みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

終わりにあたって

2017-11-24 10:00:00 | 三陸
《東ニ病気ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ》(「賢治詩碑」、平成27年10日5日撮影)

 本シリーズ『三陸被災地支援募金を押し潰した賢治学会幹部』を終わるにあたって、次のことを最後に述べたい。

 さて、今回の件は私のことが大きく絡んでいることは否定できないようだ。それは先に述べたように、今回の件を通じて、
    理事の一部から鈴木守は「学会に反対する人」と言われている。
ということが複数のルートで私のところまで聞こえてきたからだ。
 ただしもちろん、私はそのような反対はしていないし、これからもするつもりはない。私はただただ、次のように考えていて、賢治研究の更なる発展を願い、できれば、高瀬露の冤罪を晴らすために少しでも役立ちたいと思っているだけだ。
************************************************
 私のかつての賢治像はどのようして出来上がった。それは、「賢治年譜」や賢治の「定説」そして「通説」等を少しも疑わずに信じ、信じ続けてきたことによってであり、賢治は、「貧しい農民たちのために自分の命を犠牲にしてまでも献身しようとした、類い稀な天才詩人であり童話作家である」だった。そして、「やまなし」「おきなぐさ」「なめとこ山の熊」あるいは「原体剣舞連」「稲作挿話」「和風は河谷いっぱいに吹く」「野の師父」は私の大好きな作品だった。

 ところが、定年を期に私はやっと時間的余裕ができたので、ずっと気になっていた恩師の岩田純蔵教授(賢治の甥)の嘆きに応えようとして、今まで約10年をかけて「羅須地人協会時代」を中心として検証作業等を続けてきたのだがその結果は、常識的に考えておかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。しかもその検証等の結果は、「通説」や「定説」あるいは「賢治年譜」とは違っていたり、正反対なものや果ては嘘のものまでもがあったりした。言い換えれば、本当の賢治を私は一部浮き彫りにすることができた。そこで私は、「賢治年譜」等について一度再検証してみることが不可避であると、例えば、「賢治学会」の幹部に今年の春先のことになるが話したことがある。

 譬えてみれば、「賢治年譜」は賢治像の基底、いわば地盤だが、そこにはかなりの液状化現象が起こっているのでその像は今真っ直ぐに建っていないと言える。当然、それを眺める私達の足元は不安定だから、それを的確に捉えることは難しい。まして、皆で同じ地面に立ってそれを眺めることはなおさら困難だから、各自の目に映るそれは同一のものとは言い難い。したがって、「賢治研究」をさらに発展させるためには、皆が同じ地面に立ててしかも安定して賢治像を眺められるようにせねばならないのだから、まずは今起こっている液状化現象を解消せねばならないという意味での話を、である。そしてそのためには、何はさておき、「賢治年譜」や賢治の「通説」や「定説」を一度再検証せねばならないというようなことを話したことがある。

 ところがそのせいだろうか、同学会の幹部から私は「学会に反対する人物」(そんなことはない、私は今でも同学会の会員だ)と昨今言われているそうだ。あくまでも「仮説検証型研究」の手法に拠って学問的に検証した結果等を伝えたに過ぎず、純粋に「賢治研究」と同学会の発展を願ってそうしただけなのに。
 というわけで残念なことだが、その学会の幹部の方にして斯くの如しだから、私の一連の主張が世間から受け容れてもらえることは今しばらくは難しいであろうことを充分承知している。それは、このような主張は私如きが申すまでもなく、少なからぬ人たちが既に気付いているはずであるのにも拘わらず、このような液状化現象が長年放置され続けてきたことがいみじくも示唆していると私は推測しているからでもある。おそらく、そこには構造的な理由や原因があったし、あるのであろう。それゆえ、私の主張が受け容れられるためにはまだまだ時間がかかるであろうから、私は時が来るのを俟っていてもいいと思っている。つまり、私の検証結果はある一つのことを除いては、評価がどう定まるかは歴史の判断に委ねていいと思っている。

 だが一つだけ、決して俟っているだけではだめなものがある。それは、濡れ衣、あるいは冤罪とさえも言える〈悪女・高瀬露〉の流布を長年に亘って放置してきたことを私達はまず露に詫び、それを晴らすために今後最大限の努力をし、一刻も早く露の名誉を回復してやることを、である。もしそれが早急に果たされることもなく、今までの状態が今後も続くということになれば、それは「賢治伝記」に最大の瑕疵があり続けるということになるから、今の時代は特に避けねばならないはずだ。なぜならばこのことは他でもない、人権に関わる看過できぬ重大な問題だからである。それ故、もし今までどおりこの瑕疵を看過し続けていたり、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで放置し続けていたりするならば、「賢治を愛し、あるいは崇敬している人達であるはずなのに、人権に対する認識があまりにも欠如しているのではないですか」と、私達一般読者までもが世間から揶揄や指弾をされかねない。

 一方で露本人はといえば、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
            〈『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵、大矢邦宣、池野正樹共著、河出書房新社)93p~〉
というではないか。あまりにも見事でストイックな生き方だったと言うしかない。がしかし、私達はこのことに甘え続けていてはいけない。それは、あるクリスチャンの方が、
 敬虔なクリスチャンであればあるほど弁解をしないものなのです。
と私に教えてくれたからだ。ならば尚のこと、理不尽にも着せられた露の濡れ衣を私は一刻も早く晴らしてやりたいし、そのことはもちろん多くの方々も願うところであろう。

 まして、天国にいる賢治がこの理不尽を知らないわけがない。少なくともある一定期間賢治とはオープンでとてもよい関係にあり、しかもいろいろと世話になった露が今までずっと濡れ衣を着せ続けられてきたことを、賢治はさぞかし忸怩たる想いで、嘆き悲しんでいるに違いない。それは、結果的に賢治は「恩を仇で返した」ことになってしまったからなおさらにだ。だから、「いわれなき〈悪女〉という濡れ衣を露さんが着せられ、人格が貶められ、尊厳が傷つけられていることをこの私が喜んでいるとでも思うのか」と、賢治は私達に厳しく問うているはずだ。そこで私は、露の名誉回復のためであることはもちろんだが、賢治のためにも、今後も焦らず慌てずしかし諦めずに露の濡れ衣をいくらかでも晴らすために地道に努力し続けてゆきたい。

 それからまた、かつてはいたく感動していた「稲作挿話」や「野の師父」そして「和風は河谷いっぱいに吹く」に予期もせぬ虚構等があったことを識って、私はもはやこれらの詩には殆ど感動しなくなったから、正直一時期は裏切られたという思いを禁じ得なかった。そこで、こんな嫌な経験をこれからの若者たちにはもうさせたくはないという願いも私の中では強い。本書がそのための一助になれば嬉しい。
************************************************

 さて、天国の賢治は今回のことをどう受けとめているのだろうか。私には、彼は嘆き悲しんでいるに違いないとしか思えてならない。それはなぜかというと、

 はしなくも、現「賢治学会幹部」のこの度の一連の対応によって、被災地の三陸支援をする気など同幹部には始めから毛頭なかったということが露呈してしまったからだ。いや、賢治精神の実践に取り組むつもりもないどころか、あろうことか、逆にその実践を理不尽にも押し潰してしまったからだ。

 残念ながら、いかな賢治といえども、このありうべからざる事実を『賢治学会イーハトーブセンター』の歴史からぬぐい去ることは永久にできなくなってしまった。

 続きへ
前へ 
 “『三陸被災地支援募金を押し潰した賢治学会幹部』の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
《鈴木 守著作案内》
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)          ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

☆『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』










































 



























































コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この憂い、燎原の火となれ | トップ | 「サンデー先生の教え子」さん... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

三陸」カテゴリの最新記事