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1 「新校本年譜」による検証

2024-01-31 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京















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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
第三章 仮説の検証(Ⅰ)

 さて、通説からすれば全く荒唐無稽なことだと嗤われることは十分承知の上で仮説「♣」を立ててみた訳だが、ここからはその検証を始める。

1 「新校本年譜」による検証
 実は、私がこの仮説「♣」を立てた裏には、以前から「新校本年譜」等の昭和2年の12月前後の記載事項の少なさ、出した書簡の少なさ、詠んだ詩の少なさが気になっていたこともある。一体賢治はこの頃何をしていたのだろうかと疑問に思っていたからだ。他に何かをやっていたのではなかろうかと、単純に想像していたのである。
 昭和2年の12月前後の賢治
 ちなみに、「新校本年譜」の昭和2年12月において記載事項がある日は2日しかなく、それも
・12/21 盛岡中学の校友誌に賢治の詩が載った。
・12/26 「新潟新聞」に「詩集展」の出品者の一人として名     前が載った。
というだけの内容である。その日に「詩が載った」ということはその日に「詩を詠んだ」ということではないのだから、そこからは賢治の同年12月中の営為が具体的に見えてくるようなものは何一つない。「新校本年譜」による限りこの頃の生身の賢治は年譜から完全に蒸発していると言ってもよさそうだ。
 ならば書簡に関してはどうだろうか。前年の大正15年であれば12月の書簡は多かったはずだから、昭和2年についてもその月のそれを見てみれば何か判るかもしれない。そう思って、書簡集である『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)をひもといてみた。すると昭和2年に賢治が出した書簡は極めて少ないことがわかるし、なんと昭和2年12月付のものは全く載っていないことも知ることができる。残念ながら何ら目新しい情報は得られなかった。ついでに同書簡集をもう少し調べてみたならば、この当時の書簡数は少なくて、例えば昭和2年5月~昭和3年春頃までに賢治が出したものは
・昭和2年7月19日付 福井規矩三宛て
・ 〃 10月21日付 「ご不用レコードを交換ねがひます」という意味の書面
の2通だけであった。まさかこれほどまでに少ないとは…。
 では当時の賢治は詩や童話の創作に没頭していたのであろうか。そのことを「新校本年譜」によって調べてみたならば前記の「盛岡中学の校友誌に賢治の詩が載った」こと以外の記載はない。結局この頃に賢治が詠んだ詩があるとは「新校本年譜」には書かれていない。また、童話などの創作があったということも同様それには記載されていない。となれば、賢治はこの当時創作に没頭していたとも言えなさそうだ。
 それでは、賢治は「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」は農業の指導等でてんてこ舞いだったのだろうか…。これが、もし大正15年~昭和2年の農閑期のことであったならば賢治は羅須地人協会の活動のために多忙であったからまさしくそうであったであろう。しかし「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治はそのような協会の活動はもうしなくなっていたはずだから、そのためにこの期間が忙しかったということもないはずだ。
 あるいはまた、昭和3年の3月頃ならばその頃の賢治は石鳥谷塚の根肥料相談所で行っていた肥料設計のために極めて多忙だったはずだが、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」にそのようなことが行われたという証言も記録もないはずである。つまるところ、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治が肥料設計で極めて忙しかったという明らかな証言や資料等はなさそうである。
 よって、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は書簡は出していなかったし、詩も詠んでいなかった、童話も書いていなかったようだし、かといって肥料設計等の農業指導をやっていた訳でもなさそうである。
 透明な存在の賢治
 さて、どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治の営為は見えてこない。不思議だ。そこでもう一度「新校本年譜」を見直して、「下根子桜時代」のうちの「昭和2年9月~昭和3年2月」の年譜を表にしてみた。それらが以下の【表1】~【表3】である。
 そこからは、ものの見事に「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間が全く空白であることが一目瞭然である。しかし待てよ、「下根子桜時代」のこの季節というのもはもともとそのような程度の活動だったのかもしれない。
 ならばと、一年前の同じ頃の賢治の営為はどうであったのであろうか、同様の表を作ってみた。それらが【表4】~【表5】であり、「下根子桜時代」の「大正15年11月~昭和2年2月」の賢治の営為が見えてくるはずである。
 そしてこれらの両者を比較してみると、一年前の表からは同期間の賢治の活発な活動振りが見えてくるので、逆にますます「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」の3ヶ月余の空白が際立ってしまう。どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は全く透明な存在になってる。一体賢治は何を考え何をやっていたのだろうか。
 このことは逆から見れば、「宮澤賢治は昭和2年11月頃から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京」していたということは時間軸上からすれば十分にあり得ることになる。この空白にそれをちょうどすぽっと当て嵌めることができるからである。
 最初は、荒唐無稽なことだと嗤われる思っていたが、もしか
すると仮説「♣」は案外検証に耐え得るかもしれない。
 とまれ、「新校本年譜」によって仮説「♣」が直接検証できた
訳ではもちろんないが、少なくとも「新校本年譜」はこの仮説の
【表1 昭和2年9月~10月の宮澤賢治】

【表2 昭和2年11月~12月の宮澤賢治】

【表3 昭和3年1月~2月の宮澤賢治】

【表4 大正15年11月~12月の宮澤賢治】

【表5 昭和2年1月~2月の宮澤賢治】

反例とはほぼならないであろうということを知ったことは、私にとってはとても大きな最初の一歩だった。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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