常識について思うこと

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情報はパズルのピース

2006年09月02日 | 社会

インターネット上には、とにかくいろいろな情報が飛び交っています。何か調べものをするにも、ひとまずインターネットで検索をすれば、それなりの情報が出てきます。実に便利です。

ただし、なかには突飛で、胡散臭い情報もたくさんあるため、とかく「常識はずれ」な情報については、「エセ情報」のレッテルを貼りたくなります。しかし本当に「常識はずれ」な情報は「エセ情報」でしょうか。むしろ、常識の方が間違っているとしたら、「エセ情報」は「エセ情報」でなくなります。

インターネットに転がっている情報は、ジグソーパズルのピースのようなものであると思います。それ単体では、歪なかたちをしており、本当かどうか分かりません。学問や報道を通じてかたちづくられる、いわゆる常識ある世界では、そうした歪なかたちでは格好が悪いから、まわりを切り取って、きれいな四角形や円形にしてみせてくれるようなイメージをすると、分かりやすいかもしれません。

実際に何か情報があったとき、それをパズルのピースと見立てると、ひとまずそのピースが、どんなに歪なかたちをしていようが、それをそのまま置いておくということが重要です。同じようにパズルのピースは、他にも出てきます。それらを、きれいに四角形や円形に切り取らずに、原形のまま集めていくと、意外なものどうしが組み合わさることがあるのです。

これは少々タブーの世界に入っていきますが、「明治天皇入れ替わり」と天皇の「東京移転」というふたつのピースがあります。

インターネットには、ありとあらゆる情報が溢れています。胡散臭い話もたくさんあります。しかし、それらをすべてウソと決め付けるのは難しいと思います(偽情報が含まれていることと、すべてが「偽情報」と断じることとは別次元の話です)。インターネットで調べていけば、「明治天皇は入れ替わっていて、別人が天皇となった」といった話はボロボロと出てきます。常識的には「まさか」と思われるでしょうが、実際にそういう情報が溢れている以上は、単純に「全てがウソ」とは決め付けず、ひとまずパズルのピースとしてとっておくのです。

そして、もうひとつ。日本の首都は東京ですが、明治になって江戸を東京と改名した経緯が興味を引きます。そもそも日本の首都は京都であり、正式には京都から東京への首都移転手続きなどもされていません。京都には未だに玉座があるし、京都の人々は今も日本の首都は京都だと言っています。当時の明治新政府の幹部たちは、無理やり天皇を江戸に行幸させて、そのまま「ここは東の京であるから、天皇がいてもよいのだ」ということにして、江戸を東京と改名して天皇を住まわせてしまっているのです。なんとも強引なやり口です。結局京都で宮仕えをしていた人たちは、みな解雇され、江戸で新しい人々が雇用されたといいます。これもひとつのパズルのピースです。

ことの真相は分かりませんが、ひとまず、明治天皇が別人になっていたら、京都から江戸への強引な転居にも納得感が出てくるかもしれません。重要なのは、パズルのピースが歪なかたちをしている(胡散臭い)からといって切り捨てないことです。また個別の情報を、単独でのみ考えないことです。それらをひとまず、そのまま残しておいて、自分で組み合わせていくと、意外な全体像がみえてくることがある、ということです。

学問や報道の世界では、それらのジグソーパズルのピースを、きれいなかたちに切り取ってみせてくれます。それらは非常に体系化され、整理されています。しかし、そうやって整理してしまうことで、本当の全体像が見えてこなくなることがあるのです。そこで何が正しいのかが分からなくなってしまう危険性があるということです。
 
たとえば学問として、物理学、社会学、数学、考古学、民俗学、宗教学、政治学、経済学・・・といったカテゴリーは、人間の都合で勝手に割ったものです。我々が住むひとつの世界を便宜的に切っただけで、本来、個別でのみ存在してはならないものであるということが重要です。
 
ある考古学を学んでいる友人とこんな話をしたことがあります。

ピラミッドは謎だらけ。考古学的にいろいろな解釈を加えながら、それらの謎を解明しようとしているが、どうしても解くことができない。実はこうした謎を解明するには、いわゆる今までの考古学的発想だけではなく、人間の文明レベルや人類の進化についても、一緒に検証をしたほうがいいのではないか。

すると、その友人の答えは、そうしたアプローチは考古学の範囲を大きく超えているというものでした。考古学で分からないそれらの謎については、○○は文化人類学、○○は地層学、○○は遺伝学の分野だから・・・といった具合です。むしろ、そういう学問体系を理解しないことに、後ろめたさを感じさせる見事な論理です。しかし、それでは、いつまでたっても謎は謎のままかもしれないのです。
 
そのようなアプローチでは、真理には辿り着けません。ジグソーパズルのピースは、人任せに勝手に切り取らせてはなりません。きれいなかたちにしようとする必要はないでしょう。

ひとつひとつの情報は、その姿のままでとっておくと、思わぬピースと当てはまることがあります。それは自分で、考えてはめてみる。そのときに、常識を覆す、新しい発見が生まれるのだと思います。

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