みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

旧天山(11/3、久田野)

2023-11-09 08:00:00 | 経埋ムベキ山
 賢治はこんな詩〔何かをおれに云ってゐる〕を詠んでいる。
   何かをおれに云ってゐる
(ちょっときみ
 あの山は何と云ふかね)
   あの山なんて指さしたって
   おれから見れば角度がちがふ
(あのいたゞきに松の茂ったあれですか)
(さうだ)
(あいつはキーデンノーと云ひます)
   うまくいったぞキーデンノー
   何とことばの微妙さよ
   キーデンノーと答へれば
   こっちは琿河か遼河の岸で
   白菜をつくる百姓だ
(キーデンノー?)
(地圖には名前はありません
 社のある・・・)
(ははあこいつだ
 うしろに川があるんぢゃね)
(あります)
(なるほどははああすこへ落ちてくるんだな)
   あすこへ落ちて來るともさ
   あすこで川が一つになって
   向ふの水はつめたく清く
   こっちの水はにごってぬるく
   こゝらへんでもまだまじらない
(峠のあるのはどの邊だらう)
(ちゃうどあなたの正面です)
(それで・・・)
   手袋をはめた指で
   景色を指すのは上品だ
(あの藍いろの小松の山の右肩です)
(車は通るんぢゃね)
(通りませんな、はだかの馬もやっとです)
   傾斜を見たらわかるぢゃないか
(も一つ南に峠があるね)
(それは向ふの渡し場の
 ま上の山の右肩です)
   山の上は一列ひかる雲
   そこの安山集塊岩から
   モーターボートの音が
   とんとん反射してくる
(伏牛はソウシとよむんかね)
(さうです)
(いやありがたう
 きみはいま何をやっとるのかね)
(白菜を播くところです)
(はあ今かね)
(今です)
(いやありがたう)
   ごくおとなしいとうさんだ
   盛岡の宅にはお孃さんだのあるのだらう

   中隊長の聲にはどうも感傷的なところがある
   ゆふべねむらないのかもしれない
   川がうしろでぎらぎらひかる

    <『宮澤賢治全集 四』(筑摩書房)より>

 詩に詠まれている内容から、賢治が下根子桜の自耕地で農作業をやっているときの出来事を詠んだものであろうことが推測できる。そして、特に気になる一つがこの中に詠まれている「キーデンノー」だ。
 
 この11月3日、経埋ムベキ山の筆頭である旧天山にある高木岡神社に行った。
《1 高木岡神社の鳥居》(2023年11月3日撮影)

《2 》(2023年11月3日撮影)

《3 》(2023年11月3日撮影)

《4 》(2023年11月3日撮影)

《5 》(2023年11月3日撮影)

《6 高木岡神社由緒》(2023年11月3日撮影)

 さて、この由緒、
 ……古くから祠があったものと思われる。昔からこの付近一帯は久田野と呼ばれ先住民族が住んでいたらしく古い文化遺跡が数多く発掘されている。神社のあるこの森は長者屋敷と呼んでいた。……
 昔、この社を修業の場としていた出羽(山形県)の羽黒山に属する山伏達が住んでいたので、修業の一環として文化九年十五日に建立したものである。住民は羽黒山と呼び、長い間霊山として信仰の聖域となっていた。明治の初期に高木岡神社と改称となり村社であった。
の中に注目すべきものがある。それは「久田野」であり、”きゅうでんの”と読めるからだ。そしてそれは、賢治が詠み込んでいる前掲の「キーデンノー」と酷似している。
 おそらく、この詩の出だしの「何かをおれに云ってゐる」等という表現から、人にものを訊ねる際のマナーを弁えない中隊長の横柄な態度を賢治は苦々しく思っていることが窺える。そこで賢治はこの横柄な中隊長をからかってやろうと企てて、「久田野(きゅうでんの)」のことを茶化して「キーデンノー」と言ったのではなかろうか。なお、「キーデンノー」とは、やや怒気を含んだ突き放した言い方で「訊いてんのか?」という意味のこのあたりの方言だ。それがゆえに、賢治はしたりと、『うまくいったぞキーデンノー/何とことばの微妙さよ 』とほくそ笑んでいるのではなかろうか。
 つまり、訊かれたことに対してはそれらしく答えているし、賢治の気持ちは込めることが出来たし、さらには中隊長自身には賢治の思惑を悟られることもないはずだ。「キーデンノー」という賢治の心境をピッタシ表した表現をとっさに思いつき、賢治は心の内でしてやったりにんまりしたのではなかろうか。賢治は溜飲が下がったに違いない。
《7 》(2023年11月3日撮影)

《8 》(2023年11月3日撮影)

《9 》(2023年11月3日撮影)

《10 賢治もなかなかやるじゃないかと私は苦笑いしながら、参道を下った》(2023年11月3日撮影)


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