みちのくの山野草

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1719 細やかな仮説の検証

2010-09-19 09:00:49 | 賢治関連
     《『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版)表紙》

1.小倉豊文の人となり
 それでは「細やかな仮説」の検証を続けるために、今回はまずは小倉豊文の人となりを探ってみよう。
 例えば小倉に関しては山折哲雄氏が次のように語っている。
 小倉さんは、賢治を研究し、賢治を尊敬しつづけた。奥さんが広島の原爆で亡くなられたとき、法華経を唱え、「雨ニモマケズ」を娘さんたちと一緒に朗読して、野辺送りをされた。「賢治葬」によって奥さんを見送られた人です。ご自分が亡くなったときも、娘さんがこの同じ「賢治葬」で告別された。
   <『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版)より>
ということで、小倉は宮澤賢治をとても敬愛していたということが明らか。

 実際、小倉がどれだけ賢治を敬愛し、「雨ニモマケズ手帳」研究のため尽くしたかは自著『「雨ニモマケズ手帳」新考』(東京創元社)の「あとがき」からも自ずから明らかになってくる。そこには次のようなことが書かれているからだ。
 (小倉は)昭和17年に初めて花巻を直接訪れた際に、「雨ニモマケズ手帳」の現物を眼福し、その写本がいまだ一冊もないことを知っていた。そこへきて、昭和18年になると戦況が悪化して空襲必至という時勢になったから、居ても立ってもいられなくなってその年の秋から公務の余暇を利用して2年近く花巻通いをして、「雨ニモマケズ手帳」の書写を完成したのだという。
たった2年近くだからそれほどのことでないと思いがちだが、日に日に戦況が悪化していった大戦末期、しかも交通の便が極めて悪かったときに、小倉はなんと姫路の旧制高校に勤めながらその合間を縫ってはるばる岩手花巻まで足繁く通っていたのである。そのひたむきさにはただただ頭が下がるだけである。

2.戦中戦後における「雨ニモマケズ」の問題点
 というわけで、前述の”1”からは正直で誠実、賢治をひたすら敬愛していたであろう小倉の人となりがこれで明らかだといってよかろう。したがって、小倉は信用に足る人物であり、”戦中戦後の「雨ニモマケズ」の扱われ方”において小倉が挙げた次の3項目
4.1942年には大政翼賛会文化部編「詩歌翼賛」第二輯に採録され、特に農村労働力の強制収奪に利用されることにもなった。傀儡国家「満州」でも中国語訳して同様な目的に利用されていたのは、この詩を軸とする賢治観の対立に象徴的な意味を持つ事実であって、独り農民に関してだけではなく、一般的に権力に利用される危険性を持っていたといえよう。
6.1945年6月には、国策協力の出版「日本叢書」四として「雨ニモマケズ」の書名で初版二万部も発行された。正に前記「詩歌翼賛」への採録に相呼応するものいえよう。
7.1945年の敗戦と占領軍政開始後は、賢治に対する価値判断にもかなり変化が見られたが、その著しいものはマルキシズムないし社会経済的な諸立場よりする批判が従来からの観念的・仏教的立場からの偶像的讃仰に対立して生まれたと言って良さそうだ。

は歴史的事実として受け止めて良かろう、あるいは受け止めねばなるまい。

3.細やかな仮説の検証
 それでは最後に「細(ささ)やかな仮説」
 「大戦中には広く知られていた「雨ニモマケズ」は、終戦直後はその使用がそのままでは憚られた」
の検証を試みたい。

 まず前述の”4と6”からは、賢治の意思・意向とは無関係に「雨ニモマケズ」は農村労働力の強制収奪や戦時中国民の国策協力のために利用されたということは否めない。
 そして”7”からは、敗戦を境にして特にマルキシズムや社会経済の立場からそれまでの「雨ニモマケズ」の扱われ方が批判を受けていたということが解る。

 したがって、大戦中には広く知られていた「雨ニモマケズ」ではあったが、大戦中に農村労働力の強制収奪や戦意昂揚などに利用されてしまった「雨ニモマケズ」はそれゆえ、敗戦を境にして起こった価値観の大逆転により批判の対象になった。したがって、従前の「雨ニモマケズ」をそのままの形で扱うことは自ずから憚られた。
 というわけでこの「細やかな仮説」はほぼ検証できた、と思う。

 さりながら、「雨ニモマケズ」の作品の中身を、あるいは賢治の作品を敗戦によって放心状態にあった人々に読ませたかった発行元の羽田書店は、いままでは「雨ニモマケズ」と題していたこの作品の名を差し障りのない「手帖より」に取り替えて印刷・出版をしたということなのだろう。


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