みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1921 「下ノ畑」・「渡舟場」と豊沢町家並

2010-12-28 09:00:00 | 賢治関連
     《1 『大正期の花巻地図』(抜粋)》
               <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>

 以前”「下ノ畑」と「渡舟場」探し”において
《2 五万分の一地形図『花巻(抜粋)』(大正2年測図同14年鉄道補入)》

      <五万分の一地形図『花巻』(昭和22年地理調査所発行)より>
を基にして、「下ノ畑」や「渡舟場」を探してみたが、結局その場所を特定できなかった。

 ところがたまたまこの度『大正期の花巻地図』というものを見ることが出来た。それがこのブログの先頭の地図である。そして、そこには「賢治自作畑(下の畑)」や「渡し場」も記載されている。もちろんそれぞれ「下ノ畑」と「渡舟場」に相当するのであろう。
 ただし、これらの2つの地図を重ねてみるとこの2つの地点及び羅須地人協会跡の位置がそれぞれ一致しないような気もするが、少なくともこの色刷りの地図からは当時の下根子の景がより鮮やかに浮かんでくる。
 実際のこれら2ヶ所の特定できないでいるわけだが、地図上では「下ノ畑」についてはおおよそ、「渡舟場」についてはほぼ特定できたというこにすることにしたい。

 なお、『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)には
《3 『大正10年頃の豊沢町町並図』》

も載っていた。当時の豊沢町の家並だけでなく、それぞれの職業も知ることが出来て大正時代の豊沢町の人たちの生活が垣間見えてくる。因みに宮澤賢治の実家は「質(宮澤)」となっている。

 続きの
 ”平成23年の下根子桜”へ移る。
 直前の
 ”最上共働村塾”に戻る。
 以前の
 ”「下ノ畑」と「渡舟場」探し”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1919 最上共働村塾 | トップ | 1923 南城共働村塾補足 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治関連」カテゴリの最新記事