集していました。その中で、演歌の題名と、チェンジ・ザ・ヘアのみ応募しました。閉刊がわかっていれば、無理をしてでもすべてのコーナーに大量の作品を送っただろうに、と思うと、悔やまれてなりませんでした。その中で、チェンジ・ザ・ヘアの採用が決まりました。モデルが藤さんという人だったので、ごく簡単な発想で、富士山型の髪型を考えて送ったものでした。自分としては、こんな簡単な発想の作品が、「モスモス」の最後の作品になるとは、何ともやりきれず、せめて野崎作品(「希望の光」)くらいの作品で最後を飾りたかったと、残念に思うことしきりでした。

そして、完成した「モスモス」19号が送られてきました。手紙には、編集担当のOさんの字でこうありました。
「4号からですか、本当に長い間、いっしょに遊んで頂き、ありがとうございました。こんなにコンスタントに掲載しつづけたのは○○(本名)さんだけですよね。編集室でも”○ッシー”の愛称で通り、かなり楽しませて頂けました。……」
私のようなヤツが編集部でそんなふうに思われていたとは!もちろん、リップサービス、というところもあったと思うけれど、編集に携わってきた人のこういう言葉を聞いて、率直にうれしさを感じました。そうか、そんなふうに呼ばれて、P.Nさくらさんをはじめとする有名投稿家達と一緒に編集部で話題に上っていたのか、と思いました。

私の作品が、他の人からどう思われていたのかは、実はほとんど知りませんでした。学生の頃は、たまに友人がコメントしてくれたことがあったけれど、地元に戻って就職してからは、ペンネームを使っていたこともあって、全く反応がありませんでした。それゆえ、自由な発想で作品が作れたのかも知れませんが。だから、編集部からのこの手紙は、たった一つの、最も正式なところからの、そして最後の、私の作品に対する評価だと思いました。

19号はほとんどいつもと同じ体裁ですが、始め6ページと、最後4ページが最終号仕様です。私が書き送ったコメントは「送辞」として4ページ目に掲載されていました。そこには、錚々たる投稿家達の、閉刊を惜しむ声が書き並べられていました。声、というより叫び、といった方が正しいでしょう。(P.Nさくらは作品を掲載していました。どうやらMVPに選ばれた投稿家の似顔絵のようですが、素顔を明かしたことのない、MVPもお断りした私の顔はもちろん出ていません。)最後のページには、表紙を担当し続けてきた大西重成さん作とおぼしき凧が空に揚がり、詩のような言葉が載っています。その最後は「バイバイ、すごく楽しかったね。」という言葉で締めくくられています。この一言は、投稿家一人一人、そして、「モスモス」を読んできた愛読者一人一人、そして、編集者一人一人の、「モスモス」閉刊を惜しむ気持ちが集約された言葉であるように思われました。

しばらくして「モスモスサーカス」の発刊のお知らせが届きました。ここにも「モスモス」と同じく、投稿コーナーがありました。帯紙の言葉などを投稿し、採用もされましたが、私には何だか敗戦処理のような感じもして、あまり気勢が上がらなかったのを覚えています。「モスモスサーカス」にも、MVPに選ばれた人を中心としたインタビューコーナーが設けられていました。さくらさんやくろこふさんなどが登場していました。MVPお断りの私はもちろんお声がかかりません。ちょっと寂しい気もしたけれど、それ以上に、その時になって、ああ、MVPを断ったことで、編集部の人に何か迷惑をかけてしまったんじゃないか、ということに思い及びました。

「モスモス」への参加は、本当に楽しかった。年に4回という回数もほどよかったと思います。これがあまり回数が多いと、発想の泉が枯渇してしまう恐れがあったと思います。年に4回だったけれど、日常から解放された発想のもとに、何の役にも立たない作品を作って、自分一人ほくそ笑んでいる時間というのは、端から見ればとても変なことだったと思いますが、今思い返すと、ある意味、とても心豊かな時間を過ごせていたように思えるのです。日常の中の非日常、とでも言いましょうか、それとも、日常におけるアクセント、とでも言いましょうか。いずれにしても、そんな、私にとってけっこう大切な意味を持っていた自己表現の場を失った私は、なかなかその心の穴を埋められずに今日まで過ごしてきました。

でも、ご存じの通り、現在では、「モスモス」を懐かしむHPや、そこで様々な人々に出会うことが出来、「モスモス」について語り合うことが出来、あの大西さんにまで出会うことが出来ました。「モスモス」そのものの楽しみではないけれど、「モスモス」をまた違った面から楽しむことが出来ている今日この頃です。


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