《創られた賢治から愛される賢治に》
ちょっと意外なことが『宮澤賢治聲聞縁覚録』に書いてあった。それは、この著者の小倉豊文が直接高村光太郎から聞いたという次のような証言だ。 ところで高村さんは生前の賢治と会っていない。賢治が訪問したのは確かだが、その時に高村さんは留守だったというのが事実だ。これは高村さんからきいたことだから間違いないであろう。
<『宮澤賢治聲聞縁覚録』(小倉豊文著、文泉堂出版)129pより>まさか光太郎と賢治が実は顔を合わせていなかったとはゆめゆめ私は思っていなかったが、歴史家であるという矜恃を常に持っていると私は思っている小倉がかくの如く言っているのだからその信頼度は高かろうとも思った。
この時に一方で思い出すのが、佐藤勝治が「光太郎と賢治―ある冬の日の会見―」で明かしている光太郎の次のような証言である。
宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着ていられたから、冬だったでしょう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけていたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰って行かれました。…(略)…
あの時、玄関口でちょっとお会ひしただけで、あと会えないでしまいました。また来られるといふので、心待ちに待つていたのですが…。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしていて、とても元気でした。
<『みちのくサロン 創刊号 高村光太郎特集』(みちのく芸術社)41p~より>あの時、玄関口でちょっとお会ひしただけで、あと会えないでしまいました。また来られるといふので、心待ちに待つていたのですが…。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしていて、とても元気でした。
こちらの証言の方は、佐藤勝治が「光太郎から直接聞いて手帖に書き止(ママ)めておいたものである」と同書に書いてある。佐藤勝治といえば、昭和20年8月10日の花巻大空襲で焼け出されてしまった光太郎に太田村山口への転住を勧めるなどした人だということだから、この証言にも重いものがある。
したがって、はたして賢治が光太郎と相まみえたか否かは悩むところだ。とはいえ、これらの二つの証言がある以上、少なくともかつて巷間伝わっていた次のような「事実(手塚武の記憶)」はまずあり得ないであろう。
…夕方になり、一緒にめしを喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は林町の家を出て坂を下り、池の端から上野駅近くまで歩き、当時まだ小さかった聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)330pより>そしてまた改めて悟った。あたかも実況中継をしているかのようなかくの如き文章に限って、それは事実からかえって遠いものである傾向があるということを、である。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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いつも大変ありがとうございます。
早速ご高著拝読いたしました。
手塚氏が全く異なる二通りの証言をしていたことに驚きますが、その上に「この記憶に絶対間違いはない」という同氏の確言があったということを知り私は言葉を失ってしまいました。
どちらが事実であったかは自明のことと思われますが、あたかも実況中継をしているかのごときこのような「証言」をしてしまったのは彼が作家の「業」から逃れられなかったからなのだろうかと、戸塚氏の心中を忖度してしまいました。
また一方で、同一の人の同一のことに関する証言にしてかくの如き事態が起こっている訳ですから、まして複数の人が同一のことに対して行った証言が食い違うのは当たり前のことなのだと変なところで納得してしまいました。
そして、平出隆氏の表現をお借りすれば、「書くという行為は不可逆性のゆえに作品はけっして現実に還元されることはない」ということですが、それは「作品」だけにとどまらないということなのだろうかとも考えてしましました。
これからも、どうぞご教示宜しくお願いいたします。