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あまり世に知られていない証言等

2024-03-06 08:00:00 | 常識でこそ見えてくる賢治









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 “『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』の目次”へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
   あまり世に知られていない証言等
・賢治の花巻農学校の退任式はなかったと判断できるから、唐突な辞職であった。
・千葉恭は下根子桜の別宅に寄寓していた際に、「私が炊事を手伝ひました」とか「私は寢食を共にしながらこの開墾に從事しました」と証言している。
・賢治は大正15年6月7日に一時恩給520円(退職金)を支給された。
・大正15年7月25日、翌日の白鳥省吾・犬田卯・佐伯郁郎三名の訪問をドタキャンした賢治だが、花巻農学校在職当時の演劇舞台の背景を描いた阿部芳太郎は一時小川芋銭に師事しているし、犬田卯もこの芋銭から人生全般にわたり薫陶を受けている。また、佐伯郁郎は賢治の従兄である宮澤安太郎を介して賢治から『春と修羅』を貰っている。
・賢治、宮澤安太郎、佐伯郁郎、深沢省三、石川準十郎は皆「(東京)啄木会」の会員であった。
・石川準十郎は、「賢治さんはその私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた」とか「牧民会に出入りしていた」と証言している。
・千葉恭は下根子桜の別宅寄寓解消後、実家に戻って帰農し、地元の青年32名を誘って『研郷會』を組織、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうと腐心した。
・恭は『研郷會』を組織し、甚次郎は「最上共働村塾」組織して、共に「賢治精神」を実践しようとしたとも言える。
・高橋慶舟の証言によれば、あの「ライスカレー事件」が起こった時期は昭和2年の「雪消えた五月初めのころ」とのことである。
・伊藤ちゑは大正13年から、スラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動していた『二葉保育園』に勤めていた。
・ちゑが賢治との見合いのために花巻を訪れたのは昭和2年の秋(10月)である。
・昭和2年、森荘已池は心臓脚気などでかなり重篤であり、長期療養中であった。
・伊藤清が、(「羅須地人協会時代」に賢治が)「上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました」と証言している。
・「羅須地人協会時代」には冷害はなかった(大正2年の冷害以降、昭和6年までの18年間は「冷害空白時代」)。
 ちなみに、昭和6年岩手は冷害だったが、稗貫だけは平年作以上だった。
・ちゑは賢治との見合いについて、「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ」と深沢紅子等に漏らしていた。
・ある年の10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡が存在していて、そこには賢治と結びつけられることを拒絶するちゑの懇願も書かれている。
・『イーハトーヴォ第四號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)に載ってる、「賢治先生の靈に捧ぐ」と題した次の五首
*君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
*ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
*オツペルに虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ
*粉々のこの日雪を身に浴びつ君がの香によひて居り
*ひたむきに吾のぼり行く山道にしるべとなりて師は存すなり
の作者「露草」は高瀬露であると判断できる。
・『校本全集第十四巻』は「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べているが、それは「新発見」でも何でもなく、その真相は露の帰天を待ってしたことであったということを、二人の関係者が後に正直に吐露している。
 それは、本来ならばこの件は対立事案だから当然同巻は高瀬側の言い分も聞かねばならぬことだったはずだが、上田哲が「高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ」と指摘していることからも頷ける。
・また、同巻には、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」とあるが、その根拠も理由も何ら明示されていないから読者にとっては全く判然としない。
・菊池忠二氏は次のようなことを紹介している。
 私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤(忠一)さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
・この伊藤忠一は、「協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う」とも語っている。
・巷間、昭和3年8月に賢治が実家に戻ったのは、「心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥」したからだと云われているが、当時は「氣候不順に依る稻作の不良」であったということも「風雨の中を徹宵東奔西走」できるような気象条件もどこを探しても見つからない。
・賢治の教え子小原忠「昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった」と証言している。
・同じく小原は、昭和2年の6月頃賢治の許を訪れた際に、「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」と賢治が語ったと証言している。
・昭和7年6月1日付〔森佐一あて〕書簡下書に従えば、「羅須地人協会時代」の賢治は「玄米食」ではなかったことが判る。
・終戦直後のソ連では、賢治は石川啄木に勝るとも劣らぬ「アナーキスト?」とみられていた(『極光のかげに シベリア俘虜記』(高杉一郎著、岩波文庫)より)。
・中舘武左エ門は佐藤金治(賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人であり、その中でも一番成績のよかった級長)ととても親しかった。
・賢治歿後に遺稿浄書、「宮沢賢治蔵書目録」作成、『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行した飛田三郎は、かつて露が
勤務した寶閑小学校の教頭を勤めたことがある。
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『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)によれば以下の通り。
《朝倉六朗》(大正12年入学)の証言
 教科書以外の授業を10分間ぐらい時たまやる先生だった。あれ、余ってるんじゃなかったと思うですよ。計画的に先生がそういうことをやったと思うんですよ。必ず本を読み出すと、その本の感想なんかを始終、こういう本の中にこういうことがあったということを、よく言われる人だったんですよ。
 これに対して鳥山敏子氏が「覚えているのがありますか」と訊くと朝倉は、
 はっきり覚えてはいないけど、よくレーニンの話をしたんです。レーニンはこう言った。本当のレーニンの思想は今スターリンに引き継いでいないと。レーニンを尊敬したようなことを言って、本当はスターリンというのはレーニンの思想を本当に引き継いでいないというようなことを、あとちょっと聞いた気がしますね。だからあの頃の私にとっては、ずいぶん過激な話をするものだなと。
と答えていた。
《長坂俊雄》(大正11年入学)の証言
 ざまあみろ、というのは日本で一番悪いところ。人の不幸を喜ぶという。それを賢治は、社会主義者賢治がストップしてるもの。
というように、長坂はわざわざ「社会主義者賢治が」と言い直して、賢治が「社会主義者」と、唐突に言っていた。しかも、実は早坂の仕事は警察畑かあるいは検察畑だったから、この長坂の強調した「社会主義者賢治が」は重く受け止めねばならないだろうし、信憑性が高いと推断できる。
《高橋謙一》(寶閑小学校、昭和3年3月卒)の証言
 1時から農事講演会をやるかって、この人が先に立ってやっても、田舎のことだからほれ、1時だってぱっとみんな集まらなかったんだもの。
 そこで小学校の教師だった高瀬露さんが時間がもったいないからと、宮澤先生にお願いして子どもたちにお話しを語ってもらうことにしました。
 花巻から来て、したらね、高瀬露先生、ほれ宮澤賢治先生と同じ豊沢町で、若い時から知っていたでしょう。露先生がもったいないって、ほれ学校で先生たちで話して。1時からだって、1時半から2時にならなければ農家の人たちは集まらなかったんだもの。それで宮澤先生は童話やってるからみんな集まる前に30分ぐらい子どもたちさ童話聞かせてもらったものな。
 私は、1年生から5年生か6年生まで、毎年農事講話でたのんだもんだから、それで宮澤先生のことを尋常小学校終わるまで、ほれ農事講演で来た時に、みんな集まるまで30分かそこら、1年生から6年生まで講堂に150~160人集まって。1年に3回~4回も来たっけ。
 まずみんな講堂に集まれば、右から左までニコッと笑って、子どもたちの顔を見て、今日は何の話をしようかなって、右から左まで子どもたちの顔を見て、ニッコリ笑って、自分が寶閑小学校へ行ったとか、この何月に行ったとか、こげな話したとか手帳さ書いてあったんだものな。
 今日は何の話をしようかなって、ニッコリ笑ってみんなの子ども見てて。ああいうような先生もねぇもんだなす。
《梅野健造》の証言
 この梅野とはどんな人かというと、大正15年18歳の時羅須地人協会を訪ね、主宰していた雑誌「聖燈」「無名作家」に寄稿してもらい、それ以降賢治とは深い交流が続いたという人だということである。
 さて、昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取り調べを受けたのかという鳥山敏子の質問に対して、梅野は次のように答えていた。
 2回ほど花巻の警察にね。
そして以下、如何にも思慮深そうな梅野は言葉を選びながら鳥山の質問に対して答えていた。
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
《照井保志(昭和3年3月卒)》の証言。
 向こうの方から来たね、今お嫁さんに来て、今もう77~78ですよね、その人が言ってましたよ、 来た頃の賢治先生はさっぱり評判もなにも良くないんだって。立派な宮澤家にとついで来たのに、宮澤先生は気の毒だな、あれでは 宮澤家ダメになるダメになると、こう言われたんですよ。
 いや私は、ここのところから来た私は嫁なんですが、よそから来た私たちに本当に宮澤家というあんな立派なところから、宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて、まったく気の毒だ気の毒だとみんなが言っとたというけど、本当に言ってましたよ。
 だから私は今不思議で不思議でならない。その人が今素晴らしいでしょう。どういことですか。世の中が本当の姿が今出てるんですよ。
 花売りに行ってみたり、後にリヤカーなんかで引っぱってやったかな、そしてそれもね皆さんにくれてやったそうですね。だからあれ見てるとね、貰った人は良かったもしれないが、あれでは商売もなにも出来ないんじゃないかというような考え方やらなにやら。ああいう息子じゃ身上もたない、カマド返しだとかということ。
《小野寺政太郎》(大正11年3月卒、湯本出身)の証言
*賢治先生からイモチ病対策を教わったことがあった。具体的には、食塩を撒布するということだったはずだ。
*私が知っているのは一ヶ所だけだが、無料の肥料設計所を花巻の花巻の郡役所の脇にあった土木管区でやった。
*下根子桜にいた時、値段の安い「メヌケ」を食べていた。
*「下の畑」の川の側に小屋を建てていた。
《瀬川哲男》(大正15年3月卒、宮野目出身) 
 農学校の時にやり方を教えたのだから自分でやれと言って、賢治先生は卒業生には肥料設計をしてくれなかった。
 以上

《花巻日居城野の『御野立所祈念塔』》
昭和昭和3年10月6日、 この一帯で『陸軍特別大演習』が行われ、昭和天皇が「野立」した。そしてその前の夏に岩手では凄まじい「アカ狩り」が行われたという。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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