常識について思うこと

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日本人の大切な「ゼロ」

2008年08月22日 | 日本

あまり特定の区分をもって、人に対して決め付けるような言い方をするべきではないと思いますが、それでも日本人には日本人独特の特性というものが、あるように思えてなりません。

そのうちのひとつが、コミュニケーションに対して、日本人が持つ「ゼロ」の感性です。

先日、海外で活躍されているある舞台俳優の方が、海外では「・・・」を単なる無言と捉えるけれども、日本人独特の「・・・」のニュアンスを海外に広めていきたいといった趣旨の発言をされたのを聞きました。言うまでもなく、「・・・」は、単なる無言ではありません。日本人には、少なからず「・・・」の沈黙のなかに、何らかの意味を見出そうとする感性があるのではないかと思うのです。「・・・」という表現を使う側からすると、それはたしかに無言であり、沈黙にすぎないのだけれども、それを敢えて「・・・」と表現することで、言葉を発する以上に、大きな意味を持たせようとしているわけです。それは、何も語らぬ「ゼロ」の状態を、読み取る側に解釈を委ねた「無限」と考えることもできます。

さらに別の話ですが、「ホウレンソウ」について、こんな話も聞きました。

「ホウレンソウ」とは、野菜のほうれん草ではなく、組織のコミュニケーションで大切とされる「報告・連絡・相談」の略語です。論点は、「本日収穫なし」という連絡をどのように捉えるかということです。日本人としては、「ホウレンソウ」の感覚で、「本日収穫なし」を上司に報告することは、ごく普通のことであるのに対して、収穫があるならともかく、なかったものを報告するのはおかしいというのが、欧米人の感覚だというのです。私は、欧米人ではありませんし、実際に欧米人の方々に対してアンケートをとったわけでもないので、何ともコメントのしようがありません。ただ、私個人としては、「本日収穫なし」という報告は、収穫がなかったことを伝えるという意味で、立派な報告であろうと思います。つまり、「本日収穫なし」という「ゼロ」も、単なる「ゼロ」ではないということです。

そしてもし、こうした「ホウレンソウ」のかたちが、本当に日本人的な発想(あるいは日本人に強く見られる傾向)だとするならば、こうした場面においても、日本人は「ゼロ」に意味を持たせるという思考が働いていると考えることができるでしょう。

このことは、「Yes」とも「No」とも言わない、日本人的傾向にも表れていることかもしれません。このことの良さや問題点については、既に述べているとおりです(「「No」と言えないことへの誇り」参照)。「Yes」とも「No」とも言わない、つまり答えがないという「ゼロ」は、単なる「ゼロ」ではなく、答えを得られなかった相手に対して、答えなかった人間の意図についての解釈を委ねるという意味があると理解するべきでしょう。

このように、「ゼロ」のなかに何かしらの意味があると考える感性は、これからの時代において、非常に大切なことではないかと思います。とくに、唯物論的な価値観が発達し、見方によっては暴走をしているようにさえ見える現代の世界において、目に見えるものや、分かりやすいものに対する重み付けが進みがちになってしまいます。このことは、社会のあらゆるところで、非常に深刻な問題として、徐々に顕在化してきているように思うのです。

こうした世界にあって、目に見えなかったり、答えがなかったりするからこそ、そこに無限の価値があると考えることは、とても高度ではありますが、人間にとって極めて重要な価値を持ち得ます。そして、「ゼロ」に意味を持たせる思考や価値観は、本来、日本人特有のものではなく、世界中の人類が共通して持っている感性であるとも思います。ただ、上記のような事例から推測するに、こうした感性は人類が共通して持っている感覚ながら、日本人は比較的、そうした傾向が強いと言えるのかもしれません。そうだとするならば、これからの時代において、日本人が果たすべき役割は、極めて大きいと言えると思います。

次の時代においては、「ゼロ」の意味を読み取る感性に対して、人類全体が、もっと強く明確に共有していくことが、大切になってくるでしょう。数学の世界における「ゼロの発見」という言葉がありますが、このことは、人間の思考やコミュニケーションにおける「ゼロの発見」にあたります。

日本が持つ文化やコンテンツには、こうした要素が大いに取り入れられています。日本人は、そうした自らが持つ「ゼロ」に対する感性を大切にしつつ、それを理解し、世界に対して、もっときちんと発信していくべきではないかと思います。

コメント
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