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声優をナメちゃいかん

2008年01月30日 | 独り言

「映画連携」の効果と限界」という記事を書きましたが、最近のアニメ映画(アメリカのCG映画等も含む)では、著名人が声優をするケースが多いように思います。これには業界の事情があるのは分かるし、著名人のなかでも声優の才能がある方もいるとは思うのですが、正直、キツイものは相当キツイ。

至って個人的な趣向ですが、プリキュアMHの劇場版では、EDテーマを歌っているある著名人が、「希望の園の女王」の声を担当しています。ストーリー的に女王の出番が少ないため、多少目をつぶっていられますが、正直ガックリ。「北斗の拳・ユリア伝」では、サブメインであるべき「ユリア」の声が、これまたテレビで有名な人になっている。こっちは準主役で登場するため、作品全体に与える影響大で、相当応えます。

そもそも実写版で活躍している俳優や女優と、アニメの声優では演技のポイントが異なると思うのです。

よく「見た目が重要」等と言ったりしますが、実写版の場合には、視覚情報で多くのことを判断します。視聴者は、登場人物の感情を「目つき」や「口元」等、顔からの視覚情報を頼りにして、そこから多くを読み取ろうとするため、いわゆる「俳優」や「女優」は、そういうポイントを押さえた演技をしています。

これに対してアニメの場合、視覚情報は限定的になります。もちろん、アニメなりの表情はつけますが、実写版に比べると、極めて限られた情報しか与えられません。したがって、声優はそれらを十分に補うだけの演技を声によって行います。「ラジオドラマ」等は、まさにそういう才能が織り成す芸術だと思うのです(反対に実写版の「洋画」に、声優の演技が入った声が吹き込まれると、多少くどいような印象を与えるのは、そのせいであるように思います)。

偉そうになってしまいますが、アニメ制作に携わる方々には、こうした点を絶対に忘れないでいただきたいと思うのです。業界の諸事情はあるでしょうが、アニメにおいては、声優の演技が極めて重要なのです。

セーラームーン(無印)の最終回は、うさぎ役の三石琴乃さんが入院のため、別の方が担当していました。後に、退院された三石さん版の最終回シーンが出されていますが、放映された「オリジナル最終回」と、後に出た「三石版最終回」では、うさぎのイメージがまったく違います。どちらが良いというものではありませんが、明らかにキャラクターが変わっています。

「オリジナル版うさぎ」は、仲間が次々と死んでいくなか、もう絶望しかかっています。絶望的な状況のなか、諦めムードが出てしまっているのです。「銀水晶をあげるから、美奈子ちゃんを放しなさいよ!」という台詞。「オリジナル版」では、ほとんど降伏宣言に近いイメージになってしまっています。

一方の「三石版うさぎ」は、全然諦めていない。絶望しかかっているけれど、まだ「やってやる!」という主人公らしい覚悟がにじみ出ている。「銀水晶をあげるから、美奈子ちゃんを放しなさいよ(欲しいモノはやるから美奈子を放せ!その代わりお前は絶対に許さない!)」。同じ台詞ながら、そんな強いニュアンスをにじみ出させるのは、間違いなく声優の才能です(正直言って、三石さんのこの声演技は泣けます。ちなみに「オリジナル版」を担当していた荒木さんについては、そもそもその三石さんに代わって演技をするという時点で、ものすごい演技だったと思います)。

テレビの著名人は、あくまでもテレビの著名人。声優という職業や才能は、それとは別個に存在しているということについて、純粋に敬意を払っていただきたいし、払っていかなければならないと考えます。そしてそのように「声優」という職業や才能をきちんと尊重してこそ、たとえ無名でも、才能ある新しい声優さんたちが、次々と育っていくるようになると思うのです。

いずれにせよ、そういう意味で標題の一言。「声優をナメちゃいかん」のです。

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