〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)〉
当時の新聞報道によっても訪問は無理だと
鈴木 では今度は、当時の新聞報道によってこの件を検証してみたい。
荒木 えっ、まだ検証を続けるのかよ。もうここまでの考察の結果、件の「秋の日」の下根子桜訪問は「羅須地人協会時代」にはほぼあり得なかった、ということが明らかになったというのに。
鈴木 だって、さっき宣言しただろう。『それは、さらにもっともっと徹底して検証することだ』と。
吉田 そうか、僕はさっき『鈴木、何かいい考えはないか』と訊いたわけだが、始めからこのことも織り込み済みでの答え、『ないわけではない』だったのか。
鈴木 ちょっとあざとかったかな。
吉田 満々としてやられたな。こうなってしまうと半分は僕の責任か。
荒木 吉田にはねえよ。
吉田 いやよくよく考えて見れば、私が『だからこうなったならば、僕等は僕等に出来ることをやろうじゃないか。鈴木、何かいい考えはないか』と他人任せの発言をしたことが発端だから、責任逃れをするつもりはない。だからここは僕に免じて、荒木も少し一緒に付き合ってくれよ。そして、そもそもこの話し合いは、最終的には高瀬露の濡れ衣を晴らすためなのだから。
荒木 そこまで吉田に頼まれたのでは、しかも、露の冤罪を晴らすことに繋がるというのであればやむを得ん。付き合ってやっか。
鈴木 では。
森が「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった理由は、森の病状がかなり思わしくなかったことが当時かなりの程度世間に知られていたことにもあったからに違いないと私は直感した。そこで昭和2年当時の新聞報道を漁ってみたならば、次のような報道があった。
♦昭和2年4月7日付『岩手日報』
「盛岡から木兎舎まで」 石川鶺鴒
岩手富士を拝して、遠く霞んでゐる暮色の中に、その時私の頭にやはり郷土の誇りを思ひ浮かべられた。啄木の事も、原敬の事も、それから子供らしく姫神山の事も。
その時の四人は黙つて橋上の暮色に包まれて居たと思ふ。
その時の一人森君は今、宿痾の爲、その京都の樣な盛岡に臥つてゐる。昨春上京以來詩作は日本詩にもちよいちよい發表して居たが、殊にも今年は『文藝時代』にもなんとかある筈だつたとの事であるが病氣には勝てなくて、意企半ばに歸鄕されたのはなんと言つても、われわれの損失であつた。…(筆者略)…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
♦昭和2年5月19日付『岩手日報』岩手富士を拝して、遠く霞んでゐる暮色の中に、その時私の頭にやはり郷土の誇りを思ひ浮かべられた。啄木の事も、原敬の事も、それから子供らしく姫神山の事も。
その時の四人は黙つて橋上の暮色に包まれて居たと思ふ。
その時の一人森君は今、宿痾の爲、その京都の樣な盛岡に臥つてゐる。昨春上京以來詩作は日本詩にもちよいちよい發表して居たが、殊にも今年は『文藝時代』にもなんとかある筈だつたとの事であるが病氣には勝てなくて、意企半ばに歸鄕されたのはなんと言つても、われわれの損失であつた。…(筆者略)…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
「弘道君と初對面の事ども」 織田秀雄
二人の間には、あらゆる話が持ち上がる。
仙臺の事、メーデーの事、同人雜誌が長つゞきしない事、中央の歌人達の事、白秋さんの座談のうまいこと、酒をのむこと、牧水がどうの、或いは急に岩手にもどつて病で歸鄕してる森君の事、幹次さんの事
♦昭和2年6月5日付『岩手日報』二人の間には、あらゆる話が持ち上がる。
仙臺の事、メーデーの事、同人雜誌が長つゞきしない事、中央の歌人達の事、白秋さんの座談のうまいこと、酒をのむこと、牧水がどうの、或いは急に岩手にもどつて病で歸鄕してる森君の事、幹次さんの事
「『牧草』讀後感」 下山清
森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
♦昭和2年6月16日付『岩手日報』森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
「郷愁雑筆」 上田智紗都
五月の末ぽつかりと花巻に歸つてきたら、やはりはなれがたいふるさとだつた。…(投稿者略)…
いつも考へてゐながら森佐一には一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。
五月の末ぽつかりと花巻に歸つてきたら、やはりはなれがたいふるさとだつた。…(投稿者略)…
いつも考へてゐながら森佐一には一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。
(終)
したがってこれらの一連の報道からは、森は病気のために帰郷し、重病だったので病臥していたことが当時かなり世に知られたということになろう。しかも森は、「岩手詩人協会」を設立して同人誌「貌」を発行していたということだから交遊関係も広く、「一九二七年」頃の森は長期療養中だったことは詩友の間では特によく知られていたことがこれで確実だろう。吉田 しかも、森からはさんざん世話になったあの下山清が「森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院した」と言っているくらいだから、これは事実であったであろうと判断できる。また、
脚気衝心:脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を来たし、多くは苦悶して死に至る。(『広辞苑 第二版』より)
ということだから、当時の森荘已池はかなり重篤であった。
とも言えよう。
鈴木 なお、この〝♦昭和2年6月16日付『岩手日報』の記事以降〟、森以外の人物が語る、森の消息に関する記事はぷっつりと途絶えてしまう。
そこで、前掲の『森荘已池年譜』におけそれ以降の主な記載事項を調べてみたならば以下のとおりだった。
♦8月10日 (劇)愛欲を見る(岩手日報)
♦9月1日 (詩)枯れる(銅鑼 №12)
♦9月8日 農民劇指導原理(岩手日報)
♦10月7日 第一回素顔社(岩手日報)
♦10月13日 友へ送る(上)(岩手日報)
♦10月14日 友へ送る(下)(岩手日報)
そこで、『岩手日報』の実際の記事をそれぞれについて見てみると、次ようなこと等が載っていた。♦9月1日 (詩)枯れる(銅鑼 №12)
♦9月8日 農民劇指導原理(岩手日報)
♦10月7日 第一回素顔社(岩手日報)
♦10月13日 友へ送る(上)(岩手日報)
♦10月14日 友へ送る(下)(岩手日報)
♦8月10日付『岩手日報』
「愛欲を見る」 森佐一
確か、第一幕が終つた時と思ふ。小泉一郎氏と阿部康蔵氏から、何か、今夜の印象を、日報に書けと云はれた。…(筆者略)…友人たちよ自分はうそはつかない。ほんとうにいゝものだ。ぜひ見に行つてくれ。細評はいづれ後にして、でひ(ママ)行きたまへとだけぜ(ママ)筆をおかう。
♦9月8日付『岩手日報』確か、第一幕が終つた時と思ふ。小泉一郎氏と阿部康蔵氏から、何か、今夜の印象を、日報に書けと云はれた。…(筆者略)…友人たちよ自分はうそはつかない。ほんとうにいゝものだ。ぜひ見に行つてくれ。細評はいづれ後にして、でひ(ママ)行きたまへとだけぜ(ママ)筆をおかう。
「農民劇指導原理」 森佐一
序
近頃、縣下でもぽつぽつ、農民劇に就いての聲が聞かれるやうになつた。時節柄、誠に御同慶の至りである。が、大抵、しつかりと問題の見通しがついてゐないやうである。過日、本紙に出た高橋剛君の文が、その人々の代表的な考え方だとすれば、吾が国農民運動の現段階の要求する農民劇とは餘程の距離があるやうである。
♦10月7日付『岩手日報』序
近頃、縣下でもぽつぽつ、農民劇に就いての聲が聞かれるやうになつた。時節柄、誠に御同慶の至りである。が、大抵、しつかりと問題の見通しがついてゐないやうである。過日、本紙に出た高橋剛君の文が、その人々の代表的な考え方だとすれば、吾が国農民運動の現段階の要求する農民劇とは餘程の距離があるやうである。
「第一回素顏社展の印象」 森佐一
スケッチ板五六枚描き、皆割つて了つたといふ經歴より持ち合さない私が、素顏社展の印象記を書くのは随分をこがましい。が私は照井莊助君のあの眞面目さと熱に對して、どうしても黙つてをられない氣持を持つてゐる。
♦10月13日付『岩手日報』スケッチ板五六枚描き、皆割つて了つたといふ經歴より持ち合さない私が、素顏社展の印象記を書くのは随分をこがましい。が私は照井莊助君のあの眞面目さと熱に對して、どうしても黙つてをられない氣持を持つてゐる。
「友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)」 森佐一
『銅鑼』同人坂本遼詩集『たんぽぽ』を紹介しよう。
彼は土から、もくもくと踊り出た詩人である。坂本遼は兵庫縣の田舎にゐる。彼はまづしい百姓詩人である。口に筆に農民詩人を自稱しながら、文學靑年をあつめて東京にゐて、雜誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ。
作品を紹介しよう、『たんぽぽ』の中から
▲『春』と題する作品▼
みつちやんと
やつちやんは
蓮花田のなかで
まるまるをした。
…(筆者略)…
かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもつて讀んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び、宮澤賢治詩集『春と修羅』の中の、無聲慟哭とである。これらには一味通じた、虚無的な、無限の淋しさがある。殊に坂本のは、素朴である。姿が幼いので心に觸れるのである。
♦10月14日付『岩手日報』『銅鑼』同人坂本遼詩集『たんぽぽ』を紹介しよう。
彼は土から、もくもくと踊り出た詩人である。坂本遼は兵庫縣の田舎にゐる。彼はまづしい百姓詩人である。口に筆に農民詩人を自稱しながら、文學靑年をあつめて東京にゐて、雜誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ。
作品を紹介しよう、『たんぽぽ』の中から
▲『春』と題する作品▼
みつちやんと
やつちやんは
蓮花田のなかで
まるまるをした。
…(筆者略)…
かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもつて讀んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び、宮澤賢治詩集『春と修羅』の中の、無聲慟哭とである。これらには一味通じた、虚無的な、無限の淋しさがある。殊に坂本のは、素朴である。姿が幼いので心に觸れるのである。
「友へ送る―彼の詩集に就いて―(下)」 森佐一
(内容省略)
(内容省略)
(終)
以上が、昭和2年6月中旬~12月末日までの『岩手日報』の森関連の記事の全てであると思われる。したがって、この期間の森の病状や回復状況に関する情報は全く得られないが、少なくとも執筆活動等はできたようだということがわかる。荒木 たしかに、鈴木は徹底している。負けたよ、お前のしつこさに。
鈴木 自分でもそう思っている、確かにしつこ過ぎると。
では、これらのことに基づいて少し考察をしてみよう。まず8月10日付及び10月7日付『岩手日報』の記事についてだが、前者からは少なくとも森はこのとき実際に演劇「愛欲」を観に行っていたであろうことが知れるし、後者からは実際森がその展示会に行っていると判断できる。したがってこの頃になると、森は長期療養中の身とはいえ、多少は出歩けるほどの病状までには回復していたということになろう。
次に、9月8日付『岩手日報』に寄稿している森の「農民劇指導原理」の文中の「過日、本紙に出た高橋剛君の文云々」という記述からは、病臥中の森は『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうことが窺える。なぜならば、確かに約一ヶ月前の同紙には高橋剛の「農民劇に就いて」という連載記事が載っているからである。
ところで、この9月8日付『岩手日報』に載った森の「農民劇指導原理」に関しては、その一ヶ月前の8月8日には山形の新庄から松田甚次郎がわざわざ下根子桜を訪ねて来て、初めて上演する農民劇について、賢治からは「色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて」もらったということがよく知られているから、もし森が「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねた」とすれば、そのような話が森と賢治との間に交わされていた可能性が頗る高いはずだが、そのことはこの寄稿では全く触れられていない。
さらには、10月13日、14日付『岩手日報』では、森は農民詩人・坂本遼の詩集『たんぽぽ』を激賞していることがわかる。そして、その批評の最後に賢治の名が出てきているが、もし森が「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねた」とすれば、少なくとも二人の間でそのことに関して何らかのことを話題にしていたはずだ。とりわけ、当時の賢治は「農民詩」といってもいいような詩を沢山詠んでいた頃だからである。ところが「友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)、(下)」ではそのことに関しては全く触れられていない。
しかも、8月28日付『岩手日報』に載っている齋藤弘道の「「くぬぎ」第三號瞥見」にはその最後に「佐々木喜善氏、宮澤賢治氏は健在なりや」とあるから、当時『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろう森はこの記事を見逃すはずもなく、もし森が「一九二七年の秋の日」に下根子を訪ねたということであれば、日頃より賢治を敬愛していた森は、「いや賢治は健在なり」というようなことを一連の寄稿において必ずや触れていたはずだが、それがない。
以上、もし森が病身を押して「一九二七年の秋の日」に下根子桜を訪ねたのであったということであれば、その時のことを森が他の寄稿と同様に『岩手日報』に寄せない訳はないと思われるが、そんな投稿は一つも見つからなかったし、一連の寄稿の中でさえもそのことに一言も言及していない。
したがって、当時の『岩手日報』のこれらの記事から判断しても、この頃の森はまだまだ重篤であったがため、多少の外出はすることができてもそれはせいぜい盛岡近辺だけであり、そこからわざわざ花巻までやって来てしかも下根子桜で一泊できるようなところまでは回復していなかったようだ。
吉田 どうやら『岩手日報』の新聞報道によれば、森が「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということはほぼあり得なかった、と判断せざるを得ないようだな。
荒木 畢竟、当時の新聞報道から判断しても、定説となっている「昭和2年の秋の日」の森荘已池の下根子桜訪問は実はかなり困難だったということか。
続きへ。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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