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《1↑『宮澤賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)》
前回は和田文雄氏の著書『宮沢賢治のヒドリ』を一部引用させてもらった。それは以下のようなものであった。
<19p>
二 土地ことばヒドリ
1 ヒドリは方言でない
ヒドリとよばれる短期または臨時的就労機会は多く土木作業、荷物の出し入れの倉荷作業、そして農繁期に集中的なもので、肉体労働などの苦汁作業をさして用いている。ともに体力のすぐれた者、経験ある者が単純労働であることから重用される。ヒドリは一日働きの作業でも、雇用形態には受取りあるいは小回り、と常傭型がある。…
<20p>
…農業以外の仕事では人格までが評価されるのがヒドリ仕事である。…
<21p>
2 ヒドリの用
南部藩では公用語として使われていた。領民が誰でも使っている言葉で藩政の伝達指示をすることはその効果をつよくする。このころは漢字、漢文、候文で通達や記録を書くから、庶民一般には理解しづらい。「ヒドリ」は「日用取」と書かれた。いまは「手間取」とか「日手間取」とか使われている。また、「日傭稼」とするが「ひやとい」の人夫として説明される。…
<『宮沢賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)>
和田氏のこの著書においては、一般に主語が顕わに書かれていない文が多く、私にはなかなか理解しづらいところがある。
例えば「1 ヒドリは方言でない」の
1 ヒドリは方言でない
ヒドリとよばれる短期または臨時的就労機会は多く土木作業、荷物の出し入れの倉荷作業、そして農繁期に集中的なもので、肉体労働などの苦汁作業をさして用いている。
の部分は言い換えれば、
「ヒドリ」とは短期または臨時的な苦汁作業のことをいい、その作業としては土木作業、倉荷作業、農繁期に集中的に行われる肉体労働などがあたる。このヒドリは方言ではない。
と言いたいと解釈していいのだろうか。
そして「2 ヒドリの用」の
2 ヒドリの用
南部藩では公用語として使われていた。……「ヒドリ」は「日用取」と書かれた。いまは「手間取」とか「日手間取」とか使われている。また、「日傭稼」とするが「ひやとい」の人夫として説明される。
の部分は要約すれば
「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていた。「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。いまは「手間取」、「日手間取」または「日傭稼」といわれるものである。
と言いたいと解釈していいのだろうか。……うん、多分大凡これでいいだろうから、この解釈に基づいて以下の話を進める。
さてこの2点については、和田氏の論ずるかなりの部分私もその通りだと思う。たしかに、農民はしばしば「手間取」、「日手間取」また「日傭稼」と呼ばれる短期的あるいは臨時的苦汁作業に携わってきたし、その作業としては土木作業などがあった。和田氏の言うとおりである。
しかし問題は、
第一に
このような苦汁作業が「ヒドリ」と呼ばれていた。(?) ……①
第二に
「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。(?) ……②
とはたして結論していいかどうかである。
その根拠としようとして和田氏が挙げている資料が、同著71pの「南部藩の「日用取」の指令」なのであろう。
《2 南部藩の「日用取」の指令》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/7a/1ccfa995fd939fe85cc78dbb3c5cf2d0.jpg)
たしかにこの資料ならば、「日用取」は「ヒドリ」とフリガナが振られているし、なおかつこれは南部藩の指令文書なので「日用取(ヒドリ)」は南部藩の公用語であったと思わせられる。ましてこの資料はその道の大家、森嘉兵衛の著書の中にあるというのだからなおさらその信頼度は高い。
これで、和田氏の言っている前掲の①と②からは疑問符”?”を取り去ってよいだろうと安堵しようと思ったのだが、…いや待てよ、ここは慎重であらねばならぬ。
そこで次回は、念のためこの森嘉兵衛の著書『南部藩の百姓一揆の研究』なるもの、そのものを見てみることにしよう。
続きの
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前回は和田文雄氏の著書『宮沢賢治のヒドリ』を一部引用させてもらった。それは以下のようなものであった。
<19p>
二 土地ことばヒドリ
1 ヒドリは方言でない
ヒドリとよばれる短期または臨時的就労機会は多く土木作業、荷物の出し入れの倉荷作業、そして農繁期に集中的なもので、肉体労働などの苦汁作業をさして用いている。ともに体力のすぐれた者、経験ある者が単純労働であることから重用される。ヒドリは一日働きの作業でも、雇用形態には受取りあるいは小回り、と常傭型がある。…
<20p>
…農業以外の仕事では人格までが評価されるのがヒドリ仕事である。…
<21p>
2 ヒドリの用
南部藩では公用語として使われていた。領民が誰でも使っている言葉で藩政の伝達指示をすることはその効果をつよくする。このころは漢字、漢文、候文で通達や記録を書くから、庶民一般には理解しづらい。「ヒドリ」は「日用取」と書かれた。いまは「手間取」とか「日手間取」とか使われている。また、「日傭稼」とするが「ひやとい」の人夫として説明される。…
<『宮沢賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)>
和田氏のこの著書においては、一般に主語が顕わに書かれていない文が多く、私にはなかなか理解しづらいところがある。
例えば「1 ヒドリは方言でない」の
1 ヒドリは方言でない
ヒドリとよばれる短期または臨時的就労機会は多く土木作業、荷物の出し入れの倉荷作業、そして農繁期に集中的なもので、肉体労働などの苦汁作業をさして用いている。
の部分は言い換えれば、
「ヒドリ」とは短期または臨時的な苦汁作業のことをいい、その作業としては土木作業、倉荷作業、農繁期に集中的に行われる肉体労働などがあたる。このヒドリは方言ではない。
と言いたいと解釈していいのだろうか。
そして「2 ヒドリの用」の
2 ヒドリの用
南部藩では公用語として使われていた。……「ヒドリ」は「日用取」と書かれた。いまは「手間取」とか「日手間取」とか使われている。また、「日傭稼」とするが「ひやとい」の人夫として説明される。
の部分は要約すれば
「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていた。「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。いまは「手間取」、「日手間取」または「日傭稼」といわれるものである。
と言いたいと解釈していいのだろうか。……うん、多分大凡これでいいだろうから、この解釈に基づいて以下の話を進める。
さてこの2点については、和田氏の論ずるかなりの部分私もその通りだと思う。たしかに、農民はしばしば「手間取」、「日手間取」また「日傭稼」と呼ばれる短期的あるいは臨時的苦汁作業に携わってきたし、その作業としては土木作業などがあった。和田氏の言うとおりである。
しかし問題は、
第一に
このような苦汁作業が「ヒドリ」と呼ばれていた。(?) ……①
第二に
「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。(?) ……②
とはたして結論していいかどうかである。
その根拠としようとして和田氏が挙げている資料が、同著71pの「南部藩の「日用取」の指令」なのであろう。
《2 南部藩の「日用取」の指令》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/7a/1ccfa995fd939fe85cc78dbb3c5cf2d0.jpg)
たしかにこの資料ならば、「日用取」は「ヒドリ」とフリガナが振られているし、なおかつこれは南部藩の指令文書なので「日用取(ヒドリ)」は南部藩の公用語であったと思わせられる。ましてこの資料はその道の大家、森嘉兵衛の著書の中にあるというのだからなおさらその信頼度は高い。
これで、和田氏の言っている前掲の①と②からは疑問符”?”を取り去ってよいだろうと安堵しようと思ったのだが、…いや待てよ、ここは慎重であらねばならぬ。
そこで次回は、念のためこの森嘉兵衛の著書『南部藩の百姓一揆の研究』なるもの、そのものを見てみることにしよう。
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完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっていれば、そのうちに、英語も上達する。
我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしがなりたたない。
日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境がととのはないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。
日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。
国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。
英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。
一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。
「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。
大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。
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