連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

チェルノブイリの祈り;スベトラーナ・アレクシエービッチ2015年ノーベル文学賞受賞者著作

2016-03-06 10:51:49 | 日記・エッセイ・コラム
3月1日待ち合わせには間があり、立ち寄った本屋で購入。

何も知らされず、事故処理作業に当たった消防署員の肉体の変化は、
素人の家族が、死に至るまでの肉体の変化を直視し、ありのままに述べた状況の記述に、
過酷な、過酷なとしかいいようがない時間が日常だった。
この本の中で、”あなたの前にいるのは……高濃度に汚染された放射性物体なのですよ。”
”棺はポリ袋にくるまれ、  亜鉛の棺に納め、ハンダ付けをし、上にコンンクリート板のせられます”
”遺体はお渡しできない。国家のものである”
その後は、過酷な現実がもたらした生活の変化が日常となり迫ってきているのだなと、

放射能被ばく患者治療に直接携わった経験はないが、
膨大なエネルギーを浴びた後の肉体変化は、細胞分裂が活発な臓器から障害が起き、生体変化なども、知識として、医療現場では経験していたので、健康体からの日々変化する乖離をリュードミラ・イグナチェンコは愛する人の傍らでという強い心ゆえに見つめ続けられた。
多くの家族は、離され、”死”のみの告知をやむを得ず受け入れさせられた。

サマショールは、退去を迫られても、出ていかなかった。私とネコだけといって住んでいる。
”私の悲しみがわかってもらえてくれただろうかね?”
原発事故で、放射能のために、故郷には永遠に戻れない人たちの現在の環境、心


2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故と重ね合う。
直後の、状況を知らされず(知らせる余裕もないパニック状態であったかもしれないが)、
避難の強制的呼びかけは、共通。
放射能は目に見えない。人がいない、美しい自然が残る7万院の住民の強制退去地に、野生動物があふれているという。
被ばく動物は、拡散するだろう。

1999年 本橋成一監督による”ナージャの村”に自主上映に携わったことがあった。
放射能は、見えず、感じずなので、その後のベラルーシでの、美しいありふれた日常が映像にあふれていた。
でも、被爆している。そこにいるということの影響は、健康障害。いろいろなレベルの健康被害。、
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