みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3422 嘉内の放校処分と帰農

2013-08-03 09:00:00 | 賢治関連
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
放校処分
 それでは、保阪嘉内が甲府中学を卒業してからのことを『花園農村の理想をかかげて』と『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』を参考にしながら、以下に簡単に並べてみたい。
◇大正4年3月に甲府中学を卒業した保阪嘉内は、同年5月に東北大学札幌農学科大学を受験したが不合格。一年間の浪人生活を送る。
◇大正5年4月、盛岡高等農林農学科第二部(現農芸化学科)に入学。そこの学生寮自啓寮で賢治の同室となり、賢治との交遊が始まる。
 一方、その頃の保阪は日記に
   ケミストたるべきかはた村長たるべきか
            <『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(大明 敦編著、山梨ふるさと文庫)57pより>
と記しているという。
◇大正6年7月1日『アザリア』第一号発行。
◇大正7年2月20日『アザリア』第五号発行。
 嘉内は「社会と自分」という断想を寄稿したが、その中に
今だ、今だ、世界のあらゆるものの上にあって住むべき時がわれに来たった。あゝ最期の日は近づけり、さばきの日は近づけり、偽善者よ去れ、悧口者よ走れ、
ほんとうにでっかい力。力。力。おれは皇帝だ。おれは神様だ。おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム。
ということ等を書いた。
◇  〃 3月13日の終業式の日に、保阪嘉内除名の掲示が張り出された。しかし、終業式を待たずに帰省していた保阪嘉内には知る由もなし。
◇  〃 4月 上京。明治大学に籍を置き、受験勉強。
◇  〃 6月 札幌と駒場の農科大学を受験するも不合格。
◇  〃 6月16日 母急逝。嘉内は帰農の決意。
◇  〃 11月  ふる里に戻り、農業従事のための準備に入る。
帰農
◇大正8年2月   「農人」としての活動開始。
◇  〃 3月   来盛。 
◇  〃 8~9月  帝国農会の青年指導者講習に参加。
 帰農した嘉内は、自分の村(藤井村)の青年団の活動にも団歌を作るなどして熱心に取り組んだ。 

            <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)16pより>
◇  〃 12月  一年志願兵として応召。
◇  〃 12月2日 賢治から国柱会に入会した旨の来簡。
 その後、次第に激しさを増してゆく賢治からの折伏の手紙の第一信であった。

            <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)64pより>
◇大正9年2月  『砂丘』第2号に嘉内寄稿。

            <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)19pより>
 「人は力無くして折伏を摂する事はあまりにも僭越至極の事である」と暗に賢治の折伏を批判。
◇大正10年7月18日  宮沢賢治と再会。
 
            <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)70pより>
 一般には、この日嘉内と賢治は激しく口論した結果、永遠に決別したと思われている。

◇  〃 12月(推定) 保阪嘉内宛書簡

            <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)72pより>

 続きの
 ”保阪嘉内再度の営農”へ移る。
 前の
 ”「花園農村」”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3421 小説『黒い花』 | トップ | 3423 黒い花≠アナーキスト大... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治関連」カテゴリの最新記事