みちのくの山野草

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3542 「雨ニモマケズ」は悔恨と懺悔

2013-10-03 08:00:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
(承前)
「羅須地人協会時代」の一つの結論
 ということで、「羅須地人協会時代=(下根子桜に住まっていた時代)」の賢治に関する結論の一つとして
 ・ヒデリノトキハナミダヲナガシというようなことはしなかったし
 ・サムサノナツハオロオロアルキということはそもそも出来なかった。
ということを導き出さざるを得ないようだ。
 そこでもしこの結論が正しいとすれば、「羅須地人協会時代」の賢治が「雨ニモマケズ」の中にある
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
というようなことを実際したことがあった、ということはいずれも否定されることになる。
 すると、この「二行」を含む次のような〝連〟
  東ニ病氣ノ子供アレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニ疲レタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコワガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンカヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
も同じ属性を持つ可能性が頗る大である。
 そしてこのことを敷衍すれば、「雨ニモマケズ」に出てくる事柄の中には、賢治には出来なかったこととか為さなかったことが少なからずあった、となりそうだ。
「雨ニモマケズ」は「悔恨」と「懺悔」
 さすれば、次のようなことも導かれると思う。
 「雨ニモマケズ」は賢治の「願い」<*1>であり「祈り」だという人も多いようだが、というよりは、実は「雨ニモマケズ」は、賢治の「悔恨」であり「懺悔」そのものであった。
と。
 そしてそれは、「雨ニモマケズ」が手帳に書かれた日(昭和6年11月3日)から約1年8ヶ月前に賢治が伊藤忠一に宛てた昭和5年3月10日付書簡の中の
 殆んどあすこでは はじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
と詫びる賢治の自虐的とさえも言える「羅須地人協会時代」のほぼ全否定の延長線上に「雨ニモマケズ」があった、と考えられることからも言えそうである。

 おそらく、昭和6年11月頃の賢治は来し方を振り返りながら、とりわけ「羅須地人協会時代」の営為を悔いた。あの頃の自分の営為はことごとく慚愧に堪えないことばかりであった。「あすこ」では高邁な理想を掲げてはみたものの為すべき事は為さず、逆に為すべからざる事ばかりを為してしまった、と。たとえば、大正15年の紫波郡内の大旱魃の際などはその最たるものだ。あの大旱魃で紫波郡一帯の農民は悲惨の極みにあったというのに自分は何一つ義捐活動しなかった。それどころかまさしくその時期に自分は大金を使って約1ヶ月の滞京をしてしまったと、己を恥じて後悔した。当時の自分は全く社会性を失っていて、独善的なことばかりを為してしまった、と。
 ではなぜそうなったのかというと、それは当時の自分(賢治のこと)は「殆んどあすこでは はじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもの」だった故にであり、正常な判断力を失っていた。挙げ句そのことにより協会員には多大の迷惑をかけてしまって、今となってはひたすら謝るしかない、と賢治は自身のことを正直に伊藤忠一の前にさらけ出して詫びた。

 私は以上のように当時の賢治を忖度した。賢治が伊藤忠一に語った先の言葉を素直に受け止めれば私はそのように賢治の心中を推し量らざるを得なかったからだ。その頃であれば分別盛りの35歳であった賢治が、一回り以上も歳が若い伊藤忠一に「殆んどあすこでは はじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」と詫びるということは生半可なことでは出来ないことであり、余程の苦悩と懊悩の果てに辿り着いた、賢治の覚悟と決意がこのような想いを語らしめたとしか考えられないからである。なお、これと似たことは「『春と修羅 第三集』の詩稿を整理した黒クロス表紙Eの力紙」にも「この篇/疲労時及病中の/心こゝになき手記なり」と書いてある<*2>ということだから、この賢治の想いは一時的なものではなかったであろうことがわかるかし、なおさら重く受け止めねばならない。

 そう捉えれば、賢治は「雨ニモマケズ」の最後を
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ
……③
で締めくくったことも素直に理解できる。この〝③〟の前の記載内容の殆どは賢治が実際には出来なかったり、あるいはしなかったりした事柄ばかりであり、一方、「あすこ」で行った事どもは皆それらとは真逆の事ばかりであったということを賢治は「悔恨」し、それらの出来なかったり、為さなかったりした事どもを「懺悔」しながら
 これからはせめてそうなりたいということで手帳に書いてみたものが「雨ニモマケズ」であった。
と。そして、そう見ている私がいることに、ここに至って私は気付いた。
**************************************************************************
<*1:註> 詩人はこの詩をまつたく人に見せる気はなく、純粋に自分の心構のためにひそかに書きしるした。この詩を読むと第一にさういふ、心を一途に傾けてゐる純粋さが我々を打つ。この平凡なやうな、へりくだつた、最低の願のやうに見える「サウイフモノニワタシハナリタイ」といふ声をよくきいてゐると、それが実に大きな願いであることにわれわれは気づいてくる。此の「私」を滅した、はからひや高ぶりの無い境地に人は容易に到り得ない。しかし斯ういふ人にして始めて萬人の真の友たり得るのだといふことにわれわれはだんだん気づいてくる。この詩人は岩手県の農民のために一生を捧げた。
     <『詩人翼賛―朗読詩集 日本精神の詩的昂揚のために』第二輯(大政翼賛会文化部篇、目黒書店)>
<*2:註> 木村東吉氏の「宮沢賢治・封印された『慢』の思想―遺稿整理時番号10番の詩稿を中心に―」によれば、これと似たメモが『春と修羅 第三集』の詩稿を整理した黒クロス表紙Eの力紙にあり、そこには「この篇/疲労時及病中の/心こゝになき手記なり/発表すべからず」とメモされているという。
        <『国文学攷』第一七六・一七七号合併号(広島大学国語国文学会編2003年)40pより>    
 
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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