みちのくの山野草

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『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(第四章)(一部)

2022-02-08 10:00:00 | 「宮澤賢治」検証
第四章 筑摩書房に異議申し立て









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第四章 筑摩書房に異議申し立て

一 おかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった
 ではここからは、〝序章 門外漢で非専門家ですが〟の続きである。
 さて、現「賢治年譜」等において、少なからず見つかる常識的に考えればこれはおかしいと思われる事柄について、基本的には「仮説検証型研究」という手法に依って調べてみたところ、常識的に考えておかしいと思ったところは、ほぼ皆いずれもおかしいということが実証できた。
 そのうちの主な事柄については、例えば、拙著『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)の中の〝第一章 本統の宮澤賢治〟の、
2.「賢治神話」検証七点
  ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
  ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
  ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
  ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
  ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
  ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
  ㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
でも論じているので詳細はそちらで御覧いただくことにして、ここでは紙幅の都合上、以下に簡潔に述べてみたい。

 ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
「羅須地人協会時代」の賢治は独居自炊であった、これが通説であろう。ところが、
 千葉恭という人物が、大正15年6月22日頃~昭和2年3月8日までの少なくとも8か月間を賢治と一緒に暮らしていた。
ということを私は実証できたので、同時代の賢治は「独居自炊」であったとは言い切れない。

 ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
 本書の第三章でも論じたように、大正15年の現定説、
 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
は正しいとは言えず、この12月2日について言えることは、
 沢里武治〔、柳原昌悦〕に見送られながら上京(ただし、この時に「セロを持って」という保証はない)。
ということである。
 なおかつ、セロを持って上京した件についての真実は、
 みぞれの降る、昭和2年の11月頃、「沢里君、セロを持つて上京して来る。今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する」と言って花巻駅から上京。そして、約三か月間に亘るチェロの猛勉強の無理が祟って病気になって帰花した。
である。

 ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 「羅須地人協会時代(2年4か月)」のうちの大正15年も、昭和3年もともに賢治の地元稗貫はヒデリの年であった。そこで、賢治は農民たちのために「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たというのが通説のようだが、そのようなことを裏付ける証言も資料も見つからない。つまり、同時代の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言い切れない。

 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 少なからぬ賢治研究者等が、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」と断定しているが、そのような歴史的事実はなく誤認である。自ずから、同年に賢治が「サムサノナツハオロオロアル」いたはずがない。
 畢竟す(ひつきよう )るに、「羅須地人協会時代」の賢治にとっては、
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
する必然性は乏しかった。

 ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
 「羅須地人協会時代」の賢治は、食味もよくて冷害にも稲熱病にも強いという陸羽一三二号を岩手の農民たちのために推奨し、貢献したというのが通説のようだ。
 しかしながら、同品種は金肥に対応して開発された品種だったから、当時の農家全体の約六割を占めていた小作農や自小作農(つまり貧しい農家)にとっては金肥の購入が容易ではなかったので、彼等のために貢献できたとは言い切れない。
 また、賢治は石灰の施用を奨め、特に「東北砕石工場技師時代」は、貧しい農民たちのために炭酸石灰を安く供給して酸性土壌の田圃を中性にさせ、稲の収量を増してやった、というのが通説のようだ。
 だが、本書の〝第二章 賢治の「稲作と石灰」について〟でも論証したように、そうであったとは言えない。それは、稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、そもそも弱酸性~微酸性だからである。
 畢竟す(ひつきよう )るに、「羅須地人協会時代」や「東北砕石工場技師時代」の賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めていた貧しい農民たちのために貢献できたとは言い難い。

 ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
 賢治が昭和3年8月に実家へ戻った件については、
 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説のようだが、そうとばかりは言えない。
 それは、沢里武治宛書簡 243の中の一言「演習が終るころ」の「演習」とは、同年10月に行われた陸軍大演習であることはほぼ間違いないから、次のような、
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜(しもねこさくら)から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付くし、実際にこの仮説を検証できたからである。

 ㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
 巷間、高瀬露が〈悪女〉であるとされる大きな理由の一つとして、賢治の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕が挙げられる。それは、露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だから「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは露であるという単純で安直な論理によってである。
 しかしこのモデルとしては、露のみならず別に伊藤ちゑも考えられる。なおかつ、賢治周縁の女性の中でクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局のところ、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとして考えられる人物は露とちゑの二人であり、この二人しかいない。
 では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかというと、そのモデルは限りなくちゑである。なぜなら、
・賢治は昭和6年の7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
・それに対して露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたということだし、しかも昭和3年8月に下根子桜(しもねこさくら)から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般に云われている。
から、
・ちゑ:賢治が「結婚するかも知れません」と言っていたというちゑに対して、その約2か月半後に、
・露:「レプラ」と詐病したりして賢治の方から拒絶したと云われている露に対して、その約4年後に、
どちらの女性に対して、あの、「なまなましい憤怒の文字」を連ねたと佐藤勝治が言っているところの、〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を詠むかというと、それはほぼちゑに対してであるとなるのではなかろうか。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。
 したがって、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたということが覗える賢治が、ちゑからそれを拒絶されて、自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた末の憤怒の詩だったと判断するのが極めて自然であろう。つまり、「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことではなくてちゑのことである、という蓋然性が極めて高いということであり、それ故に、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。
 よっておのずから、次の
 〈仮説〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露  に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルではないということをまず実証せねばならない。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、現時点では限定付きの「真実」となる。言い換えれば、露をモデルにしているとは言い切れない一篇の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を元にして、露を〈悪女〉にすることができないのは当然のことだ。

 というわけで、実際に検証してみればみるほど、おかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。だから、これらのことが、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と、私の恩師岩田純蔵教授が嘆いていた事柄に当たるのだろうと推断できた。そしてこれで恩師からのミッションにはある程度応えられたかなと、いくばくか安堵したのだった。

二 検証結果についての評価や反応
 しかし、ここまでの私の一連の検証結果は、『新校本年譜』等の記載、あるいは通説や定説とはかなり異なっていたり、中には正反対だったりということで、そう簡単には世の中から受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。それは、もちろん先の㈠~㈦については自信はあるのだが、かつての私からしても、これらはいずれも皆荒唐無稽なことばかりだからでもある。
 さりながら、〝㈠ 「独居自炊」とは言い切れない〟については、このことを論じた自費出版の拙著『賢治と一緒に暮らした男│千葉恭を尋ねて│』を入沢康夫氏に謹呈したところ、

 これまでほとんど無視されていた千葉恭に御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。(平成23年12月27日付入沢氏書簡)

という評をいただいた。

 また、〝㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について〟も入沢氏からの支持があったから、この主張も案外いい線までいっているはずだと内心自信を持っている。それは何故かというと次のようなことがあったからだ。

 この私の主張は、いわば「賢治昭和二年上京説」であり、それは拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」にも当たる。
 するとその投稿の最終回において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09
「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントをいただいた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知ったからである。つまり、同氏から、チェロ猛勉強のための「賢治昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと私は認識している。

 あるいは、〝㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態〟に関しては、本書の〝第二章 賢治の「稲作と石灰」について〟で言及したように、拙ブログ『みちのくの山野草』の中で、ここ暫くコンスタントに閲覧数の最も多いのが、「稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない」というタイトルの投稿(平成29年1月7日)である。
 ということは、このことに関しては、私の主張の中味の是非はさておき、多くの方々が興味・関心を、そして賢治の稲作指導に対する従来の評価に疑問を抱いているということを示唆していると考えられる。
 言い方を換えれば、賢治の稲作指導法の実態等についての誤解が世間には少なからずある、ということをこの閲覧数の多さが示唆していそうだ。

 そして、〝㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」〟に関しては、東北大学名誉教授大内秀明氏より次のような評をいただいている。

 ところで賢治の「真実」ですが、『賢治と一緒に暮らした男』の第一作に続き、今回はサブタイトル「賢治昭和二年の上京」に関しての『羅須地人協会の真実』でした。と同時にブログでは、「昭和三年賢治自宅謹慎」についての「真実」を、同じような仮説を立てての綿密な実証の手法で明らかにされています。この手法は、幾何学の証明を見るように鮮やかな証明です。実を言いますと、「昭和二年の上京」よりも、「昭和三年賢治自宅謹慎」の方が、現在の問題関心からすると、より強く興味を惹かれるテーマです。このテーマに関しても、すでにブログで「結論」を出されていますし、その後に『羅須地人協会の終焉―その真実』として、先著の補巻のような形で刊行されました。鈴木さんの問題の提起は、「澤里武治宛の宮沢賢治書簡」(昭和三年九月二三日付)の文章にあります。「お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にもはいり、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑に出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。演習がおわるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります。休み中二度お訪ね下すったそうでまことに済みません」ここに出てくる演習について、その意味を探って行きます。以下、簡単に紹介させて貰いましょう。

 「賢治年譜」によると、昭和三年八月のこととして、心身の疲労にも拘らず、気候不順による稲作の不作を心配、風雨の中を奔走し、風邪から肋膜炎、そして「帰宅して父母のもとに病臥す」となっている。しかし、当時の賢治の健康状態、気象状況、稲作の作況など、綿密な検証により、「賢治年譜」は必ずしも「真実」を伝えるものではなく、事実に必ずしも忠実ではない。とくに「賢治の療養状態は、たいした発熱があったわけでもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしていた。」
 では、なぜ賢治が自宅の父母の元で療養したのか?
 「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためであり、賢治は病気であるということにして、実家に戻って自宅謹慎、蟄居していた。
 「例えばそのことは、
  ・当時、「陸軍特別大演習」を前にして、凄まじい「アカ狩り」が行われた。
  ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
  ・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
  ・当時の気象データに基づけば、「風の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」はなかった。
  ・当時の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。」

 以上が、「不都合な真実」に対する本当の「真実」です。ここでも羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。
〈『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を     迎えて』(仙台・羅須地人協会代表大内秀明)31p~〉

 私としては、身に余る評価をいただきすぎて恐縮するばかりだが、私の主張は案外荒唐無稽なものでもなさそうだということを、お陰様で知って安堵した。

 という次第で、先の㈠~㈦等についてはさらに自信を持ったのだが、そこには構造的な問題も横たわっていそうだから、㈠~㈥等の評価がどう定まるかは歴史の判断に委ね、俟っていようと思っていた。

三 〈悪女・高瀬露〉は人権に関わる重大問題
 ただし、〝㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず〟についてはどうかというと、私は従来は次のように考えていた。

 しかし、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉がもし捏造されたものであったとするならば、この件だけは歴史の判断に委ねていていいとは言えない。それは人権に関わる重大な問題であり、先の㈠~㈥等とは根本的に違い、喫緊の課題となるからである。
 そこで私はこの〝㈦〟を敷衍して、〈高瀬露悪女伝説〉を検証してみたところ、この伝説は捏造されたものであることを実証できた。懸念していたとおりであった。
 そこで、〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣だということを世に訴えたいと願って、拙著『本統の賢治と本当の露』の〝第二章 本当の高瀬露〟でこのことを公にした。
 そして同書の「おわりに」において、

 だが一つだけ、決して俟っているだけではだめなものがある。それは、濡れ衣、あるいは冤罪とさえも言える〈悪女・高瀬露〉、いわゆる〈高瀬露悪女伝説〉の流布を長年に亘って放置してきたことを私たちはまず露に詫び、それを晴らすために今後最大限の努力をし、一刻も早く露の名誉を回復してやることを、である。もしそれが早急に果たされることもなく、今までの状態が今後も続くということになれば、それは「賢治伝記」に最大の瑕(か)疵(し)があり続けるということになるから、今の時代は特に避けねばならないはずだ。なぜなら、このことは他でもない、人権に関わる重大問題だからである。それ故、「賢治伝記」に関わるこの瑕疵を今までどおり看過し続けていたり、等閑視を続けていたりするならば、「賢治を愛し、あるいは崇敬している方々であるはずなのに、人権に対する認識があまりにも欠如しているのではないですか」と、私たち一般読者までもが世間から揶揄や指弾をされかねない。
 一方で露本人はといえば、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
〈『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵、大矢邦宣、池野正樹
共著、河出書房新社)93p~〉
というではないか。あまりにも見事でストイックな生き方だったと言うしかない。がしかし、私たちはこのことに甘え続けていてはいけない。それは、あるクリスチャンの方が、「敬虔なクリスチャンであればあるほど弁解をしないものなのです」ということを私に教えてくれたからだ。ならば尚のこと、理不尽にも着せられた露の濡れ衣を私は一刻も早く晴らしてやりたいし、そのことはもちろん多くの方々も願うところであろう。
 まして、天国にいる賢治がこの理不尽を知らないわけがない。少なくともある一定期間賢治とはオープンでとてもよい関係にあり、しかもいろいろと世話になった露が今までずっと濡れ衣を着せ続けられてきたことを、賢治はさぞかし忸怩たる想いで嘆き悲しんでいるに違いない。それは、結果的に賢治は「恩を仇で返した」ことになってしまったからなおさらにだ。だから、「いわれなき〈悪女〉という濡れ衣を露さんが着せられ、人格が貶められ、尊厳が傷つけられていることをこの私が喜んでいるとでも思うのか」と、賢治は私たちに厳しく問うているはずだ。そこで私は、露の名誉回復のためであることはもちろんだが、賢治のためにも、今後も焦らず慌てずしかし諦めずに露の濡れ衣をいくらかでも晴らすために地道に努力し続けてゆきたい。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)
                       140p~〉

と決意を述べて、かなり肩の荷を降ろすことができた。

 すると、この『本統の賢治と本当の露』の出版もあったりしたからであろうか、森義真氏が行った講演『賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』(令和2年3月20日、矢巾町国民保養センター)において、同氏から、
 そうしたところに、上田さんが発表した。しかし、世間・世の中ではやっぱり〈悪女〉説がすぐ覆るわけではなくて、今でもまだそういう〈悪女〉伝説を信じている人が多くいるんじゃないのかなと。しかしそこにまた石を投げて〈悪女〉ではないと波紋を広げようとしているのが鈴木守さんで、この『宮澤賢治と高瀬露』という冊子と、『本統の賢治と本当の露』という本を読んでいただければ、鈴木さんの主張もはっきりと〈悪女〉ではないということです。はっきり申し上げてそうです。
とか、
 時間がまいりましたので結論を言います。冒頭に申し上げましたように、「高瀬露=〈悪女〉」というこれは本当に濡れ衣だと私は言いたい。それについては上田哲さんがまず問題提起をし、それを踏まえて鈴木守さんが主張している。それに私は大いに賛同します、ということです。
〈『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』               (露草協会編、ツーワンライフ出版)8p~〉

と仰っていただいた。そしてまた、この講演録も所収した『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(森 義真、上田哲、鈴木守共著、露草協会編、ツーワンライフ出版)を『露草協会』から出版してもらった。

 これでやっと、恩師岩田教授からのミッションに対してはほぼ果し終えることができたかなと、私は胸をなで下ろしたのだった。それは、ここまで為し終えることができたので、〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣であったということは今後次第に世間から受け容れられてゆくだろうから、以前に取り上げた〝㈠~㈥〟等と同様に、今後は歴史に委ね、焦らずに俟っていればいいのだと自分自身に言い聞かせることができたからである。……私はある時点まではこのように考えていた。

四 『校本全集第十四巻』も『事故のてんまつ』と同じ
 そう考えていたのだが、あることが切っ掛けで私はその考え方を変えた。俟っていてばかりではいけないのだ、とである。
 それは、筑摩書房の社史に、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」と書いてあったことを知ったことによってだ。それも、「腐っていました」ではなくて、「腐りきっていました(傍点筆者)」と書いてあったからである。 

  ……省略……

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