吉田司氏が次のようなことを書いていた。
このコトとは、吉田コトのことであり、吉田司の母である。そして吉田コト(旧姓櫻井コト)とは、あのベストセラー『土に叫ぶ』を松田甚次郎が執筆する際に佐藤しまと一緒に手伝った人物でもある。
そしてもちろん松田甚次郎とは、昭和2年3月3日に下根子桜桜に賢治を訪ねて「小作人たれ 農村劇をやれ」と賢治から〝訓へ〟られ、「黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と懇々と説諭されてその通りに実践し、その実践を著したのがこの大ベストセラー『土に叫ぶ』であった。
その著書『土に叫ぶ』を携えて花巻を訪れた際のことをコトは先に掲げたように語っている、と吉田司が紹介しているわけである。
ところでこのコトの証言の出典は何かというと、他にもあるかもしれないが、その一つが『月夜の蓄音機』の中の次のようなコトの証言だと思う。
ここから窺えることは、
・賢治は著名な詩人や作家百数十人に『春と修羅』を贈った。
・それに対して返事がきたのは高村光太郎と草野心平の二人だった。
ということは多分本当のことだったであろう、ということである。
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政次郎はコトにこう語ったという。
「賢治がね、初めて詩集(『春と修羅』)を出した時、詩人や小説家など有名な方々百何十人に送って批評を乞うたけれど、たった二通の返事しか来なかった。それは、高村光太郎さんと草野心平さんだった。その二通の返事は簡単なものだったが、賢治は喜んでね。それを後生大事にしていましたよ」
<『宮澤賢治殺人事件』(吉田司著、文春文庫)308p~より>「賢治がね、初めて詩集(『春と修羅』)を出した時、詩人や小説家など有名な方々百何十人に送って批評を乞うたけれど、たった二通の返事しか来なかった。それは、高村光太郎さんと草野心平さんだった。その二通の返事は簡単なものだったが、賢治は喜んでね。それを後生大事にしていましたよ」
このコトとは、吉田コトのことであり、吉田司の母である。そして吉田コト(旧姓櫻井コト)とは、あのベストセラー『土に叫ぶ』を松田甚次郎が執筆する際に佐藤しまと一緒に手伝った人物でもある。
そしてもちろん松田甚次郎とは、昭和2年3月3日に下根子桜桜に賢治を訪ねて「小作人たれ 農村劇をやれ」と賢治から〝訓へ〟られ、「黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と懇々と説諭されてその通りに実践し、その実践を著したのがこの大ベストセラー『土に叫ぶ』であった。
その著書『土に叫ぶ』を携えて花巻を訪れた際のことをコトは先に掲げたように語っている、と吉田司が紹介しているわけである。
ところでこのコトの証言の出典は何かというと、他にもあるかもしれないが、その一つが『月夜の蓄音機』の中の次のようなコトの証言だと思う。
あれは初めて花巻に行ったときじゃなかったかな。甚次郎さんとしまちゃんと私、みんなで宮沢家でごちそうになったんですよ。…(略)…
このとき、賢治が自費出版で出した『春と修羅』の話もしてましたよ。「おらいで金出したんだけどよー。だれも認めなくてよー」なんて言ってた。ちょっと正確な数は忘れたけれど、一〇〇部だか二〇〇部だか、作家とか詩人に送ったんだって。だけど、みんな返事もよこさないで、草野心平さんと高村光太郎さんだけがハガキをくれた。そのハガキを賢治がお守りさんみたいに大事にしてたんだって。私、政次郎に「どんなこと書いてあった」って聞いたっけの、そしたら政次郎さん「なんもなんも」って。「贈ってくれたありがとう。ゆっくり読ませていただきます。これからもがんばりなさい」みたいなものだっけな。まあ、普通の礼状だね。
<『月夜の蓄音機』(吉田コト、荒蝦夷)15p~より>このとき、賢治が自費出版で出した『春と修羅』の話もしてましたよ。「おらいで金出したんだけどよー。だれも認めなくてよー」なんて言ってた。ちょっと正確な数は忘れたけれど、一〇〇部だか二〇〇部だか、作家とか詩人に送ったんだって。だけど、みんな返事もよこさないで、草野心平さんと高村光太郎さんだけがハガキをくれた。そのハガキを賢治がお守りさんみたいに大事にしてたんだって。私、政次郎に「どんなこと書いてあった」って聞いたっけの、そしたら政次郎さん「なんもなんも」って。「贈ってくれたありがとう。ゆっくり読ませていただきます。これからもがんばりなさい」みたいなものだっけな。まあ、普通の礼状だね。
ここから窺えることは、
・賢治は著名な詩人や作家百数十人に『春と修羅』を贈った。
・それに対して返事がきたのは高村光太郎と草野心平の二人だった。
ということは多分本当のことだったであろう、ということである。
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