〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉
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その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
(傍点筆者)〈昭和31年2月22日付『岩手日報』掲載〉
そこで〝(1)〟と〝(4)〟の両者を見比べてみたところ、一箇所だけ決定的に違っている箇所があった。それは、
単行本の〝(1)『宮沢賢治物語』〟の場合における
・昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………①
新聞連載の〝(4)「宮澤賢治物語」〟の場合における
・昭和二年には先生は上京しておりません。 …………④
の部分だ。この両者の違いは決定的である。①ならば賢治は上京していることになるし、④ならば上京していないということになるからだ。そして、新聞連載の方の④は関存命中のもので、①は歿後のものだから、④の方が当然本来の記述であるはずだ。
ということは、新聞連載の「宮澤賢治物語」を単行本化して『宮沢賢治物語』として出版する際に、関以外の人物がたまたま間違えたか、あるいは、わざとある意図の下に改竄したかのいずれかになるだろう。さて、それではどちらの方が起こっていたのか。
まず、他の箇所は基本的には違っていないのにも拘わらず唯一この箇所だけが違っていることが確認できた。なおかつ、①と④とでは全く逆の意味になってしまう。それも重要な意味を持っている一文だ。したがって、たまたま間違えたわけではなくて意図的に改竄が行われていたと判断せざるを得ない(それゆえに、〝(4)「宮澤賢治物語」〟ならばすんなりと文章の意味が通じるが、〝(1)『宮沢賢治物語』〟の方は一読して変な文章だったということか)。
では、なぜこのような「改竄」が可能だったのか。それについては、〝(1)『宮沢賢治物語』〟の次のような「後がき」が教えてくれる。
単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
不幸中の幸として、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼したいということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏にお願いし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。
つまり、新聞連載を単行本化して出版する直前に関は亡くなってしまったので、最後の段階では関以外の人物が携わっていたからだと言えるだろう。
さてこうなってしまうと、賢治に関する論考等において使える件の武治の証言としては、『賢治随聞』や〝(1)『宮沢賢治物語』〟に所収されているものは著者である関以外の人物の手が加わっている蓋然性が高いということが判ったから除外されるべきだ。逆に、最もふさわしいのは一次情報とも言える〝(3)〟に、次にふさわしいのが初出の〝(2)〟に所収されているものとなろう。
そこで、この〝(3)『原稿ノート』〟及び初出の〝(2)〟に所収されている件の武治の証言と〈仮説2〉(29p)を照らし合わせてみれば、この仮説そのものをズバリ裏付けてくれていることが直ぐ判るから、「羅須地人協会時代」の賢治の上京に関する〈仮説2〉の妥当性がまずは示された。
しかも、このことに関しては次のような他の証言等、
(a) 柳原昌悦の証言
一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。 〈菊池忠二氏による柳原昌悦からの聞き取り〉
(b) 伊藤清の証言
地人協会時代に、上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。
〈『宮沢賢治物語』(昭和32)268p〉
(c) K(高橋慶吾)とM(伊藤克己)の証言
K 先生の御病氣は昭和二年の秋頃から惡くなつたと思ふが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京ではエス語、セロ、オルガンなど練習されたといふ話だつた。 〈『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版、昭和18)254p〉
(d) 昭和3年1月16日付『詩人時代』編集部宛の賢治書簡
病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。
〈『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41)184p~〉
(e) かつてのおしなべての「賢治年譜」の次のような記載
昭和三年 一月……漸次身体衰弱す。
もあるから、先の〈仮説2〉(29p)の妥当性をさらに裏付けてくれる。
つまり、まず(a)からは、この「あのとき」とは、「澤里一人に見送られて」と巷間言われている大正15年12月2日の上京の時のことをもちろん指しているはずで、その際は澤里だけでなく自分も一緒に賢治を見送ったと、職場の同僚だった賢治研究家菊池忠二氏に対して柳原が証言していたことが分かるからだ。
次に(b)からは、「そして冬に」と言っているわけだから、賢治が花巻を出立した時期は当然「冬」ではなく、なおかつ、賢治が帰花したのは「冬」であるということになるので、〈仮説2〉のような上京であればピッタリと合うし、しかもこの他に、「羅須地人協会時代」のこのような上京は知られてはいないからだ。
そして(c)については、羅須地人協会員のK(高橋慶吾)は賢治が「昭和二年の秋頃」から「御病気」が悪くなったと記憶していたことに対して、同じく協会員のM(伊藤克己)はそれは「東京へ行つてからだと思ふ」と話していたわけだから、その頃に上京した賢治は病気が悪くなったということになるので、先の仮説の妥当性をやはり傍証しているからだ。
では(d)についてだが、これはそのものずばりで、昭和3年1月16日頃の賢治は病気であり、やっとその快復の見通しが立ってきたという意味のことを自分自身で語っていたからである。
最後に(e)だが、これも前項と同様で、昭和3年1月頃の賢治は「漸次身体衰弱す」ということで、もちろん先の仮説を裏付けてくれるからである。
ただし、問題が一つあった。それはこの仮説に対する反例となり得るかもしれないものが見つかったからだ。具体的には、
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