【1↑『中等国語一』(文部省編纂中学校用国語教科書)】
”戦時中の「雨ニモマケズ」”を投稿しようと思って『「雨ニモマケズ手帳」新考』の頁を捲っていたならば、その著書の中に次のようなことが書いてあった。
賢治の身近にいて賢治を敬愛し、その仏教的信仰と作品を対比研究していた佐藤勝治氏は、一九四八(昭和二十三)年「宮沢賢治の肖像」(十字屋刊)に於いて、この詩を日蓮が大曼荼羅の基盤とした「十界」と対照的に解釈して、「全仏教の要約、中心思想である」と論じたが、やがて次第に思索を深めてマルキシズムにふれた結果、一九五二(昭和二七)年「宮沢賢治批判」(十字屋刊)を公にし、この詩を中心とする彼の文学は「どこまでも『祈り』の美しさであり、彼の一生は衆生の悩みを共に悩み共に祈ったところにその貴さがあった。だからそれはいつまでも『問い』に止まって、けっして『答』にはなっていない」とし、この「『祈』に答える道は革命である」と考えるに至った。…(略)…
とにかく一九四五(昭和二十)年、大日本帝国の敗戦と占領軍政開始後は従来の思想統制が解除されたので、賢治に対する価値判断にもかなりの変化が見られたが、その著しいものはマルキシズムないし社会経済的な諸立場よりする批判が従来からの観念的・仏教的立場から偶像的讃仰に対立して生まれたと概言することが出来よう。こうした間にあって素直に自己批判しつつ依然とした純乎とした賢治敬愛の態度を持している佐藤氏の如きは稀なる存在というべきである。この詩に対する敗戦後の今一つの問題は、戦時中に国民の「国策」協力に利用されたのと同様、占領下の義務教育改革による新学制の文部省編纂中学校用国語教科書に採用されたことであろう。内容が変わっても権力体制に奉仕するのが官僚の常であるとはいえ、この採用に当たって原文に「一日ニ玄米四合ト……」とある所の「四」を「三」と変改したのは失笑以上の何物でもなかった。主食配給一人一日二合五勺であったことを、既に当時を知らぬ人の多くなっている現在の為に書き添えておこう。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)>
この文章を読んで気になったのが次の2点である。
(1) その第一は
『原文に「一日ニ玄米四合ト……」とある所の「四」を「三」と変改したのは失笑以上の何物でもなかった』
というところであり、
(2) その第二は
『素直に自己批判しつつ依然とした純乎とした賢治敬愛の態度を持している佐藤氏の如きは稀なる存在というべきである』
というところである。
そして、小倉がここで佐藤勝治のことを稀有な存在であったと言っていることを知って、佐藤のことを少しく調べてみたくなった。その他の多くの人々はそうでなかったということでありなおかつ佐藤は賢治の身近にいたとなれば尚更であったからである。
ただし今回は、以前にもこれは触れたことではあるが、(1)についても一度述べてみたい。
まずは教科書の現物を見てみてみよう。次がその
【2 国定教科書「中等国語一」の扉】
であり、その
【3 〃の目次】
である。
そして、以下が
【4 『三 雨にもまけず』】
【5 〃の続き】
である。なおこの教科書の
【6 奥付】
である。
たしかに、この教科書では『一日に玄米三合』となっている。このあたりの経緯について、中地文氏は『教育面における「賢治像」の形成』の中の(二)「文部省著作教科書登載」に、石森延男の言として次のようなことを載せている。
戦後、わたしは、国定の国語教科書としては、最後のものを編集した。終戦前に使用していた国語教材とは、全く違った基準によってその資料を選ばなければならなかった。日本の少年少女たちの心に光りを与え、慰め、励まし、生活を見直すような教材を精選しなければならなかった。そこでわたしは、まずアンデルセンの作品を考えた。(中略)日本のものでは、賢治の作「どんぐりと山猫」を小学生に「雨にもまけず」を中学生のために、「農民芸術論」を高校生のために、それぞれかかげることにした。この三篇は、新しく国語を学ぶ子どもたちの伴侶にどうしても、したかったからである。
<『修羅はよみがえった』(宮澤賢治記念会、ブッキング)より>
さらに、中地氏は同著で
とはいえ、教科書編纂の過程で、連合国軍総司令部民間情報教育局の係官から「雨にもまけず」の「玄米四合」を三合にするようにと言われ、宮沢家に了解を取りに行ったのは石森延男であった。そのときの状況を回想するした「「麦三合」の思い出」に、石森は「一字のために全文を削除されるより、少しの改めをしても、その精神を、子どもたちに味ってほしかった」と記している。
と述べている。
石森の気持ちも多少分からないわけではないが、『一字のために全文を削除されるより、少しの改めをしても、その精神を、子どもたちに味ってほしかった』からといって、時の権力体制に奉仕するかのように受け止められてしまう恐れのあるこのような行為をするということは如何なものであろうか。他人の作品を恣意的に改竄して権力に諂うかの如き行為を、それもあろうことか文部省の役人が為したことを小倉が苦々しく思い、嗤っているのはもっともなことだろう。
なお、この投稿に関連しては、
・3659 『中等新国語 文学編 二上』より
・一日に玄米三合(改訂版)
という投稿もありますので、どうぞ御覧あれ。
続きの
”佐藤勝治の宮澤賢治批判”へ移る。
前の
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”戦時中の「雨ニモマケズ」”を投稿しようと思って『「雨ニモマケズ手帳」新考』の頁を捲っていたならば、その著書の中に次のようなことが書いてあった。
賢治の身近にいて賢治を敬愛し、その仏教的信仰と作品を対比研究していた佐藤勝治氏は、一九四八(昭和二十三)年「宮沢賢治の肖像」(十字屋刊)に於いて、この詩を日蓮が大曼荼羅の基盤とした「十界」と対照的に解釈して、「全仏教の要約、中心思想である」と論じたが、やがて次第に思索を深めてマルキシズムにふれた結果、一九五二(昭和二七)年「宮沢賢治批判」(十字屋刊)を公にし、この詩を中心とする彼の文学は「どこまでも『祈り』の美しさであり、彼の一生は衆生の悩みを共に悩み共に祈ったところにその貴さがあった。だからそれはいつまでも『問い』に止まって、けっして『答』にはなっていない」とし、この「『祈』に答える道は革命である」と考えるに至った。…(略)…
とにかく一九四五(昭和二十)年、大日本帝国の敗戦と占領軍政開始後は従来の思想統制が解除されたので、賢治に対する価値判断にもかなりの変化が見られたが、その著しいものはマルキシズムないし社会経済的な諸立場よりする批判が従来からの観念的・仏教的立場から偶像的讃仰に対立して生まれたと概言することが出来よう。こうした間にあって素直に自己批判しつつ依然とした純乎とした賢治敬愛の態度を持している佐藤氏の如きは稀なる存在というべきである。この詩に対する敗戦後の今一つの問題は、戦時中に国民の「国策」協力に利用されたのと同様、占領下の義務教育改革による新学制の文部省編纂中学校用国語教科書に採用されたことであろう。内容が変わっても権力体制に奉仕するのが官僚の常であるとはいえ、この採用に当たって原文に「一日ニ玄米四合ト……」とある所の「四」を「三」と変改したのは失笑以上の何物でもなかった。主食配給一人一日二合五勺であったことを、既に当時を知らぬ人の多くなっている現在の為に書き添えておこう。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)>
この文章を読んで気になったのが次の2点である。
(1) その第一は
『原文に「一日ニ玄米四合ト……」とある所の「四」を「三」と変改したのは失笑以上の何物でもなかった』
というところであり、
(2) その第二は
『素直に自己批判しつつ依然とした純乎とした賢治敬愛の態度を持している佐藤氏の如きは稀なる存在というべきである』
というところである。
そして、小倉がここで佐藤勝治のことを稀有な存在であったと言っていることを知って、佐藤のことを少しく調べてみたくなった。その他の多くの人々はそうでなかったということでありなおかつ佐藤は賢治の身近にいたとなれば尚更であったからである。
ただし今回は、以前にもこれは触れたことではあるが、(1)についても一度述べてみたい。
まずは教科書の現物を見てみてみよう。次がその
【2 国定教科書「中等国語一」の扉】
であり、その
【3 〃の目次】
である。
そして、以下が
【4 『三 雨にもまけず』】
【5 〃の続き】
である。なおこの教科書の
【6 奥付】
である。
たしかに、この教科書では『一日に玄米三合』となっている。このあたりの経緯について、中地文氏は『教育面における「賢治像」の形成』の中の(二)「文部省著作教科書登載」に、石森延男の言として次のようなことを載せている。
戦後、わたしは、国定の国語教科書としては、最後のものを編集した。終戦前に使用していた国語教材とは、全く違った基準によってその資料を選ばなければならなかった。日本の少年少女たちの心に光りを与え、慰め、励まし、生活を見直すような教材を精選しなければならなかった。そこでわたしは、まずアンデルセンの作品を考えた。(中略)日本のものでは、賢治の作「どんぐりと山猫」を小学生に「雨にもまけず」を中学生のために、「農民芸術論」を高校生のために、それぞれかかげることにした。この三篇は、新しく国語を学ぶ子どもたちの伴侶にどうしても、したかったからである。
<『修羅はよみがえった』(宮澤賢治記念会、ブッキング)より>
さらに、中地氏は同著で
とはいえ、教科書編纂の過程で、連合国軍総司令部民間情報教育局の係官から「雨にもまけず」の「玄米四合」を三合にするようにと言われ、宮沢家に了解を取りに行ったのは石森延男であった。そのときの状況を回想するした「「麦三合」の思い出」に、石森は「一字のために全文を削除されるより、少しの改めをしても、その精神を、子どもたちに味ってほしかった」と記している。
と述べている。
石森の気持ちも多少分からないわけではないが、『一字のために全文を削除されるより、少しの改めをしても、その精神を、子どもたちに味ってほしかった』からといって、時の権力体制に奉仕するかのように受け止められてしまう恐れのあるこのような行為をするということは如何なものであろうか。他人の作品を恣意的に改竄して権力に諂うかの如き行為を、それもあろうことか文部省の役人が為したことを小倉が苦々しく思い、嗤っているのはもっともなことだろう。
なお、この投稿に関連しては、
・3659 『中等新国語 文学編 二上』より
・一日に玄米三合(改訂版)
という投稿もありますので、どうぞ御覧あれ。
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