みちのくの山野草

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決して「一九二七年の」とはしていなかった

2019-09-15 10:00:00 | 子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈高瀬露悪女伝説〉は重大な人権問題だ

 もちろん、「昭和六年七月七日の日記」が所収されている『宮澤賢治と三人の女性』は昭和24年の発行だから、森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と記述するところのその訪問は約21年も前のことなので、「一九二八年……」の部分は単なる森の記憶違いということは確かに考えられる。
 ところが、実はそれよりもずっと前の昭和9年発行『宮澤賢治追悼』にもこれと似た内容の森の「追憶記」が載っていて、そこにも
 一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で、昂奮に眞赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
             <『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月28日発行)33p>
と記述されている。つまり、昭和9年頃でさえも森は「一九二八年の秋の日」と記していることがわかる。
 ということは、森の記述どおり下根子桜を訪ねたのが昭和3年の秋にせよ、「現通説」である同2年の秋にせよ、それから約5年半~6年半後に出版された『宮澤賢治追悼』に所収されてこの「追憶記」は活字になっているわけだから、それはそれ程昔の出来事ではない。したがって、森がその年を本来ならば昭和2年と書くべきところを昭和3年と不用意に書き間違えたとは普通は考えにくい。まして昭和9年と言えば、森は岩手日報社の文芸記者として頻繁に賢治に関する記事を学芸欄に載せるなどして大活躍していた時期でもある。そのような記者が、賢治を下根子桜に訪ねた「年」を、その訪問時から6年前後の時を経ただけなのに間違えてしまったというケアレスなミスを犯してしまったというのだろうか。
 しかもさらなる問題が発生する。それは、森は「高雅な和服姿の〝愛人〟」 の中で、
 羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。そこへ行くみちで、私は一人の若い美しい女の人に会った。
             <『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部、 昭和63年)17pより>
と述べている。そして、前後を読んでみればこの「女の人」とは露であることが直ぐわかるし、これも森の「下根子桜訪問」時のことを素材にしていることがわかる。したがってこれは奇妙なことである。それは、この場合でもその訪問時期は通説となっている「昭和2年の秋」となっていないし、しかも、こちらは「昭和六年七月七日の日記」にあるような「一九二八年の秋」でもなくて、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋」、すなわち「大正15年の秋」ということになっているからである。
 しかしながら、この『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃であれば、『校本全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)が発行されてから10年以上も経っているのだから、同巻所収の「賢治年譜」は関係者の間ではもう周知定着していただろう。したがって常識的に考えれば、森が下根子桜を訪問した時期が同年譜では「昭和2年の秋〔推定〕」となっていることや、その通説が「昭和2年の秋」となっていることを森自身が知らなかったはずなかろうと思われるのに、である。

 さてそこで、ここでまでのことを整理してみれば森はその訪問時期については、
・『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)所収「追憶記」 →「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収森荘已池著「追憶記」 →「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年1月)所収森荘已池著「昭和六年七月七日の日記」 →「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月)所収「昭和六年七月七日の日記」→「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部、昭和63年10月)所収「高雅な和服姿の〝愛人〟」 →「大正15年の秋」
とそれぞれに記述していることになり、いずれの場合も通説となっている「一九二七年の秋(昭和2年の秋)」を意味するような記述の仕方は決してしていないことがわかる。ということは逆に言えば、実は森は「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかったということであり、やむを得ず、「一九二八年の秋」としたのではなかろうかという新たな疑惑が生ずる。
 となれば、「賢治年譜」の
    「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という註記をこのまま放置しておくわけにはいかないだろう。もっと踏み込んで、なぜ森は通説となっている「一九二七年の秋の日」と書くわけにはいかなかったのだろうかという疑問に答える必要がある。
 言い換えれば、前回懸念したように、この下根子桜訪問自体が果たして実際に行われていたかどうなのかがさらに危ぶまれことになってきたのである。端的に言えば、「一九二七年の秋」に森は実は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなるということだ。

 そしてその理由と思われるものを私は後に、偶々知った。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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