《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
この度、『農民藝術 第四集』(農民藝術社、昭和22年)には木村たまの語録「夏の夜の座談会」が載っていて、
座談會の話はその頃の花巻には、實に必要なことであり、且つ考へてみた丈でも、樂しい連想が浮ぶので、其處に居た私達姉妹も、みんな喜んで賛成したのでした。場所は、何處がよからうと、暫く迷ひましたが結局、東公園の音樂堂に決めました、東公園といふ處は、昔の城趾の高臺の東端で、そこに立つて東の方を望むと東から南に果てしなく続く北上山脈がパノラマの樣に見へわたり、その下には、帶のやうな北上川が銀色に巾廣く流れて居ります。そして北寄りの涯の下には、何世紀かの前の昔型の、輕便鐡道が時折汽笛を鳴し、ことことと音を立て乍ら走るのが見えます。…(略)…この夜の集會者は、農夫あり、新聞記者あり、教育家あり、醫者があり、商人ももあれば、音樂家も、歌人も畫家もありといふ、無類に愉快な會合でした。古いことですから、その一一の姓名はよく知つて居りませんが、私の妹の木村ヒロ子、繪を好きな弟、私の友達の多田やすさん、もう今は亡い八重樫きみさん、それに歌を作る川邊潔さん、音樂の藤原さんも勿論來られました。當夜のみなさんのお話は、もう記憶から失なはれて居りますけれども、樂しいことだけは、よく憶えて居ります。會が終つてから、町から二三里離れた、太田村の淸水觀音に、バスに乗つて宮澤先生を始め何人かの人は行かれた筈です。
<『農民藝術 第四集』(昭和22年11月)45p>ということが語られていることを知った。
よって、泉沢善雄氏が次のように述べていたことは、先に〝かつての憩いの場「東公園」は奪われしままに〟で投稿済みだが、
三、東公園
賢治の親友、藤原嘉藤治は『新女苑』昭和十六年八月号で「宮澤賢治と女性」と題して大約次のエピソードを紹介しています。
「昭和五年の夏の夜、東公園の音楽堂で東京から帰省中の女性を囲んで座談会を賢治の希望を入れて私が設定した。賢治は両親から時間を制限された上で許しを得て、病床を抜け出して参加した。賢治は終了後「近来にない郊宴に招かれた。」と大喜びだあった。」…(投稿者略)…
これらのエピソードで語られる東公園は鳥谷崎神社の南向かい、花巻城内で大変見晴らしの良い高台にありました。前号で紹介して西公園同様桜並木もあり、各種の催しも行われて町民憩いの場所として親しまれた公園です。
<『ワルトワラ 34号』(2012年、4月)109pより>賢治の親友、藤原嘉藤治は『新女苑』昭和十六年八月号で「宮澤賢治と女性」と題して大約次のエピソードを紹介しています。
「昭和五年の夏の夜、東公園の音楽堂で東京から帰省中の女性を囲んで座談会を賢治の希望を入れて私が設定した。賢治は両親から時間を制限された上で許しを得て、病床を抜け出して参加した。賢治は終了後「近来にない郊宴に招かれた。」と大喜びだあった。」…(投稿者略)…
これらのエピソードで語られる東公園は鳥谷崎神社の南向かい、花巻城内で大変見晴らしの良い高台にありました。前号で紹介して西公園同様桜並木もあり、各種の催しも行われて町民憩いの場所として親しまれた公園です。
このことと併せて判断すれば、
そこに立つて東の方を望むと東から南に果てしなく続く北上山脈がパノラマの樣に見へわたり、その下には、帶のやうな北上川が銀色に巾廣く流れて居ります。そして北寄りの涯の下には、何世紀かの前の昔型の、輕便鐡道が時折汽笛を鳴し、ことことと音を立て乍ら走るのが見えます。
というように、東公園からの展望はすこぶる素晴らしいものであったであろうことがこれでよくわかった。なお、この時の座談会の参加者には木村たまの他に、木村ヒロ子、八重樫祈美子、多田やすの女性陣も居たことはこれで確実であろうが、木村姉妹の一人木村杲子もそこに同席していたことも確実なのだろうか。
さて、この11月26日花巻城址へ出掛けてみた。東公園の名残がなかろうかと思ったからだ。
《1 堀には薄氷》(平成28年11月26日撮影)
《2 この城趾にどでかいメタセコイヤ?》(平成28年11月26日撮影)
《3 鳥谷崎神社境内》(平成28年11月26日撮影)
《4 賢治詩碑》(平成28年11月26日撮影)
方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる
賢治
《5 そっか、谷村貞治の銅像が建ったのか》(平成28年11月26日撮影)賢治
《6 「丈夫な体をもちながら 欲のない」(宮沢賢治氏と同年齢)と刻してある》(平成28年11月26日撮影)
さて、この神社の南側へ行ってみたならば、
《7 こんな景の空き地が拡がっていた》(平成28年11月26日撮影)
《8 以前はここに谷村新興製作所の建物があり》(平成28年11月26日撮影)
《9 それがこの度取り壊されたということか》(平成28年11月26日撮影)
そして、この景が拡がっている場所がかつて東公園のあった場所ではなかろうか。ちなみに、
《10「大正期の花巻地図」より抜粋したかつての「東公園」の場所を示している地図》
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)46pより>
また、泉沢善雄氏の「鳥谷崎神社と賢治」という聞き書きの中に次のような「鳥谷崎神社並びに東公園略図」が載っていたので引用させてもらうと、
《11 「鳥谷崎神社並びに東公園略図」》
<『ワルトワラ 34号』(2012年、4月)109pより>
それから、鳥谷崎神社への階段状参道の登り口にあった
《12 「枡形」の説明板の》(平成28年11月26日撮影)
《13 この尖りの場所が後に「東公園」になったようだ》(平成28年11月26日撮影)
ところで、その後あの解体工事の進捗状況はどうなったのだろうか。
《14 》(平成28年11月26日撮影)
《15 》(平成28年11月26日撮影)
《16 》(平成28年11月26日撮影)
《17 》(平成28年11月26日撮影)
《18 》(平成28年11月26日撮影)
《19 》(平成28年11月26日撮影)
これが現状だったが、実はこの工事は今中断されていていて、しばらくこの無残な野ざらし状態が続くことになりそうだいう。何ともやりきれない。
続きへ。
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《鈴木 守著作案内》
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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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