みちのくの山野草

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「経埋ムベキ山 」飯豊森(11/13、頂上)

2021-11-17 12:00:00 | 経埋ムベキ山
 今度は、やはり「経埋ムベキ山 」の一つである飯豊森にも行ってみよう。
《1 》(2021年11月13日撮影)

《2 》(2021年11月13日撮影)

《3 》(2021年11月13日撮影)

《4 頂上》(2021年11月13日撮影)

《5 三角点》(2021年11月13日撮影)

《6 》(2021年11月13日撮影)

《7 十一面観音堂》(2021年11月13日撮影)


 さて、「経埋ムベキ山」としての飯豊森であるが、賢治の詩篇「疾中」 の〔今宵南の風吹けば〕の中に次のように登場してくる、
   今宵南の風吹けば
   みぞれとなりて窓うてる
   その黒暗のかなたより
   あやしき鐘の聲すなり

   雪をのせたる屋根屋根や
   黒き林のかなたより
   かつては聞かぬその鐘の
   いとあざけくもひびきくる

   そはかの松の並木なる
   圓通寺より鳴るらんか
   はた飯豊の丘かげの
   東光寺よりひびけるや

   とむらふごとくあるときは
   醒ますがごとくその鐘の
   汗となやみに硬ばりし
   わがうつそみをうち過ぐる
       <『宮澤賢治全集 五』(筑摩書房)>
この”飯豊の丘”は飯豊森のことであろう。

 それにしても、賢治はなにゆえ、それほど他の山々と比べて際立つわけでもないこんな小山をわざわざ32座の一つに選んだのだろうか。するとせいぜい私が思いつくのは、小原忠のことである。もちろん、小原忠とは賢治の教え子の一人であり、彼は以下のような追想を残している。
    『山と雪と柏林と』
 「岩手山につれてってやろう。」と宮澤賢治先生に云われたのは花巻農学校一年生のときである。それから暫くたった大正十三年の春、ある晴れた日の朝、これから飯豊森(この地方では「いでもり」と呼ぶ)に行こうと私の家に誘いに見えた。飯豊森は花巻南西約四キロ、平野部に佇立する一三一.六米の小さい山で、古い岩鐘である。
 途中先生はその当時売出されたばかりのゼリービーンズと干葡萄を箱ごと私にくれた。そして化学の先生らしく、ゼリーのなかにはゼラチンが入っていると云った。当時私は、ある先生から、骨は石灰と膠からできている。従ってこれらを摂取すれば骨が丈夫になり背も高くなると聞いて、薬店から買求めて摂っていた。それで先生に「ゼラチンを食えばほんとに大きくなるんですか。」と訊いたら、「誰がそんなことを教えたか。」と苦い顔をした。
 そんなことを話しているうちにやがて山に着いて、いよいよ登り始めると、意外に高く路も険しかった。中腹まで登ったら、先生はどんどん頂上目がけて駆出した。私は懸命にその後を追い掛けたが先生はなかなか早くて追いつけなかい。やっとのこと息を切らして頂上に辿りついた。先生は「小原君は案外丈夫なんだな。これなら岩手山に連れてゆける。」と云った。先生は私のことを身体も小さいし、極端に弱いと思っていたらしい。
               <『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』「月報」』(筑摩書房)より>

 もしかすると、「経埋ムベキ山」が書かれたのは昭和6年のことだし、前掲の詩篇「疾中」は同時期、賢治が肺疾患で自宅療養中病と闘いながらも詠んだという30篇の詩群だから、賢治は病に伏しながらかつての教え子との飯豊森登山を懐かしみながら、「雨ニモマケズ手帳」に記したのだろうか。

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 来る12月16日付で、新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))を発売予定です。

【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】
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