《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
「校本宮澤賢治全集」の検証を四 「新発見の書簡 252c」等の公開
さて、奇しくもその同じ昭和52年に筑摩から出版されたものとして『校本宮澤賢治全集第十四巻』もある。
一般的には、同巻のメインは「宮澤賢治年譜」であるはずだが、巻頭に「補遺」があるので私には唐突さが感じられ、以前から訝っていた。そしてこの度、その頃既に筑摩は経営が傾いてきていたということを知ってしまった私には、このような構成は、筑摩としてはこの「補遺」によって世間の注目を浴び、経営危機に陥っていた同社を建て直そうと考えたからだということが否定できないという見方が、脳裡をよぎった。それは特に、その「補遺」の中で、「新発見の書簡252c」〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房二八頁)〉とセンセーショナルに表現して、関連する賢治の書簡下書群を公にしたことからも窺えた。
しかしながら、このことに関しては、同巻の「宮澤賢治年譜」担当者でもある堀尾青史が、
今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね〈『國文學 第23巻2号 2月号』(學燈社、昭和53年)一七七頁〉。
と語り、天沢退二郎も、 高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである〈『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)四一五頁〉。
と述べているから、どうも「新発見」とは言い難い。これでは、露が亡くなるのを待って公表した、ということをはしなくも吐露しているようにも見える。しかも同巻は、一般人である女性「高瀬露」の実名を顕わに用いて、「(252cは)内容的に高瀬あてであることが判然としている」と公に断定した〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)三十四頁〉。その客観的な典拠も明示せずに、全く論理的でもなく、である。そのあげく、「推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか」と前置きして、「困難」なはずのものにも拘わらず、
⑴、高瀬より来信(高瀬が法華を信仰していること、賢治に会いたいこと、を伝える)
⑵、本書簡(252a)(法華信仰の貫徹を望むとともに、病気で会えないといい、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。」として、愛を断念するようほのめかす。ただし、「すっかり治って物もはきはき云へるやうになりましたらお目にかゝります。」とも書く)
⑶、高瀬より来信(南部という人の紹介で、高瀬に結婚の話がもちあがっていること、高瀬としてはその相手は必ずしも望ましくないことを述べ、暗に賢治に対する想いが断ちきれないこと、望まぬ相手と結婚するよりは独身でいたいことをも告げる)
というように想像力豊かに推定し、スキャンダラスな表現も用いながら、以下、延々と推定を繰り返した推定群⑴~⑺を同巻で公にした〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)二八頁〉)。⑵、本書簡(252a)(法華信仰の貫徹を望むとともに、病気で会えないといい、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。」として、愛を断念するようほのめかす。ただし、「すっかり治って物もはきはき云へるやうになりましたらお目にかゝります。」とも書く)
⑶、高瀬より来信(南部という人の紹介で、高瀬に結婚の話がもちあがっていること、高瀬としてはその相手は必ずしも望ましくないことを述べ、暗に賢治に対する想いが断ちきれないこと、望まぬ相手と結婚するよりは独身でいたいことをも告げる)
そしてこの時期を境にして、それまでは一部にしか知られていなかった、賢治にまつわる〈悪女伝説〉が〈高瀬露悪女伝説〉に変身して、一気に全国に流布してしまったと言える。よって時系列的には、筑摩がそれを全国に流布させてしまったと世間から言われかねない。
一方で、私はあることに気付く。それは『事故のてんまつ』の出版と〝「新発見の252c」等の公開〟の二つは次の点で酷似していて、
㈠ 両者とも、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」という、まさに倒産直前の昭和52年になされたことである。
㈡ 両者とも、当事者である川端康成(昭和47年没)、高瀬露(昭和45年没)が亡くなってから、程なくしてなされたことである。
㈢ その基になったのは、ともに事実ではない。前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」である「鹿沢縫子」の原話であり、後者の場合は賢治の書簡下書(所詮手紙の反故であり、相手に届いた書簡そのものではない)を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した推定群⑴~⑺である。
㈣ ともに、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題がある。
㈤ ともに、スキャンダラスな書き方もなされている。
ので、この二つはほぼ同じ構図にあるということに気付く。㈡ 両者とも、当事者である川端康成(昭和47年没)、高瀬露(昭和45年没)が亡くなってから、程なくしてなされたことである。
㈢ その基になったのは、ともに事実ではない。前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」である「鹿沢縫子」の原話であり、後者の場合は賢治の書簡下書(所詮手紙の反故であり、相手に届いた書簡そのものではない)を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した推定群⑴~⑺である。
㈣ ともに、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題がある。
㈤ ともに、スキャンダラスな書き方もなされている。
ということは、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった、と先に述べたが、これと酷似した構図がこちらにもあったから、〝「新発見の252c」等の公開〟もまた、一つの「腐りきって」いた事例であったと私は判断せざるを得ない。
ところで、この「新発見の252c」等の一連の書簡下書群に対して矢幡洋氏は、
時折、高圧的な賢治が姿をみせる。…筆者略…と露骨な命令口調で言う。
露宛の下書き書簡群から伝わってくるものは、背筋がひんやりしてくるような冷酷さである。ここにおける、一点張りの拒否と無配慮とは、賢治の手紙の大半の折り目正しさと比べると、かつての嘉内宛のみずからをさらけ出した書簡群と共に、異様さにおいて際立っている〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)一五四頁~〉。
と論じていることを私は知った。実は賢治には(ただしこの引用文中の「露」は高瀬露であるとは言い切れないので、あくまでも「ある女性に対して賢治には」、という意味でなのだが)、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということなどを矢幡氏は指摘していたのだった。そこで私は、このようなことを指摘している研究者を初めて知って、目を醒まさせられた。露宛の下書き書簡群から伝わってくるものは、背筋がひんやりしてくるような冷酷さである。ここにおける、一点張りの拒否と無配慮とは、賢治の手紙の大半の折り目正しさと比べると、かつての嘉内宛のみずからをさらけ出した書簡群と共に、異様さにおいて際立っている〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)一五四頁~〉。
振り返ってみれば、かなり以前から、これらの書簡下書群に基づけば賢治にはそのような性向があることが導かれることに私は薄々気付いていた。だが、実はかなりのバイアスが私には掛かっていて、これらの書簡下書群に基づいて賢治に対してこのような厳しい言い方を公にすることは許されないのだ、という自己規制が強く働いていたことを覚った。そしてこのバイアスは、女性に対しては厳しく、男性(賢治)に対しては甘く解釈するという男女差別がなさしめるそれでもあるということにも気付かせてもらった。心理学の専門家である矢幡氏の、この書簡下書群についての冷静で客観的なこの考察に私は反論できなかった。
のみならず、このような「冷酷さ」は、たしかにあの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあることを同時に覚れた。というのは、次のようなことが言えるからである。
この〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、『雨ニモマケズ手帳』に書かれているので、実際文字に起こしてみると次のようになる。
10・24◎
聖女のさまして
われにちかづき
づけるもの
たくらみ
悪念すべてならずとて
いまわが像に釘うつとも
純に弟子の礼とりて
乞ひて弟子の礼とりて
れる
いま名の故に足をもて
わが墓に
われに土をば送るとも
あゝみそなはせ
わがとり来しは
わがとりこしやまひ
やまひとつかれは
死はさもあれや
たゞひとすじの
このみちなり
なれや
〈『校本宮澤賢治全集資料第五(復元版宮澤賢治手帳)』(筑摩書房)〉聖女のさまして
づけるもの
たくらみ
いまわが像に釘うつとも
乞ひて弟子の礼と
れる
いま名の故に足をもて
われに土をば送るとも
わがとり来しは
たゞひとすじの
なれや
よって、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところからは賢治の葛藤や苛立ちが窺える。また、内容的にも然りである。その人を「乞ひて弟子」となったと見下したり、「足をもて/われに土をば送るとも」というように被害妄想的なところもある。一方、自分のことは「たゞひとすじのみち」を歩んできたと高みに置いて、女性のことを当て擦っているところもあったりする。よって、この詩から浮き彫りになってくる賢治は、私の持っていた従来のイメージとは真逆である。まさに、佐藤勝治が「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」(『四次元44』(宮沢賢治友の会)10p~)と表現しているとおりだ。
さらに、「あゝみそなはせ」とあることからは逆に、賢治はこの相手の女性のことを以前はかなり評価していたということも言えそうだが、そのような女性に対して「悪念」という言葉を賢治が使おうとしたことを知ると、賢治の従来のイメージからはさらに離れていく。
まさに、矢幡氏が指摘しているような「冷酷」さがこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあることを私は覚れたのである。となれば、賢治のこの性向はもはや否定できない。
言い方を変えれば、「252c等の公開」は、賢治に対しても取り返しの付かないことをしてしまったとも言える。というのは、有名人とは雖も、当然賢治にもプライバシー権等があるはずだ。にもかかわらず、その配慮も不十分なままに、同第十四巻が私的書簡下書群を安易に世間に晒してしまったことにより、賢治には従来のイメージを覆す、背筋がぞっとするような冷酷さもあったということを、結果的に世に知らしめてしまったと言えるからである。
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