みちのくの山野草

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仮説を裏付けている賢治自身

2024-05-20 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 さてここまで検証してみた限りでは、この
〈仮説:昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
を裏付けてくれるものは少なからず見つかるのだが、一方でその反例は見つかっていない。
 しかも、この仮説をさらに強力に裏付けてくれるある人の有力な証言がまだある。ではその人とはだれか? それは他でもない賢治自身であり、昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(243)で述べている、
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。
    …(投稿者略)…
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
の中の一言「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」が、他でもないその証言である。
 なぜならば、この「演習」とはあの「陸軍大演習」のことであるということがまず間違いないということを私は先に明らかに出来たので、この一言の意味するところは、
 10月上旬に行われる「陸軍大演習」が終わるころ再び「下根子桜」に戻る。ただし、そこに戻ったならば今までとは違い、創作の方を主にする。
という決意を述べているとほぼ言えるから、この一言はこの〈仮説 ○*〉の妥当性を強力に裏付けていることになろう。
 もう少し丁寧に言うと。もし従前言われてきたとおりに「遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す」ということであれば、「下根子桜」に戻るのは病気が治ったならばと当然なるはずだが、そうではなくて、「演習が終るころ」にと愛弟子に伝えているからである。まして賢治は、「やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました」と9月23日時点で述べているのだから、この書簡では、例えば「かなり体調も良くなったので間もなくまた根子へ戻って……」というような書き方をするのが普通であろう。ところがやはりそうではなかったからである。

 もちろん、当時の賢治は体調が優れなかったことはほぼ事実だろうが、それ程重症だったわけでもないこともまた同様であったことは先に検証できている(宮沢清六のあの証言、「特にこちらから迎えに行ったという記憶はないですねえや、佐藤隆房の、賢治は「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました」という証言等をご覧あれ)からますます、賢治が実家に戻った真の理由は病気のせいなどではなくて「当局に命じられて、演習が終わるまでは実家に戻って謹慎していなければならなかった」からだということを先の「一言」が一層強く示唆してくれる。
 そもそも、なぜ賢治が官憲からマークされていたかといえば、それは実家に戻る前までは労農党稗和支部の「強力なシンパ」以上の存在であり、しかも周りからいわゆる「アカ」と見られるような活動をしていたからであったことはほぼ明らかだ。それがゆえに賢治は「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」に遭って当局から「自宅謹慎」をさせられたということになれば、その演習が終わったとしても爾後それまでと同じような活動が許されないことは当然だったであろう。そしてそのことを賢治の「一言」の中の「根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」がこれまた示唆してくれる。もはや賢治がそれまでのような活動が許されないことを賢治は承諾し、「下根子桜」に戻ったならばそれまでとは違って創作の方を主にすると決意したから愛弟子にもそう伝えたのだ、ということをである。
 というわけで、実は賢治自身がこの〈仮説 ○*〉の妥当性を強力に裏付けてくれていると言える。そして、もしこれが事の真相であったとするならばそのような賢治の変節については多少違和感はあるものの、それはそれほど責められるべきことでもなかろう。なにしろ同じような立場におかれたならば私はいともたやすくにそうしかねないからだ。
 しかも、私(鈴木 守)の岩手大学時代の同期生であるM氏が賢治の甥岩田純蔵教授に『賢治はどんな人でしたか』と強引に訊ねたところ、先生は『普通の伯父さんでしたよ』と教えてくれたということをM氏から聞いていた(平成25年9月1日於A館)こともあり、賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったためだったというよりは、その真相は「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」に対処するためであったとしても、賢治だって基本的には我々と同じ、普通の人間だったのだということなのだろう、と捉えて構わないのだと私は安堵した。そしてなによりも、そのような身の処し方をする賢治の方がかえって身近な存在と感ずることができて、賢治は実はとても愛すべき人間だったのだと思えてくる。しかも、彼の残した作品には極めて素晴らしい作品があまたあるのだからなおさらにである。

 とまれ、当時の賢治は体調が優れなかったことはほぼ事実だろうが、それ程重篤だったわけでもないことを私は先に検証できているので、賢治が実家に戻った真の理由は病気のせいなどではなくて、「当局に命じられて、演習が終わるまでは実家に戻って謹慎していなければならなかった」からだということを先の「一言」が、つまり賢治自身が一層強く示唆してくれている。

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