みちのくの山野草

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3420 「花園農村」 

2013-08-02 09:00:00 | 賢治関連
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「花園農村」とは
 ところで、「花園農村」とは一体何のことであろう。記念誌の『花園農村の理想をかかげて』には、次のようなことが書かれていた。
  花園農村の目覚め
 嘉内は、甲府中学校(現甲府一高)に進学後、短歌や詩の創作に励むと同時に、大島正健校長の影響を受けトルストイの思想やキリスト教への強い関心を持つようになります。そして、「農学を修め、村長になって故郷を模範的な農村―『花園農村』にしよう」との理想を持ち、盛岡高等農林に進学します。
            <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)4pより>
ということは、
   「花園農村」≒「模範的な農村」
と捉えてよさそうだ。
 一方、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』においては、次のようなことが述べてあった。
 嘉内は既に四年生の秋には、自分の理想とする模範農村を「若葉の朝…我理想の村…」と題して小説に描いていた。その中では、道路が整備され、村立病院や時計台、娯楽・教養・運動などの設備を整えた公会堂などが存在し、農民たちは誇りを持って自らの耕地を耕していた。こうした心の中に作り上げた模範農村として「花園農村」をこの世に実現するにはどうすべきか、そして農業がいかに魅力あるものであるかを学友たちに語り始めていたのであった。
 嘉内の初めての弁論は大正三年六月十七日…(略)…発登壇の嘉内の論題は「美的百姓」であった。…(略)…「土に生まれ土の生むものを食って生き而して死んで土になる。我等は畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中尤もよきものを択み得た者は農である。諸君農業は神聖であります。似而非文士、豪傑がり屋、自称哲学者のいづれよりもずっと勝って居ります。それ故に私は諸君が須らく美的百姓、農業家としてたたれんことを御願ひ致します」と結ぶ。こうして嘉内は、それまでの漠然とした農業への憧憬から一歩進んで、理想としての農業を自らの考えとして論じるようになっていた
            <『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(大明 敦編著、山梨ふるさと文庫)35p~より>
ということで、こちらは「花園農村」の説明がより具体的であって、
 「花園農村」≒「道路が整備され、村立病院や時計台、娯楽・教養・運動などの設備を整えた公会堂などが存在し、農民たちは誇りを持って自らの耕地を耕すような模範農村」
ということになりそうだ。

 こうして保阪嘉内の当時のことを少し知り、甲府中学時代の保阪嘉内と同学年であった盛岡中学時代の賢治とを比べてみると、どうやらかなり嘉内の方が大人びていたようだ。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。

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