常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

ケンシロウに物申す

2008年01月31日 | 独り言

実は「北斗の拳」の主人公、ケンシロウには昔から言いたいことがあった。
「少しはラオウやシンを見習ってくれ」

ラオウやシンは、人々を暴力で支配しようとする不届き者ではあるけれど、きちんと自分たちの軍隊を編成して、秩序を保った集団(王国?)を作り上げていた。彼らは、常に組織立った行動をすることで、自分たちの主義や思想に実現力を持たせていたと思うのです。それに対して、ケンシロウは一匹狼を貫き通す。ケンシロウが現れた街では、一時的に平和が訪れるかもしれないけれど、彼の集団や王国があるわけではないから、せっかくケンシロウが救った街でも、ケンシロウが去ってしまえば、常に悪党どもに狙われてしまう危険と背中合わせの状態となってしまう。これでは、いつまでも経っても真の平和は訪れないと思うのです。

それからもうひとつ。
「人を殺しすぎ・・・」

ケンシロウほど強ければ、相手を殺さずともその強さを誇示することで、十分に服従させることはできるし、心服させることだってできたはず(アインみたいな感じかな・・・)。モヒカン姿の雑魚キャラたちにだって心はある。彼らに対して圧倒的な強さと優しさと寛容さを持って接してあげていたら、ケンシロウを慕って、ケンシロウのために命を投げ出そうと思う雑魚キャラだって、もっとたくさん出ていたはず。その繰り返しによって、もっと平和的な解決ができたと思うし、上記のような「ケンシロウ軍団」が出来ていたと思うのです。ラオウに対して、涙を流しながら拳を振るっていたけれど、他の弱い雑魚キャラにだって、そうすれば良かったのに・・・。

いくら悪人でも、怒りに任せて殺しちゃいけませんぜ。これからの時代、ヒーローのカッコ良さは戦わないところにあるはずなのじゃっ!

今日の「新時代ヒーローへの期待」では、そんなことも考えました。

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新時代ヒーローへの期待

2008年01月31日 | ヒーロー&アニメ

この時期、日曜朝のテレビ朝日系「スーパーヒーロータイム」では、番組の入れ替えが行われています。「仮面ライダー電王」が終わり、つい先日から「仮面ライダーキバ」が始まりました。そして間もなく「ゲキレンジャー」が終わって、「ゴーオンジャー」が始まります。このスーパーヒーロータイムに限らず、子供番組のヒーロー(あるいはヒロイン)モノでは、正義のために悪を倒す(殺す)ストーリーが展開されます。しかし私は、これまでのヒーロー番組のこうしたストーリー展開には、そろそろ限界が近づいてきているのではないかと思います。

スーパーヒーロータイムの番組で言えば、「ゴーオンジャー」は、いわゆる「スーパー戦隊モノ」というジャンルに属しており、その元祖は、30年以上前の「ゴレンジャー」です。「仮面ライダーキバ」は、言うまでもなく「仮面ライダーシリーズ」であり、初代仮面ライダー(1号)は、1971年にテレビデビューしています。つまり、こうしたスーパーヒーローモノは、既に30年以上も「正義のために悪を倒す(殺す)」というストーリーを展開しているわけです。もちろんCGを駆使したり、ストーリーに深みを持たせたりという工夫がされており、そういう意味で、こうした番組は、間違いなく質を上げているし、進化を遂げていると思います。しかし、時代が刻々と移り変わっているなかで、「正義のために悪を倒す(殺す)」という、ストーリーの本質は変わっていないのです。

ここに疑問を呈する余地はないという意見もあるでしょう。「正義のために悪は倒されなければならない」。それはそれで、正しいことだと思いますが、しかし、これからの時代、私はヒーロー番組が「罪を憎んで人を憎まず」的な要素を根本から取り入れていく必要があると思いますし、実際にそうした流れが少しずつ生まれつつあるのではないかと考えます。

「人を苦しめたら、苦しめられるという罰を与える」、「人を傷つけたら、傷つけられるという罰を与える」、「人を殺したら、殺されるという罰を与える」。こうした考え方が、間違っているわけではないと思います。実際に、これまでの世界は、少なからずこうした原理原則によって、秩序が守られてきたという事実があると考えます。しかし、ネガティブな行為に対して、ネガティブな罰を与えることは、必ず社会や世界にネガティブな要素(憎しみ、恨み、怒り)を残します。こうしたネガティブな要素は、憎しみの連鎖を生み、さらにそれが加速化していくことで、内紛や戦争を引き起こしたりするというのが人類の歴史であり、これを繰り返している限り、いつまで経ってもその収束や平和は訪れないのではないかと思うのです(しかし私自身、現時点で、即死刑制度を廃止すべきと主張するような、いわゆる「死刑廃止論者」でもありません。上記の通り、「死刑制度」によって、これまでの秩序が守られてきたことは、事実であると考えています)。

そこで考えなければならないのは、「心の強さ」であると考えます。人間の心のなかには、「善」と「悪」が共存しているため、事の大小を問わず、必ず悪事を働きます。それが他人にどれだけの迷惑を及ぼすかという問題は別にして、必ずそうした行為を伴いながら生きているのが人間です。そうした世界にあって、加速化しているネガティブな連鎖を断っていくため、または人間の心に潜む「悪」の部分だけを消滅させるためには、それらの悪事に耐えて、赦すことの「心の強さ」が、これからの時代に求められているのではないかと思うのです。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、悪事を働いた人の罪はけっして赦すことはなく、しかしその人そのものは赦してあげるという寛容性を表しているのだと思います。これからの時代、罪は罪として償う必要があるにせよ、それを犯してしまった人にも「心」があり、その人が深く反省したときに、真の償いをするようになると信じて、耐え忍び、赦すことの強さの重要性が増していると考えます。

「スーパー戦隊モノ」にしても、「仮面ライダーシリーズ」にしても、基本的には悪事を働いた者共を倒す(殺す)ストーリーになっていますが、次の時代に向けては、ストーリーの本質的な部分に、こうした要素を積極的に取り入れてもいいのではないかと考えるのです。

ただし、もちろん今までの番組のなかにも、人(あるいは悪役)を殺さないストーリーや要素が存在しているのも確かです。「仮面ライダー龍騎」では、「戦わなければ生き残れない世界」のなかで、戦って相手を殺すことを拒絶する主人公(龍騎)が活躍しました。もうすぐ最終回を迎える「ゲキレンジャー」では、悪の大ボス・理央が自分のやってきたことの虚しさに気付き、改心するストーリーになりつつあります。先日の「Yes!プリキュア5」の最終回では、悪の大ボス・デスパライアが自分のやってきたことの過ちを認め、自分を封印することをプリキュアに懇願し、(殺されずに)封印されて終わりました。このように悪役が、自分の犯してきた罪に気付き、殺されずに済むストーリーが徐々に増えてきたのは確かだと思います。私はこうしたストーリー展開を全ての悪役、いわゆる「雑魚キャラ」に対しても適用していくことが、これからのストーリー作りにおいて、大切なことではないかと思うのです。

これまでのヒーロー(あるいはヒロイン)は、けっして戦いそのものを好み、楽しむような人々ではありませんでした。必ず戦いのなかで「心の葛藤」、「哀しみ」や「悩み」を抱えている人々だったと思います。これからの時代では、それをさらに一歩進めて、そうした「心の葛藤」に打ち克ち、雑魚キャラにも常に優しく、徹底して「戦わないヒーロー」が出てきてもいいのではないかと思うのでした。

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確からしい四次元の存在

2008年01月31日 | 異次元

私たちは、目の前にある物理的な事象について、「確からしい」と思われる法則を生み出し、それによってそれらの事象を説明し、理解しようとしています。「厳密に言うと、飛行機が何故飛ぶかは、よく分かっていない」ということが言われたりもしますが、科学の世界は突き詰めていくと、訳が分からないことだらけになってしまうのです。ただ少なくとも「正しいと思われる理論(つまりは仮説)」に基づいて、目の前で飛行機が飛んでいれば、ひとまずその理論(仮説)は「(極めて)確からしい」ということになり、一般的な常識として定着するわけです。私たちは、こうした「確からしい」ことの積み重ねによって、科学や常識を作り上げてきました。

一方で、最近の科学では、私たちが認知している物質世界である三次元よりも、高い次元が存在するという可能性について指摘されるようになりました。つまりこの世界には、三次元だけでなく「四次元世界が存在する」という仮説を立てることができるわけです。ただし、これは現時点において「確からしい仮説」ではありません。したがって、現在では常識として、とても定着しているものではありませんし、一般的な感覚としても理解を超えた仮説になっていると思います。しかし私は、一般的な感覚として、それほど無謀で、デタラメな仮説でもないように思います。

四次元世界が存在するということについて、もう少し分かりやすいレベルで説明しようという意味で、いわゆる「超常現象」をもって、証明しようとする試みがなされたりします。つまり超能力や心霊現象等、現代科学では説明できない事象から、世界は目に見える物質世界・三次元だけでないだろうという結論を導こうとするものです。これはこれで、ひとつの説明方法だと思いますが、あまり私たちの日常生活に結びついているものではありません。したがって、一般的な感覚としてなかなか理解されず、こうしたアプローチによる広い支持は得られないのだろうと思います。

ところで私は、この物質世界は三次元の法則だけでは、動いていないということは確かだろうと思います。世界に四次元が存在するとするならば、その四次元世界は三次元世界に何らかの作用を及ぼすでしょう。そうした、四次元から三次元への作用を説明することで、四次元世界の存在は、より一般的な感覚として認知できるようになるのだと思うのです。少々、分かり難いでしょうから、簡単な例を挙げたいと思います。

「たった今、一番近くにいる人を何も言わずに殴ってください」

これは物理的に可能なことだと思います。あなたがどこに、どういう状態でいるかは分かりませんが100%可能なはずです。たとえ今、周りに人が見当たらなくても、適当に歩き回って人を見つけて、有無を言わさず、いきなり殴ればいいだけのことです。三次元の物理的な法則だけを考えれば、まったく不可能である理由は存在しません。

しかし、あなたにはそれができないでしょう。それは、あなたに心があるからです。心は目に見えません。三次元の物質世界において、可視化させることができない心は、高次元の存在(ひとまず、ここでは「四次元の存在」としておきます)であると言えます。そして、その心があることによって、三次元の物質世界において、「いきなり人を殴る」という行動を制しているのであれば、四次元からの作用によって、三次元世界が影響を受けていると言えるわけです。それは「その人が可哀相だから」というような、いわゆる良心だけに限りません。「面倒くさい」、「バカバカしい」と思うことも含めて、全てが心の作用であり、「あなたが人を殴らない」という三次元の状態は、目には見えない四次元世界の結果が三次元世界に「表面化したかたち」と考えることができるのです。物質世界のなかの私たちの日常は、こうしたことの連続で成り立っています。単純に物理法則のみで考えれば、可能であることでも、四次元の存在である心の作用が働くことで、それらが不可能になるということは、多くの人々の日常生活のなかに、ありふれた経験としてあるはずです。

こうした四次元による三次元への影響は、けっして無視することができません。この物質世界は生命に満ち溢れています。それら生命の一つ一つには、必ず心が存在します。その無数の生命の営みによって、この物質世界が動いている以上、物質世界である三次元世界は四次元世界の影響を大きく受けていると言えるわけです。

三次元世界の事象を三次元の法則によってのみ解明しようとするところに、現代科学の限界があります。また三次元世界との整合性を十分にとらないまま、四次元世界に傾倒してしまうところに、これまでの宗教の限界があります。これからの時代で大切なことは、四次元からの三次元への作用、また逆に三次元から四次元への作用があるということを認め、それらをきちんと融合させていくことなのだと思います。

コメント (2)
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