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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

⑵ 似たような姿勢は「賢治研究」においても

2025-04-27 12:00:00 | 鈴木守からの遺言

〈『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』〉
         【杜撰】 著作で、典拠などが不確かで、いい加減なこと。〈『広辞苑』(岩波書店 第二版)より〉

番外(かつての投稿より)

⑵ 似たような姿勢は「賢治研究」においても(2017-11-23 10:00:00)

 さて、
 大震災にも負けず健気に頑張っている大槌の子どもたちを、賢治精神を発揮して支援しようという募金活動にこの度「宮沢賢治・花巻市民の会」は取り組んできた訳だが、それに対しての「賢治学会幹部」の一連の対応は理不尽なものであり、予想だにできないものであった。つまり、現「賢治学会幹部」はこの度「賢治精神」の実践を圧殺したという事実から、そして同代表理事はあまりにも感情に走りすぎて「賢治精神の実践」を理不尽な理由で叩き潰したという事実から、共に今後逃れることはできないこととなった。
というようなことを前回まで『三陸被災地支援募金を押し潰した賢治学会幹部』というシリーズにおいて論じてきた。すると当然そこで懸念されることは、そのような現「賢治学会幹部」の姿勢はこのことに限ったことではないだろうということである。

 そしてその懸念は、私個人の関係で言えば、〝《「羅須地人協会」の会員等一覧(叩き台)》投稿の経緯〟等で報告したようなことにおいても既にあったのだが、どうもそれは私に対してだけではないということをある著名な地元の賢治研究家から先頃(平成29年11月3日)教わった。
 それはある公の席上でのことである。その賢治研究家が、
 賢治研究においては、ただペーパー上だけで研究するのではなくて、その現場に実際にやって来て、特に地元にお越しになって、しっかりとご自分の目でお確かめになった上で研究を行っていただきたい<*1>。事実関係に全くの誤解がある場合などがございますので。
というような「憂い」を述べたならば、
 理事のお偉方の一人が、あなたは『春と修羅』が解りますか、と三度同じことを私に言った。
とその人は憤慨していたからだ。つまり、「理事のお偉方の一人」が「著名な地元の賢治研究家」に対してけんもほろろに、人を見くだしたような応え方をしたということになろう。

 なんともはや、それほど『春と修羅』がお解りになっておられる理事であればなおのこと、そんな不遜な応え方はないでしょうと私も憤慨した。そして私はこのやりとりを聞き知って、ああやはり似たような姿勢が「賢治研究」においても確実にあるのだということを思い知らされた。まさに「排除の論理」がここにもまたあったのだということになるから、それは「現賢治学会の体質」だということになりかねない。まして、この著名な地元の賢治研究家が「申し上げたこと」は至極真っ当なことだからなおさらにである。これでは、「賢治研究」の発展を損ね、研究の自由を阻害している最大の因の一つに何と現「賢治学会幹部」がある、と詰る人だってあるやもしれぬ。

 よってこれらのことから必然的に、現「賢治学会幹部」が必要以上に地元を蔑ろにしているという実態があるということが導かれる。そしてそれがあるからこのような理不尽や不遜そして不実が時にあるのだということも、である。確かに、増子義久氏が憂えている「植民地主義」の現れの一つだと言える。
 そして実はそれを裏を返せば、
 同「賢治学会幹部」はどうやら地元にかなりのコンプレックスと負い目を持っている。
ということになりそうだ。やはり、「しっかりとご自分の目でお確かめに」なって頂きたいという地元の著名な賢治研究家の「憂い」が正鵠を射ている。

 さて、天国の賢治はこのようなことを新たに知ってどう受けとめているのだろうか。私には、賢治は現「賢治学会幹部」の実態をはますます嘆き悲しんでいるに違いないとしか思えてならない。

<*1:註> このことについては、やはり別の地元の著名な賢治研究家が同じように嘆いていた。
 彼等らは紙の上だけで研究している。それでは良い論文は書けぬ。地元に来て自分の目と足でしっかりと調べろ。
と。 

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れ難いと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円)である。
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