連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

食事をつくる、食事を食べる。

2015-09-01 16:57:47 | 日記・エッセイ・コラム
大学卒業後、仕事に就いてから、
2013年夏まで、食事をつくるということが有りませんでした。
料理が好きな、母と兄が、食事をつくってくれたためでした。
一人暮らしになり、外食の習慣はないので、食べるためには、自分でつくらなくてならなくなり、木が付いたことがあります。

毎日、毎日の食事つくりは、食べさせる人に対する、愛情が詰まっているのだと、あらためて実感しています。

決して同じものはない、変化する自然を相手にして得られた食材。
手をかけて、美味しくあれ、美味しくなれと手をかけて得られた食材。
変化を含んだ食材を、毎日同じように、時には体調に合わせ工夫で、おいしくたべてもらおうという調理技術。

『人間が、生きる基本は、食事』と教えている手前、人目が無いからと言って、食事作りをおろそかにするのは、私の信条としては、相容れません。
美味しいほうが良いけれど、料理が趣味でも、おいしいものが食べたいという欲はなく、
無計画に、食材を買い、
使いきれずに、かといって捨てるのも
”食べ物をを粗末にしてはいけません。罰が当たります”
自分で、野菜つくりをしてみると、生産者の苦労がしのばれ、
残り物を、いかにして使い切るかという思考で、食事をつくることになります。
似たような食事作りですが、
日々異なる、食材を使い切る工面するため、気分は新し実験をしているようで、似て非なる料理ばかりが出来上がります。食べさせなければいけに人がいなくて良かったと思う出来の連続です。

自分で作って、食べるというのは、期待感もなく楽しくないということにも気がつきました。

母の手作りで、市販品より数段勝っていた”いかの塩辛”。
塩がなれるまでねかした、うまみがしみでてくる、そしてねっとりした触感。
再び食べたいという意欲を持って努力中ですが、発酵食品の範疇に入るつくり方で、またいかの塩締めのタイミング、名により鮮度の良イカを手に入れなければいけないという、食材確保に対する不確かさ。

固定収入は確保されていない家庭での食事作り。
持続するモチベーションに敬意です。






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