みちのくの山野草

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㈢ 自分の頭と足で検証

2024-06-21 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

 ㈢ 自分の頭と足で検証
 さらに、これもまたおかしいぞと思ったのは「旧校本年譜」の大正15年7月25日の項の次の記述、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。 〈『校本全集第十四巻』〉
を知った時だった。ショックだった。賢治が下根子桜に住んでいた時代、いわゆる「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったというのが通説のはずだが、そこに「寝泊まりしていた千葉恭」とあるのだから、少なくとも下根子桜に移り住んだその年の夏に、ある人物が賢治と一緒に暮らし続けていたということになる。となれば、「羅須地人協会時代」は「独居自炊」という通説は危ぶまれるからだ。
 そして、そもそもこの千葉恭とは如何なる人物だったのだろうか。そんな人物が下根子桜の宮澤家別宅に寄寓していたことなど全く知らなかった私の頭の中はしばし混乱した。そこで、千葉恭なる人物のことをもっと知りたいと思ったのだが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに「寝泊り」していたのかも、その出身地さえも含めて、千葉自身のことに関してはあの膨大な『校本宮澤賢治全集』のどの巻にも殆ど何も書かれていなかった。
 その一方で、賢治関連の資料や論考の中で、千葉が行った講演の内容や彼の著した追想等がしばしば登場していることを知った。例えば、千葉の講演そのものである、「羅須地人協会時代の賢治」では、
 文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一しよに生活してまいりましたのは私自身百姓に生れ純粹に百姓としての一つの道を生きようと思つたからでした。そんな意味で直接賢治の指導をうけたのは或は私一人であるかもしれません。 〈『イーハトーヴォ復刊第2号』(宮澤賢治の会、昭和30年)〉
と千葉は述べていた。しかしながらそれらのどの資料の中にも、千葉が下根子桜の宮澤家別宅でいつ頃から暮らし始めたのかも、いつまで賢治と一緒に暮らしていたのかというその期間についても、ずばり直ぐに確定出来るものは一つも見つからなかった。そして、その論考の中にも同様にだ。

 しかしながらその後、幸運なことに、千葉恭の三男である滿夫氏に私はとうとう会うことが出来(平成22年12月15日等)、長男の益夫氏にも会うことが出来(平成23年6月16日等)て、多くの証言を得た(具体的には『本統の賢治と本当の露』の10p~11pをご覧いただきたい)。
 しかしながら、「下根子桜」で恭が賢治と一緒に生活していた期間等は二人の子息の証言によっても明らかに出来なかった。ところがあることが切っ掛けで、確かなルートから、恭が「穀物検査所」を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ、
大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
昭和7年3月31日 穀物検査所宮守派出所に正式に復職
というものであった。
 一方、千葉は、
 その中に賢治は何を思つたか知りませんが、学校を止めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難となつて来たのでしよう。私のところに『君もこないか』という誘いがまいり、それから一しよに自炊生活を始めるようになりました。〈『イーハトーヴォ復刊第2号』、宮澤賢治の会)〉
と述べていたし、三男の滿夫氏は、
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
     〈『本統の賢治と本当の露』10p〉
と教えてくれたから、宮澤家別宅寄寓の始まりは「穀物検査所」を辞めた大正15年6月22日頃であったとほぼ判断出来るだろう。
 また、その寄寓期間についてだが、千葉恭自身は、
 先生との親交も一ヶ年にして一應終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサ〳〵してとう〳〵役所を去ることになりました。私は役人はだめだ! 自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)9p〉
と述べているから、「昭和四年」に問題はあるものの、恭の宮澤家別宅寄寓期間は長くとも一年以内であろう。
 するとこの時に思い出すのが恭の、
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。〈『四次元7号』(宮澤賢治友の会)8p〉
とか、
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会をみていく場合つねに私を叱咤するようになつてまいりました。〈『イーハトーヴォ復刊第2号』、宮澤賢治の会)〉
という、いずれも松田甚次郎に関する証言である。よって、恭は甚次郎を下根子桜の別宅内で目の当たりにしていたとほぼ判断出来そうである。
 一方周知のように、甚次郎は昭和2年3月8日に下根子桜の賢治の許を初めて訪れ、同年8月8日に二度目で最後の賢治宅訪問をしている。よって、千葉恭の宮澤家別宅寄寓期間について次のような、
〈仮説❶〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8カ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
が定立出来るし、その反例もないことが確認出来るから検証出来たことになる。
 従って、本当のところは、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないということになる。だから、どうやら千葉の宮澤家別宅寄寓等ついては、一部意図的に隠されてきた蓋然性が高いし、新たな事実も幾つか明らかに出来たので、これらのことに関して実証的かつ詳細に論じた拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』を平成23年に自費出版し、入沢康夫氏に謹呈した。すると入沢氏から、平成23年12月27日付けで、
 これまでほとんど無視されていた千葉恭氏に、御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。それにしても、貴兄もお書きになっておりますが、当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか、不思議ですね。
というご返事を頂き、身に余る評価を賜った。
 そしてまた、まさに入沢氏の指摘どおりで、なぜ「言及していないのか」私も不思議に思った(なおその後、この「不思議ですね」については、ある程度解明出来たのでこのことについては『本統の賢治と本当の露』の16p~25pで報告してあるのでご覧いただきたい)。
 ただしその一方で、入沢氏の「これまでほとんど無視されていた千葉恭氏」というその「無視されていた」理由を私は解明出来ずにいたのだが、そのことも最近少しずつ見え始めてきたような気もする。それは、前項の最後で私は、
    この「訂正」が筑摩書房の本に初めて登場したのもまたあの昭和52年のことであったということになる。
と述べたがそれだ。おそらく、「羅須地人協会時代」を「独居自炊」と修辞するようになったまさにその頃ではなかったのかと直感したからだ。
 そこで早速、幾つかの著書の「賢治年譜」等の大正15年分から関連した記載を拾い上げてみたならば、主立ったものを掲げると次のようになった。
   【「独居自炊」に関する主な著書の「賢治年譜」等における大正15年の記載一覧】
(1)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和14年、羽田書店)の「宮澤賢治略歴」
四月 花卷町下根子櫻ニ羅須地人協會開設。同所ニ於イテ農耕ニ從事、自炊ス。
(2)『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年、十字屋版)の「年譜」
 四月、花卷町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(3)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年、冨山房)の「宮澤賢治年譜」
 四月、花卷町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。(宮澤清六編)
(4)『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、昭和23年)の「宮澤賢治略年譜」
 四月、花卷町下根子に獨居。農耕自炊の生活に入る。
(5)『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、昭和23年発行、26年再版、日本社)の「宮澤賢治略年譜)」
 四月、花卷町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事する。
(6)『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、昭和25年発行、酪農学園通信教育出版部)の「宮澤賢治年譜」
 四月 花卷町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(7)『昭和文学全集14宮澤賢治集』(昭和28年発行、角川書店)の小倉豊文の「解説」
大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花卷郊外に獨居自炊の生活を始めた。
(8)『宮澤賢治全集十一』(昭和32年、筑摩書房)の「年譜」
 四月、花巻下根子桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(9)『高村光太郎・宮澤賢治』(伊藤信吉編、昭和34年、角川書店)の「宮沢賢治年譜」
 四月、花巻町大字下根子小字桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(10)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年、筑摩書房)の「年譜」
 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
(11)『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(平成13年)
 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
 このように並べてみると修辞の仕方の変化に関してまず気付くことが二つ。それは、「主立ったもの」以外のものも含めてのことだが、
 まず一つ目は、早い段階ではどの著書も揃って〝独居〟という修辞はしていないから、実は「羅須地人協会時代」に賢治が〝独居〟生活をしていたという周りの認識は早い段階ではなかったのではないかということである。つまり、長期間賢治と一緒に、それも結構早期の段階から「下根子桜」で寝食を共にしていた人物(千葉恭)がいたことは周知の事実だったのではなかろうか、ということである。
 そして二つ目は、『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では「四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した」のように〝自炊〟だけであったのに、筑摩書房はあの「昭和52年」から「独居自炊」という修辞を使い始めたということだ。そして、その後は殆ど皆が「羅須地人協会時代」を「独居自炊」と修辞するようになったということである。
 そして一方で知ったのが、高村光太郎がまさにそのものずばりのタイトルの『獨居自炊』という随筆集を昭和26年6月に出版していたことだ。そしてこの随筆集の巻頭を飾るのが、
    獨居自炊
 ほめられるやうなことはまだ爲ない。
 そんなおぼえは毛頭ない。
 父なく母なく妻なく子なく、
 木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
 草の葉をむしつて鍋に入れ
 配給の米を餘してくふ。
…筆者略…
 あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
 一二三四五六と或る僧はいふ。
             ―昭和一七・四・一三―
        〈『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)〉
という随筆であった。よって、これは昭和17年4月13日にしたためたもののようで、光太郎は早い時点から自分の生活を「独居自炊」と規定していたということになる。もちろん当時光太郎は花巻に疎開して自己流謫、太田村山口で「独居自炊」生活をしていたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版するのはごく自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。そこで私は推測した、

 この昭和26年出版の高村光太郎の随筆集『獨居自炊』が、前掲した「修辞の仕方の変化」の切っ掛けだったのではなかろうか。

と。というのは、前掲の【「独居自炊」に関する主な著書の「賢治年譜」等における大正15年の記載一覧】における「独居自炊」の初出が昭和28年であったから、出版時期といい、そのタイトルといいほぼピッタリだからである。
 どうやら、当初は賢治の「羅須地人協会時代」の修辞としては使われていなかった「独居自炊」であったが、昭和26年発行の光太郎の随筆集『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治の「羅須地人協会時代」に対しても「独居自炊」という四文字で修辞されるようになっていったのではなかろうかと推測出来る。他ならぬ高村光太郎のそれであればなおさらに。そして、その先鞭をつけたのが『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)であり、小倉豊文が初めて使ったからではなかろうか。ただし、しばらくはこの四文字「独居自炊」は定着しなかった。ところが「昭和52年」に筑摩書房が『校本宮澤賢治全集第十四巻』所収の「賢治年譜」の大正15年の項で、「四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る」と記載したものだから、それ以降、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったということになったと言えそうだ。しかし、もともとそう呼ばれていたわけではないし、この四文字の「独居自炊」を真っ先に使ったのは高村光太郎であったから、これを「羅須地人協会時代」の修辞のために使った人は、「換骨奪胎では」と揶揄されるかも知れないという不安、あるいは良心の呵責を抱いたに違いないし、後ろめたさを感じたのではなかろうか。
 なぜなら、この人は、『校本宮澤賢治全集第十四巻』には大正15年のこととして、
   四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
と記載しながらも、同巻の大正15年7月25日の項には、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
と記載しているので、その矛盾にもちろん気付いていたはずだからだ。ついては、その対策を講ずるために苦慮したであろうことも想像に難くない。
 そこで私は、あっ、だから「これまでほとんど無視されていた千葉恭氏」ということになるのかと膝を打った。それゆえに、千葉恭については、
 いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも含めて、恭自身のことに関してはあの膨大な『校本宮澤賢治全集』のどの巻にも殆ど何も書かれていなかった。
のではなかろうか、と。そしてまた、入沢康夫氏のあの疑問、
   当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか、不思議ですね。
についても、同じような理由からであったと説明がつくのではなかろうか。
 つまり、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」とは言い切れないのに、なぜそう言われ続けてきたのかというと、
 「羅須地人協会時代」を「独居自炊」と修辞したいがために、それを否定する存在である千葉恭を無視することによって、賢治周辺から遠ざけた。
からそうできたのだ、と私には思えた。
 こうして、少なからずあれこれと賢治を助けてくれた千葉恭であったのに、千葉はいつの間にか無視されていったということが否定できないことに私は気付いた。それは、石井氏の言う「自分の頭と足で検証してみる」ことによって、私はこのことを明らかに出来たわけだが、そのようなことを行うべきは今頃でもなく、しかも門外漢で非専門家の私ではなかろうに、とぼやいてしまう。
 とは思いつつも、賢治にとって重要な人物のはずの千葉恭について入沢康夫氏から、
 これまでほとんど無視されていた千葉恭氏に、御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。
というように、拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』に対して身に余るお褒めの言葉を頂いたことはとても嬉しいし、ありがたい。だがしかし、門外漢で非専門家の私に対して、入沢康夫氏にこうまで言わせてしまうような『賢治学界』って、一体どうなっているのだろうかと私は途方に暮れてしまう。「独居自炊」とは言い切れないのに、千葉恭をなおざりにしてきた同学界ってこのままでいいのだろうか、「いい加減だ」と誹られたりすることはないだろうかと、老いぼれた私は不安が募るばかりだ。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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