28日、定年退職の辞令交付式が執り行われ辞令を、にぎにぎしく受け取ってきました。
自力で生活を続けられ、定年退職を迎えられるという安堵感から、
度々、脳裏をかすめててきた、”あしでまとい!”という言葉と共に現れる、恐ろしい形相の人と共に湧き上がる、恐怖と悲しみから解放され、穏やかな気分でいられる作今。
年齢もありますが、もう46年間も付き合ってきた慢性疾患がありますので、余力はないので、
定年退職後も、慣れた環境で、収入を得られる幸せに恵まれていることを実感し、サポートしていただいた方々に感謝せずにはいられません。
定年を迎えた随筆で、心に残っているのは、
梅棹忠夫氏の学士会法に掲載されていたというおぼろげな記憶にある、
国立民族学博物館長の定年に当たり、”定年は、アフリカ族長時代になぞらえて”近代社会での、聖なる弑逆”と表現した言葉で、館長として助力してくれた職員がもぎ取られることをなげいておられたので、視力低下に伴う不自由がいかに大きいものであったのかと驚き、それにもかかわらず多くの研究を推し進め、継続を望まれていることに、仕事は終わりなく、社会の一助になれる間はし続けようと思ったのでした。
望んでも、”弑逆”の立場に追い詰められる人も少なくなく、持てる力をいたずらに無駄にして過ごしていられる方を慮るに
、
社会人への旅立ち前に、発病し、しかも女性であるのに、国家資格たる医師免許証を取得し、病休を取る暇はない専門分野で間断なく仕事を続けてこられた環境にも恵まれていました。
医学部学生時代の1970年早期に発病し、当時の医学レベルでは、診断は曖昧なままで、
身体活動の制限が加わり、絶望的な状況の中での学生生活であり、
卒業間際の、同級生からの一言(?)で、気を失い、学生時代の記憶のほとんどは消え、
しかし、医師国家試験は、無事合格し、
当時としては、珍しい、週休2日が確保されているという触れ込みの”日立総合病院”に内科医として入社。
自分では、病気もちの女性というハンディを強く認識して、社会人としての第一歩を踏み出した。
医師免許証を持っていることで、収入を得られる職業についていられる幸せは、社会の有様から強く認識してきた。学生結婚を、申し出た、結納先に、”学生ですから親の責任で卒業させ、卒業後に結婚をお願いします。”と、きっぱりと申し出てくれた亡き父に感謝のひとことにつきます。
慣例により、教員のすべてといっても過言ではなく、専門分野の人材補充がかなわずということで、”特任”という名称変更、報酬の大幅ダウンを伴っていながらも、再雇用されます。
特に、2015年度は、大学の体制変更のため、あわただしく、文部科学省への書類審査に間に合わせるということが、最重要課題で、あれよあれよという間に、”定年退職”は、関係の先生方の念頭にあっても、新人材の発掘という行動を起こす余地はないままに、”特任”の道に邁進させられた(やめるという一言をはさむ余地なし!)。
早期退職の道を選択した、同僚は、適任人材確保が出来ず、給与報酬の大幅ダウンを伴った”特任”で、教員生活継続のやむなきに至った。人材確保が出来ないと判明した時期は、秋なので、専任への変更がなぜできないのか、よく理解できない宮城学院規定であった。
ダウン幅は、その前の5分の一より少し多い程度であることが、昨日の辞令交付式後の、特任教員の雇用契約で判明。
とはいえ、収入には無関心だったし、研修時代の極貧生活から、さほど変わらない感覚の毎日、仕事で自由になる時間も少ないし、消費する活動力にも乏しく、
これから先、親と同じ墓に埋葬してもらえる状況で死を迎えられたらばこれ以上の幸せはないかなと。
両親、恩師の死亡診断書を書ける立場で、日々の生活、診療を行えたことは医師冥利につきます。
自力で生活を続けられ、定年退職を迎えられるという安堵感から、
度々、脳裏をかすめててきた、”あしでまとい!”という言葉と共に現れる、恐ろしい形相の人と共に湧き上がる、恐怖と悲しみから解放され、穏やかな気分でいられる作今。
年齢もありますが、もう46年間も付き合ってきた慢性疾患がありますので、余力はないので、
定年退職後も、慣れた環境で、収入を得られる幸せに恵まれていることを実感し、サポートしていただいた方々に感謝せずにはいられません。
定年を迎えた随筆で、心に残っているのは、
梅棹忠夫氏の学士会法に掲載されていたというおぼろげな記憶にある、
国立民族学博物館長の定年に当たり、”定年は、アフリカ族長時代になぞらえて”近代社会での、聖なる弑逆”と表現した言葉で、館長として助力してくれた職員がもぎ取られることをなげいておられたので、視力低下に伴う不自由がいかに大きいものであったのかと驚き、それにもかかわらず多くの研究を推し進め、継続を望まれていることに、仕事は終わりなく、社会の一助になれる間はし続けようと思ったのでした。
望んでも、”弑逆”の立場に追い詰められる人も少なくなく、持てる力をいたずらに無駄にして過ごしていられる方を慮るに
、
社会人への旅立ち前に、発病し、しかも女性であるのに、国家資格たる医師免許証を取得し、病休を取る暇はない専門分野で間断なく仕事を続けてこられた環境にも恵まれていました。
医学部学生時代の1970年早期に発病し、当時の医学レベルでは、診断は曖昧なままで、
身体活動の制限が加わり、絶望的な状況の中での学生生活であり、
卒業間際の、同級生からの一言(?)で、気を失い、学生時代の記憶のほとんどは消え、
しかし、医師国家試験は、無事合格し、
当時としては、珍しい、週休2日が確保されているという触れ込みの”日立総合病院”に内科医として入社。
自分では、病気もちの女性というハンディを強く認識して、社会人としての第一歩を踏み出した。
医師免許証を持っていることで、収入を得られる職業についていられる幸せは、社会の有様から強く認識してきた。学生結婚を、申し出た、結納先に、”学生ですから親の責任で卒業させ、卒業後に結婚をお願いします。”と、きっぱりと申し出てくれた亡き父に感謝のひとことにつきます。
慣例により、教員のすべてといっても過言ではなく、専門分野の人材補充がかなわずということで、”特任”という名称変更、報酬の大幅ダウンを伴っていながらも、再雇用されます。
特に、2015年度は、大学の体制変更のため、あわただしく、文部科学省への書類審査に間に合わせるということが、最重要課題で、あれよあれよという間に、”定年退職”は、関係の先生方の念頭にあっても、新人材の発掘という行動を起こす余地はないままに、”特任”の道に邁進させられた(やめるという一言をはさむ余地なし!)。
早期退職の道を選択した、同僚は、適任人材確保が出来ず、給与報酬の大幅ダウンを伴った”特任”で、教員生活継続のやむなきに至った。人材確保が出来ないと判明した時期は、秋なので、専任への変更がなぜできないのか、よく理解できない宮城学院規定であった。
ダウン幅は、その前の5分の一より少し多い程度であることが、昨日の辞令交付式後の、特任教員の雇用契約で判明。
とはいえ、収入には無関心だったし、研修時代の極貧生活から、さほど変わらない感覚の毎日、仕事で自由になる時間も少ないし、消費する活動力にも乏しく、
これから先、親と同じ墓に埋葬してもらえる状況で死を迎えられたらばこれ以上の幸せはないかなと。
両親、恩師の死亡診断書を書ける立場で、日々の生活、診療を行えたことは医師冥利につきます。