みちのくの山野草

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3406 不可解なこと(#5、「賢治先生」)

2013-07-26 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『イーハトーヴォ 創刊号』より
 ところでそもそも、賢治周縁の人達の中で誰がいち早く賢治と露の関係を公にしたかというとそれは他ならぬ高橋慶吾である。
 具体的には、『イーハトーヴォ 創刊号』(昭和14年11月)においてであり、その中に高橋は「賢治先生」というタイトルの回想を寄せていて、高瀬露に関して次のようなことを証言している。
 某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、昼となく訪ねて来たことがありました。その女の人は仲々かしこい気の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。又、その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。
 お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に対して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、先生も又ほんとうに自分が悪かったのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
              <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年11月)より>
 そしてこの回想を読んでみると、関の『宮澤賢治素描』、Mの『宮澤賢治と三人の女性』に出てくる、賢治と高瀬との一連の事件の情報源がここにかなりあり、それらが昭和14年の早い段階で公にされていたことを知ることができる。なお、この時点ではその女性の名が高瀬露であるとは顕わにしていない。
 また、高瀬露と賢治の絡む事件に関して、Mと高橋慶吾がそれぞれ述べている内容を比較するとあることに関して、次のような不等式が成立しているように私には見える。
   M≫高橋慶吾
         (〝a≫b〟とは、aの方がbよりはるかに大であるという意味である)
さて、ではこの式は何に関してかというと、高瀬露を悪女に仕立てている度合いであり、逆に言えば賢治を庇っている度合いである。例えば、上掲のように高橋慶吾の場合は高瀬露のことを評価している点もあれば賢治を厳しく見ている点もあるが、Mは高瀬露のことを一方的に悪女に決めつけていることがMの著書『宮澤賢治と三人の女性』を読めば判るからである。
 一方で、なぜ高橋はわざわざ『創刊号』でこのようなゴシップもどきを早々と公にしたのかということに思いを巡らしてみると、そこには高橋の何らかの意図、あるいは不自然さが潜んでいるということも同時に感ぜざるを得ない。そのことは高橋の次のような言動からも言えるのではなかろうか。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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