連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

企業広告の「死ぬときぐらい好きにさせてよ」 が 独り歩きしたら、どうなる?

2016-02-27 16:41:54 | 日記・エッセイ・コラム
宝島社の企業広告 「死ぬときぐらい好きにさせてよ」
http://news.goo.ne.jp/article/withnews/trend/withnews-9016022700001.html
キャッチコピーの下の文面は、
最終的に『“塵”になりたい』樹木希林さんと相談して、決まりました」
今の日本に、いかに死ぬかという視点が抜け落ちていると感じ、今回のテーマとしました。とある。

死と向き合わざるを得ない老若男女といつも向き合う職業を生業としている自分としては、
一人で生き抜いていくことなんてできない。(ルバング島で戦後29年後に日本に帰還した小野田寛郎氏は、”一人では生き延びられない。住民がつくった食料品を奪って生きられたのだ”趣旨の話が鮮烈に記憶に残っている。

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とは、どういうことだろう?
他人の死に無関心でいろ!というようにもとれる。
どこで死んでも、さがすな!ともとれる。
死亡診断書、戸籍からの抹消はどうする!

極めて現実的に死と直面していると、死からまだまだ遠い、実感していない人の戯言のようで、現実味がないキャッチコピー。

人は必ず死ぬ。
明日の保証無く生きている。明日も生きていると、確診がないながらもそう思っているだけで、
明日の生の保証は無い。

大なり小なり人の手を煩わして生きている。
好きに死ねるはずがない。


「死ぬときぐらい好きにさせてよ」、
なにをねらってのフレーズなんだろう?
葬式のわずらわしさを解消したいから?
戒名、墓は宗教的な寄合助け合いコミュニティの最後の居場所。
無縁の人が、宗教的、コミュニティ的寄与もしたくなければ、戒名、墓を希望しなければ良いだけのこと。寺も、求められているから、応じているだけでしょう。

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」 何を期待しているフレーズなのだ!?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする