常識について思うこと

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「手ぶら投法」の妙

2008年08月31日 | 人生

先日、久しぶりに昔の仲間でソフトボールに興じました。中学・高校時代に野球をやっていましたが、それ以降は、あまり本格的にスポーツをすることはなく、適当に楽しむためのスポーツをしています。面倒くさいことを言わずに、気楽にやっていると、意外といいプレーができたり、無理のない動作ができるようになったりするものです。そんななか、先日のソフトボールでは、すごく自然なフォームでボールを投げられていたように思いました。名づけて「手ぶら投法」。

中学・高校時代は、自然にプレーをしていたように記憶しています。フォームについて、まったく考えないわけではないですが、ボールを捕ったり、投げたりする動作をどうするべきかを考える前に、自然と体が動いていたように思うのです。

ところが社会人になると、それが非常に難しいものであると思い知らされるようになります。持久力や瞬発力を含めて、相対的に体力が落ちているなか、かつてのようなプレーをしたいと願う欲が出てしまい、あちこちに無駄な力が入ってしまうようです。そして次第に、正しい投げ方が分からなくなってしまうのです。そんな状態で、数年前、ろくな準備運動もせずに、ビュンビュンと調子づいて投げていたら、すっかり肩を壊してしまいました。一時は、日常生活にも支障をきたすほど、大変な痛みようだったのですが、意識的に肩の力を抜くことを通じて、だいぶ症状がなくなりました。

それ以降、野球やソフトボールでボールを投げるときには、少々、気をつけるようにしていたのですが、先日のソフトボールで編み出した投球法こそが、「手ぶら投法」なのです。

とにかく、肩から先にはまったく力を入れません。ブラブラと力を抜いた状態で、ボールを軽く握って投げるのですが、これが非常にいいのです。肩に負担を感じないだけでなく、ボールもいわゆる「活きた球」になってくれます。

もちろん、力を抜いているといっても、ボールを放す瞬間には、無意識に力が入っているのでしょう。そうでなければ、ボールが「活きた球」にはならないのだろうと思います。実際、これ以前にも、腕の力を抜くような投法にチャレンジしたことがあるのですが、なかなかうまくボールをコントロールできず、失敗していました。

今回、「手ぶら投法」を実践しながら思うことは、投球動作が始まってから終わるまでの間、「あそこにボールが行く」とイメージすることの重要性です。このイメージがきちんとできていると、何となく回している腕が、(まったく意識はしませんが)あるポイントできちんとボールを放して、自然に振り切れるようになるのです。ボールを速く投げたいと思えば、腕の回転も速くはなりますが、けっして力を入れているわけではないため、ほとんど肩への負担は感じません。

ところで、思い返してみれば、これは中学・高校時代からやってきたことのように思います。余計なことを考えずに、ひたすら「できること」をイメージしていた結果として、自然なプレーができていたように思うのです。そして、このように中学・高校時代に無意識でできたことを、あらためて意識しながらできるようになるということは、なかなか気持ちがいいものだと思いました。

このことは「無意識の意識化」とも言えるでしょう。私は、このことが大変重要であり、人生全体においても、大いに進められなければならないことなのだろうと思います。これを別の言い方で「気付き」と表現したり、ある事柄に関しては「悟り」と言ったりするのでしょう。

今回、私は「手ぶら投法」を通じて、中学・高校時代の「無意識の意識化」に成功しました。これはある意味で「気付き」であり、「悟り」です。しかし一方で、このことと引き換えに、ボールをどのように放すかということは、無意識の世界に沈みこんでしまいました。それまで「腕をこんな軌跡で振る」、「こんなタイミングでボールを放す」ということを意識していた私は、「無意識の意識化」に成功して以降、それがよく分からなくなってしまったのです。つまり「意識の無意識化」です。

「無意識の意識化」がいいのか、はたまた「意識の無意識化」がいいのかは、正直よく分かりません。ただ、ひとまず「手ぶら投法」を通じて、気持ちよくボールが投げられることは良いことなので、しばらくこの状態を楽しもうと単純に思うのでした。

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