みちのくの山野草

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1938 谷川徹三と「雨ニモマケズ」

2011-01-10 09:00:00 | 賢治関連
     <1↑『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)>

 前の”戦時中の「雨ニモマケズ」”では、小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』などを基にして戦時中に「雨ニモマケズ」は国策遂行のため利用されていということなどを述べたが、関連して戦時中に行われた哲学者谷川徹三の講演について少し触れてみたい。
 それは、昭和19年9月20日に東京女子大学で行われた「今日の心がまえ」という演題の講演であり、西田良子は『宮澤賢治論』の中の「雨ニモマケズ」論で次のようなことを記述している。
 谷川徹三は講演の冒頭で「雨ニモマケズ」を朗読し、次のように述べている。
 この詩を私は、明治以後の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思ってゐます。もつと美しい詩、或はもつと深い詩といふものはあるかもしれない。しかし、その精神の高さに於いて、これに比べ得る詩を私は知らないのであります。この詩が今日の時代にもつ殆ど測り知ることのできぬ大きな意味――これは結局宮澤賢治といふ詩人が今日の時代にもつてをる意味でありますが、それをここでお話し致したいのであります。(谷川徹三『宮澤賢治』要書房)
 谷川徹三は、求道者宮澤賢治の人となりや、賢治文学のすばらしさを紹介し、その後で、
 私は「今日の心がまへ」といふ主題から非常に離れたやうであります。主題に少しも触れなかったのではないか、と思っておいでの方もあるかも知れない。しかし、「雨ニモマケズ」の精神、この精神をもしわれわれが本当に身に附けることができたならば、これに越した今日の心がまえはないと私は思ってゐます。(〃)
と結んでいるのである。
 この講演からもわかるように、一九四〇年代の賢治紹介者たちは、礼賛型の人が多く、賢治の実践した捨身的社会奉仕、菜食主義、独身主義など、いかにも求道者らしいストイックな生活に感動し、<賢治菩薩>とよび、賢治の行為を全て崇拝し、賢治の作品すべてを傑作だと賞賛した。
 しかも、「雨ニモマケズ」の中の「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という<忘己><無我>の精神や「慾ハナク」の言葉は戦時下の「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンと結びつけられて、訓話に利用されたりした。その後教科書にも採用されたため、「雨ニモマケズ」は日本中の子どもたちに愛誦されるようになり、宮澤賢治は次第に<聖人><賢者>のイメージを強くしていった。

       <『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)より>
ここで、西田良子は『「慾ハナク」の言葉は戦時下の「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンと結びつけられて、訓話に利用されたりした』と述べていることから、小倉豊文や米村みゆき同様西田も「雨ニモマケズ」は戦意昂揚のために国策的に利用されたと認識していることになる。

 さて、それはそれとしてこのときの賢治を絶賛する谷川の講演内容をもう少し知りたくなったので『宮沢賢治の世界』の中に収録されていた「雨ニモマケズ」の章を見てみた。
 その章の内容はこのときの講演内容そのものでもあり、昭和20年6月には当時の国策協力の出版「日本叢書」(生活社)四として「雨ニモマケズ」の書名で初版2万部も発行された内容ともまったく同じものに違いないと判断した。なぜならば、そこには「昭和19年9月20日東京女子大学における講演」と添え書きがあるし、次のような個所もあったからである。
 (「雨ニモマケズ」の)詩は十一月三日に書かれたものですが、十一月三日に書かれたのも私には偶然とは思えない。十一月三日という日は私共には忘れることができない天長節の日であります。この懐かしいかつての天長節の日に、賢治がこの詩を書いたと言うことに、私は大きな意味を認めたいのであります。…(略)…ここには人に見せるという気持ちは少しもない。これは全く自分のためだけに書いたものです。その意味では願いであると共に祈りであります。その祈りの心の切実さがわれわれを打ったのであります。詩はもともとそういうものがあります。しかしそれを斯くも純粋な表現までに押出したその心の昂揚に、この十一月三日というひにからまる感情が作用していることを私は感じます*。
 *今はもうこうは思っていないが、当時はそう思っていたのでそのままにして置く。

     <『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)より>
つまり、『*』という注意書きがあったのだから、他の部分もそのままになっているだろうと推測出来るからである。
 なお、たしかに11月3日はかつて「天長節」であったが、この11月3日とはもしかするとそうではなくて、法華経あるいは国柱会にとって特別意味を持つ日であるということはなかろうか。なぜなら、
《2 「雨ニモマケズ手帳」(59p~60p)》

   <校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)、筑摩書房より>
の60pには「十界曼荼羅」の略式書写があるからである。「…ワタシハナリタイ」の頁の隣に、見開き状態の隣の頁に曼荼羅があるからである。

 さてこの講演が行われたという昭和19年といえば、もはや第2次世界大戦における日本の敗色は極めて濃厚となっていたはずである。それも9月頃となればなおさらで、日本はB-29の爆撃圏内に入るようになってしまい、いつ空襲を受けるかも知れないという恐怖と不安に人々はおののいていた頃でもあるはず。

 そのような戦況下における「今日の心がまえ」という主題の講演であったことに鑑みれば、このときの谷川の講演内容は谷川自身が言うようにたしかに『主題から非常に離れたやうで』あるようにも受け止められる。聴衆に危機感を煽るでもなく、堪え忍べと声高に迫るわけでもない。逆に、格調の高い話しぶりと内容で、ひたすら宮澤賢治の人となりや賢治文学のすばらしさを紹介しているからである。

 とはいえ、谷川はこの講演で
 「雨ニモマケズ」の精神、この精神をもしわれわれが本当に身に附けることができたならば、これに越した今日の心がまえはないと私は思っています。今日の事態は、ともすると人を昂奮させます。しかし昂奮には今日への意味はないのであります。われわれは何か異常なことを一挙にしてなしたい、というような望みに今日ともすると駆られがちであります。しかし今の日本に真に必要なことは、われわれが先ず自分に最も手近な事を誠実に行うことであります。
     <『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)より>
とも語っているから、全く戦況の開ける見通しのないこの時期、”「雨ニモマケズ」の精神”を身に付けるように心掛けるのが一番良いと谷川は聴衆に示唆していることになる。
 追い詰められた戦況におののいたり気持ちを高ぶらせたりせずに、”「雨ニモマケズ」の精神”に沿って堪え忍びながら、デクノボウと呼ばれるような人であれと谷川は説いているようだ。そして、実は”「ミンナニデクノボウトヨバレ」るような人”こそがこの戦況下では偉い人になるべきだと谷川は主張していたのだろう。
  
 ところで、谷川徹三とはどのような人物なのだろうか。Yahoo百科事典によれば、
 谷川徹三(1895―1989)
哲学者。明治28年5月26日愛知県生まれ。大正11京都帝国大学哲学科を卒業。昭和3年法政大学文学部哲学科教授。昭和38~40年法政大学総長。その活動は幅広く、世界連邦政府運動、憲法問題研究会、科学者京都会議に加わる。ゲーテの人間性と思想に深く共鳴し、美の深さと高さを探究している。宗教的立場は、ゲーテの一切のものに神をみる汎神論で、宮沢賢治への傾倒もそこに由来する。「生涯一書生」をモットーとする。

という人物である。

 ということは、この講演のとき谷川は48歳、法政大学の教授であったことになる。その頃谷川は精力的に数々の著作を世に問うていもいたはず。そのような谷川が、国策遂行、滅私奉公に利用されていて既に巷間知れ渡っていた「雨ニモマケズ」を、戦況危ういこの時期にことさら絶賛したとなれば、賢治の意思と関わらずにその利用を更に加速させたということにも否定できないのではなかろうか。実際、この講演内容は、終戦間近の昭和20年6月には国策協力の出版「日本叢書」(生活社)四として「雨ニモマケズ」の書名で初版2万部も発行された。谷川は「贔屓の引き倒し」をしてしまったのかも知れない。

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