
〈『ぼくはヒドリと書いた。宮沢賢治』(山折 哲雄・綱澤 満昭著、海風社)の表紙〉
吉田 さて、Y氏はこうも言っている。
(「ヒデリ」と書き変えた)犯人は誰かって問題になるわけですよ。…(投稿者略)…
どうしても、高村光太郎の責任ということになる。ところが、そのことを清六さんがそばで見ているわけです。その状況自体はわかっていたと私なんかには思えるんですけどね。それでも、高村光太郎が結局のところ、最後にそれを選択したと考えてそれに従って、それをそのまま承認したのか、清六さんがやっぱり直しましょうという意見を言ったのか、そういう意見に誰かが賛同したのか、この辺のことがよくわからない。その辺りの議論の中で谷川徹三とか草野心平とか、こういう人がどういう反応をしていたのかというのも、一切不明なんですね。わかっていないんです。
〈『ぼくはヒドリと書いた。宮沢賢治』(山折 哲雄・綱澤 満昭著、海風社、2019年9月15日)33p〉どうしても、高村光太郎の責任ということになる。ところが、そのことを清六さんがそばで見ているわけです。その状況自体はわかっていたと私なんかには思えるんですけどね。それでも、高村光太郎が結局のところ、最後にそれを選択したと考えてそれに従って、それをそのまま承認したのか、清六さんがやっぱり直しましょうという意見を言ったのか、そういう意見に誰かが賛同したのか、この辺のことがよくわからない。その辺りの議論の中で谷川徹三とか草野心平とか、こういう人がどういう反応をしていたのかというのも、一切不明なんですね。わかっていないんです。
しかしこれっておかしいと思わんか。
荒木 ひどいもんだ、あまりにも不公平だべ。その責任を光太郎独りに負わせているからだ。それ以上の責任を負うべき人が他にいるということがほぼ明らかなのに。そもそも、Yさんがそう疑問に感じているのであれば、まずはご自身でもちゃんと調べればいいのに。ちなみに、俺たちでさえも、このことに関する光太郎の次の証言、
令弟宮沢清六さんから詩碑揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取った詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、/さて後に拓本を見ると、あの詩を印刷されたものにある「松ノ」がぬけていたり、その他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿を見ると、その原稿には小生のバウがボウであった事をまた発見しました、/つまり清六さんが書写の際書き違った上に、小生がまた自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違えていた事になります、 (昭和18 川並秀雄宛)
<『高村光太郎 書の深淵』(北川太一著、高村規写真、二玄社、1999年11月30日)111p>を知っているのだから。
吉田 ここは鳥の眼になって光太郎の証言がないものかと、Y氏は必死になって探すべきだったと僕は思うのだが、もうすっかり決め込んでいて虫の眼ばかりになっていたと言える。
鈴木 そこなんだよな、Y氏の主張のよりどころである『宮澤賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)の発行年は2008年、そして今回の『ぼくはヒドリと書いた。宮沢賢治』の発行年は2019年だから、調べるための時間的な余裕はたっぷりとあった。しかも、Y氏の主張は光太郎に濡れ衣を着せることにもなりかねないのだからなおさらに、光太郎の証言を必死になって探すべきだった。そして実際に、光太郎の証言が載っているこの『高村光太郎 書の深淵』が1999年の発行されているのだから。
荒木 しかし彼はそれをしていなかったということだべ。となれば、Yさんはもともとやる気がなかったのだと非難されても致し方なかろう。
吉田 そうなんだよ。前にも僕はついつい言ってしまったのだが、Y氏に対してまことに失礼なことではあるが今回もやはりまた正直に言わせてもらう。宗教学者なのに心がないと言われかねないですよ、と。
鈴木 そうだよ、彼は偉大な宗教学者なのだから、その発言の影響力は甚大だ。だから、他人の主張を喧伝するだけではなく、ご自身でもよくお調べになった上でお話をなさって頂きたい。
そういえばこれに関連して思い出したことがある。
① ほら、『デクノボーになりたい』においてY氏は、
と述べている。
② それから、『17歳からの死生観』においては、
とY氏は言っている。
③ そしてこの『デクノボーになりたい』においては、Y氏に対しての吉田司氏の次のような質問に対して、
と応えている。 私の花巻の実家は、…(略)…賢治の生家とは三〇〇メートルほどしか離れていない。
〈『デクノボーになりたい 私の宮沢賢治』(Y著、小学館、2005年3月)12p〉と述べている。
② それから、『17歳からの死生観』においては、
わたしの実家の寺のすぐそばに、宮沢賢治の生まれた家がありました。百五十メートルぐらいしか離れていなかった。
〈『17歳からの死生観』(Y著、毎日新聞社、2010年2月)14p〉とY氏は言っている。
③ そしてこの『デクノボーになりたい』においては、Y氏に対しての吉田司氏の次のような質問に対して、
吉田 その辺は、どうですか? (Yさんのご自宅は賢治の生家から)三〇〇メートルの近所だったということでは。
Y氏 正確に言えば、一五〇メートルぐらいなんだけれどね。
〈『デクノボー 宮沢賢治の叫び』(Y、吉田司共著、朝日新聞出版、2010年8月)24p~〉Y氏 正確に言えば、一五〇メートルぐらいなんだけれどね。
荒木 えっ、Yさんの実家と賢治の実家との間の距離て一体どっちなんだよ。①では300m、②では150mと言っているが。
鈴木 実際地図上で計ってみると、直線距離で約300mある。
荒木 そっか、吉田氏の言う通りだったのか。ということは、Yさんは2005年3月頃には正しく覚えていたのだが、それから5年後の2010年2月頃には間違えて覚えていたのか。
そうすると、先に俺は、「もしかするとYさん自身は賢治と同じように記憶力抜群で、一度見ればそれを一言一句間違いなく覚えられる能力があるから他人もそうだと思ってるのかもしれんな」と言ったが、それはどうやら俺の買いかぶりで、「それは常識的には無茶な話だべ」と俺が言ったタイプの人だったということか。
吉田 するとご自分でさえもそうなんだから、「光太郎はその手帳に「ヒドリ」と書いてあるのは見たはずですよ」とY氏が推定し、この推定に基づいて、にもかかわらず光太郎は書き間違えたと決めつけることはもはやY氏にはもう許されないというこになりそうだな。もちろん、そもそも光太郎が「ヒデリ」と書き間違えたとか、書き変えたとかいう可能性は限りなくゼロだけどな。
鈴木 まあY氏も人間だから間違うこともあろうが、気になるのは、正しくは300mなのに、そして吉田氏がそう言っているのに、Y氏はそれを否定して150mと言い張っていることだ。
吉田 そこなんだんよな、Y氏は言ったことに対して○△☆×※……。
荒木 今何って言ったんだはっきり聞こえなかったぞ。
吉田 言い換えれば、それと同じようなことが、はたまたあの事件の時と同じことが今回もまた起こってはいませんか、ということだ。
荒木 あっ、そういうことな。はたして基本に立ち戻って光太郎の証言を本気になって探してみたのですか、ということだな。
そっか、やはりこうなると、広中アナの「みんな習ったじゃん。文献をちゃんと一次資料まであたろうよ」という戒めは頗る重要なことなんだ。

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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
本書は、「仮説検証型研究」という手法によって、「羅須地人協会時代」を中心にして、この約10年間をかけて研究し続けてきたことをまとめたものである。そして本書出版の主な狙いは次の二つである。
1 創られた賢治ではなくて本統(本当)の賢治を、もうそろそろ私たちの手に取り戻すこと。
例えば、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」し「寒サノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」ことを実証できた。だからこそ、賢治はそのようなことを悔い、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と手帳に書いたのだと言える。
2 高瀬露に着せられた濡れ衣を少しでも晴らすこと。 賢治がいろいろと助けてもらった女性・高瀬露が、客観的な根拠もなしに〈悪女〉の濡れ衣を着せられているということを実証できた。そこで、その理不尽な実態を読者に知ってもらうこと(賢治もまたそれをひたすら願っているはずだ)によって露の濡れ衣を晴らし、尊厳を回復したい。
〈はじめに〉


………………………(省略)………………………………
〈おわりに〉



〈資料一〉 「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間) 143
〈資料二〉 賢治に関連して新たにわかったこと 146
〈資料三〉 あまり世に知られていない証言等 152
《註》 159
《参考図書等》 168
《さくいん》 175
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