宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

154 活字と事実

2009年06月03日 | Weblog
 次の写真は岩手日報社が発行した
《1 『岩手年鑑(1938)』》

(の表紙)である。つまり1938(昭和13年)年に発行した年鑑である。
 そして、この年鑑の
《2 262pの『文藝』の欄》

に”△宮澤賢治詩碑”という記載があり、その中身は次のようなものである。
△宮澤賢治詩碑 花巻出身詩人故宮澤賢治氏の詩碑は故人追憶の地花巻町下根子に建設、十一年十一月廿三日除幕式を行った、詩碑は石巻産の水成岩に農民藝術論の結論から
□世界がぜんたいに幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
□個人の異なる幾億の天才も並び立つべく斯て地面も天となる
□まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
の三句が刻まれ
、碑の高さは一丈幅四尺厚さ八寸である。

えっ!と思った。
 世界がぜんたい幸福にならないうちは
も気になるが、愕然としたのは後半の部分で”農民藝術論の結論から・・・三句が刻まれ”と書かれていることである。

 もちろん、次が下根子のいわゆる
《3 『宮沢賢治詩碑』》(平成20年4月20日撮影)

《4 〃 》(平成20年4月20日撮影)

であり、実際の碑文は次のとおりである。
《5 〃の碑文》

 <『雨ニモマケズ詩碑の由来』(佐藤進著)より>

 この『岩手年鑑』のこの記事を目の当たりにして、つい活字で書かれたものは”事実”と思いがちだったが、これからはもう少し慎重に扱わねばならないと思った。

 なお、『岩手年鑑』にはこの記事に続けて
△岩手歌人協會設立
という記事もあり
△岩手歌人協會設立 久しく対立分裂の状態にあった県歌壇を打って一丸とし、全県歌人三百名合同し、十二年三月三十日岩手歌人協会を結成設立し、四月二十五日公会堂多賀で第一回総会を開催した、小田島孤舟、上野節夫、関徳弥の三氏常任理事に就任した。
とある。
 関徳弥の名が出てくるのだが、こうなるとこの記事も本当かな?とつい首を傾げてしまうことになる。

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