〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)〉
では、今度は新たな項「4 露への憎悪」に移る。矢幡氏は、この項を次のように始めていた。
作品の中に、露との一件がなんらかの形で反映されているように痕跡は見られない。ただ、文通が途絶えて約二年後の「雨ニモマケズ手帳」に書かれた次の詩句が、露との一件を指している、と言われている。
「聖女のさまして/ちかづけるもの/たくらみすべてならずとて/いまわが像に釘うつとも/乞ひて弟子の礼とれる/いま名の故に足をもて/われに土をば送るとも/わがとり来しは/たゞひとすぢのみちなれや」
私は、この詩が、露とのことを書いたものではない、と信じたいような気持ちがある。しかし、「われに弟子の……」というのが、最初露が協会員に紹介を頼んで羅須地人協会に入会した、という経緯を指していると思われるし、大半の論者が、「聖女のさまして」というのが、当初彼女がクリスチャンだったという事実を指している、と解釈している。私もそれにならって受け取るしかない。
〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)156p〉「聖女のさまして/ちかづけるもの/たくらみすべてならずとて/いまわが像に釘うつとも/乞ひて弟子の礼とれる/いま名の故に足をもて/われに土をば送るとも/わがとり来しは/たゞひとすぢのみちなれや」
私は、この詩が、露とのことを書いたものではない、と信じたいような気持ちがある。しかし、「われに弟子の……」というのが、最初露が協会員に紹介を頼んで羅須地人協会に入会した、という経緯を指していると思われるし、大半の論者が、「聖女のさまして」というのが、当初彼女がクリスチャンだったという事実を指している、と解釈している。私もそれにならって受け取るしかない。
そこで私は、最初は「この詩が、露とのことを書いたものではない、と信じたいような気持ちがある」とあったから、嬉しくなった。ところが、次の、
大半の論者がそう言っているから、自分もそれにならって受け取るしかない。
という論理に私はびっくりした。もし、「この詩が、露とのことを書いたものではない、と信じたいような気持ちがある」というのであれば、逆にそれをご自身で確かめていただきたかった。もちろん、多数決でそんなことが決まるものではないはずなのだからだ。とはいえ、
大半の論者が、「聖女のさまして」というのが、当初彼女がクリスチャンだったという事実を指している、と解釈している。
という実態があるということは、私も肯んずるところである。というのは、少なからぬ論者が、露がクリスチャンだったということをもってして、「聖女のさまして/ちかづけるもの」とは高瀬露のことを指すと言っている実態がある。ところが、そのように信じてしまったことによって、延いては、露は〈悪女〉の濡れ衣を着せられてしまったと言わざるを得ない。実際、石井洋二郎氏のあの警鐘、「一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」に従って私が検証してみたところ、「聖女のさまして/ちかづけるもの」は高瀬露にあらず<*1>、ということを私は実証できた。そこで逆に、「当初彼女がクリスチャンだったという事実」については、何を根拠にしているのだろうかと問いたい。もしかすると、書簡下書252a(不5)〔日付不明 小笠原露あて〕中の、
お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。そのうち私もすっかり治って物もはきはきと云へるやうになりましたらお目にかゝります。
に依ってであろうか。あるいは、『校本全集第十四巻』が、「現存しないものがほとんどなので、推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、つぎのようにでもなろうか」といながらも、いの一番に推定した、法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。そのうち私もすっかり治って物もはきはきと云へるやうになりましたらお目にかゝります。
⑴ 高瀬より来信(高瀬が法華を信じていること、賢治に会いたいことを伝える)
に依ってであろうか。
しかし、この件に関しては先に米田利昭氏の指摘と、疑問に触れたところだが、「それに高瀬はクリスチャンなのに、ここは<法華をご信仰>とある」という疑問に対してそれを解消できていないのではなかろうか。というのは、「当初彼女がクリスチャンだった」とは言えないはずだからだ。それは、たとえば、遠野カトリック教会の「洗礼台帳」によってもほぼ明らかなはずだ<*2>。
ただし、ここでこの件に関してこれ以上詳論することは割愛する。もし関心がおありの方は、下掲の『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』を御覧いただきたい。あるいは拙著『本統の賢治と本当の露』(ツーワンライフ出版)を御覧いただきたい。
<*1:投稿者註> もしクリスチャンであるということを根拠にするのであれば、少なくとも露以上に当て嵌まる女性が他にいる。それは、拙著『本統の賢治と本当の露』の中の91p~の、
㈦ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず
を御覧いただければ了解いただけるものと確信している。
<*2:投稿者註> この台帳に関しては、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』の31pをご覧いただきたい。
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『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))
は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております。
あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
☎ 0198-24-9813
なお、目次は次の通り。
〝「宮澤賢治と髙瀨露」出版〟(2020年12月28日付『盛岡タイムス』)
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