常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

隠して通す正義の重さ

2008年08月12日 | 社会

23年前の今日、日航機が墜落する事故がありました。この事故を巡っては、いろいろな議論がなされています。真相については、未だ謎に包まれているとされており、事故の原因やその後の救助活動に対して、疑問を呈する意見が後を絶ちません。

私自身、この事故については、当時の記憶として、いくつか憶えていることがあります。そのなかで、とくに印象的だったのは、フライトレコーダーに録音されたクルーの方々と管制塔のやり取りのような会話でした。当時の段階では、フライトレコーダーの中身そのものが公表されることはなく、声優を使った会話のやり取りが、テレビの報道番組などでしきりに流されたのです。「ライトターン」、「レフトターン」といった言葉が淡々と繰り返されるなか、飛行機が制御される様子が再現されるような映像を覚えています。

後日、フライトレコーダーの中身が公表されて、聞いたことがありますが、それ以前までに覚えていた会話の印象と、あまりにも違うことに愕然としました。当たり前のことですが、とてつもない緊迫感と、必死に飛行機を立て直そうとするクルーの方々の思いがひしひしと伝わってくるのです。聞いているだけで、胸を締め付けられるような思いがしました。当時、声優さんで再現された「ライトターン」、「レフトターン」という会話とは、あまりにもかけ離れていることにショックを受けたのです。

その事故から、23年の月日が経ったということです。冒頭にも述べたとおり、この事故については、いろいろな憶測を含めて、さまざまな議論がなされています。そして私自身は、この事故について、少なくとも一般的にメディアで報道されていたような、「事故の原因が機体後部の圧力隔壁の破損だった」ということを、そのまま信じるのは厳しいように思っています。

この事故に関する事実整理や原因分析については、インターネット上での情報のみならず、既に出版されている多くの書籍のなかでも展開されているので、ここでは省略いたします。また、それらの分析には、間違った憶測が含まれている可能性も否定し得ませんので、最終的に何が正しいかを論ずるのは、困難だろうとも思います。しかし、そうだからと言って、一般的に言われている事故に至る経緯や原因、あるいは救助活動の中身が、全て問題がなかったということにはならないことは確かでしょう。私としては、どんなかたちであるかは別として、何かしらの重要な真相が隠されていることは、間違いないと考えざるを得ないと思っています。

ところで、もしこの事故に隠された真相があるとするならば、当然、それを隠している方々がいることになります。500人を超える犠牲者を出した事故について、その真相を隠蔽するということは、大変なことです。しかし、それだけ大変なことをするからには、隠蔽をする方々にも、それなりの理由がきちんとあるのだと思います。私は、そういう意味で、そうした「真相を隠す」行為そのものにも、やむを得ない何らかの理由があり、致し方ないものがあるのではないかと考えます。別の言い方をすれば、真相を隠す方々からすれば、500人以上の犠牲者を出そうとも、この事故を隠蔽し続けることで、守らなければならない正義があると信じているということでしょう。私は、現時点において、こうした隠蔽の事実があったとしても、それ自体を責めることは難しいと考えます。もしかしたら、そうした方々が、事故の真相を隠蔽して、彼らなりの正義を守り通しているが故に、私たちが享受できている何かがあるのかもしれません。

しかし、そう考えることと「事故の真相」が正当化されることとは、全く次元が異なります。事故で多くの方々が亡くなったことは事実であり、本来、けっしてあってはならないことなのです。

私たちは、隠蔽される側の人間であり、事故の真相を知る立場にはありません。しかし一方で、事故の真相を隠蔽される方々がいらっしゃるとするならば、その守らなければならない正義が、亡くなった多くの方々の犠牲のうえに成り立っているということを絶対に忘れてはいけません。そして、生きている限りにおいて、犠牲になった方々や遺族の方々の思いを背負っていていただかなければなりません。

事故を隠蔽することで守る正義は、本当に犠牲になった多くの方々の命よりも重いものなのでしょうか。事故を隠蔽している方々がいらっしゃるとするならば、その方々にとっては、常に真剣な自問自答を必要とするテーマだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする