常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

訴訟大国アメリカの限界

2010年02月25日 | 社会

トヨタのリコール問題について、公聴会が開かれ、社会の耳目を集めています。この報道を見ていると、訴訟大国とも言われるアメリカの限界を感じるとともに、同国の行く末も見えるような気がしてきます。

今回の一連の流れの中で、トヨタに非がないとは言いません。顧客の声を真摯に受け止めず、問題と向き合ってこなかった姿勢は、厳に反省を求めるべきでしょうし、またそれは至極、理に叶っているものだと思います。ただ、今回の公聴会の議論には、そうしたトヨタの隙を突いて、過度な言いがかりをつけている可能性も否定できず、それは偏に今日のアメリカ社会の限界であるかもしれないと思うのです。

公聴会の最初の証人、ロンダ・スミスさんの証言は非常に興味深いです。

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2006年10月、新車の「レクサスES350」を運転中、高速道路に合流したところで、アクセルの制御が利かなくなった。ギアをニュートラルやバックに変えたり、両足でブレーキを踏みながらハンドブレーキを使ったりしたが、車は時速160キロまで加速を続けた。
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この証言から、当初、アクセルの不具合はフロアマット等の物理的要因と言われていましたが、電子制御部分の問題である可能性が指摘されているわけです。これに対して、トヨタ側はその可能性を否定し続けています。こうした問題について、断定することは極めて難しいですが、私の感覚として、指摘されているような電子制御系の問題であるとするならば、これは自動車が自動車として成り立たなくなるほどの極めて重大な欠陥であろうと思います。ブレーキ、それもハンドブレーキやミッションも効かないというのは、自動車の基本的な機能障害と言わざるを得ません。

要はアクセルを踏まず、一方でブレーキを踏んでも、ミッションを切り替えても、勝手に走ってしまうのですから、もうどうすることもできないわけです。ほとんど自動車が勝手に動き出す、SF映画の世界に近い状態です。これについて、トヨタはいろいろな調査をしており、電子制御には問題ないと言っていますが、それは当り前でしょう。なぜなら、そんなことが本当にあり得るのであれば、もっといろいろなところで(SF映画でロボットが人間に反乱を起こすように)自動車が暴走しているはずです。同型車種が、どれくらい出回っているのか分かりませんが、少なくともトヨタが作っている大量の車が走っている中で、(単なるアクセルが戻らないというレベルではない)そんな暴走車両の事例がろくに報告されていないのに、その証言をそのまま信じろというのは、いささか無理がある話です。この無理な話を円滑に説明しようとなると、二つの可能性に絞られます。それは、それだけあり得ないことが証言者であるロンダ・スミスさんの車に起こったか、あるいはロンダ・スミスさんが偽証しているかのどちらかということです。

この公聴会は、そうした可能性があるにもかかわらず、証人の発言に対する信憑性を見極める機能が不十分で、かつその証人に「恥を知れ」等という一方的な罵声を許すという極めて歪な仕組みであると言わざるを得ません。

私なりに、ここには訴訟大国とも言われるアメリカの事情が、深く関わっているのだろうと考えます。そして、そのことから今後のアメリカという国の衰退への道筋も見えてくるではないかとも思っています。

以下、ロンダ・スミスさんが偽証しているという可能性に絞って、訴訟大国アメリカの限界について考察してみたいと思います。

今回のトヨタの件もそうですが、消費者が企業等を相手取って行なう集団訴訟というものがあります。これについての詳述は避けますが、要は、企業の商品やサービスに問題があった場合、消費者が企業を相手取って多額の損害賠償を求められるのです。この方式自体、善良な消費者を守るためという目的で、きちんと作用していれば、特段、問題が認められるものではないでしょう。むしろ消費者を守るための社会システムとして、有効なものであると考えるべきだと思います。しかし、実情を見ると、金銭目的で訴訟を起こすような人々がいたり、日本に比べて大量に存在する弁護士を食わすためのシステムとして機能しているような側面を否定できないのも事実です。

もちろん、広義における集団訴訟自体は、アメリカ特有のものではなく、またそれは単にそうしたネガティブな側面があるというだけなので、それで事の善悪が決するわけではありません。ただし、今回の公聴会に登場しているロンダ・スミスさんのケースを含めて考えた時、その原告となり得る人々の言い分、立ち振る舞いを想像しないわけにはいかないのです。

即ち、アメリカで事業を行なう場合には、そうした消費者たちによる集団訴訟リスクをどのように考えるかということが、非常に大きな課題であろうということです。逆の言い方をすると、そうした事業リスクを抱えるような国において、真剣に事業を展開しようとする企業は、今後、減っていくかもしれないということです。順調に事業がうまくいっているかと思ったら、言いがかりのような理由から高額の賠償金を支払わされるようでは、たまったものではありません。これは企業にとってのマイナス以上に、世界の企業が撤退してしまうアメリカという国にとってのネガティブインパクトにもなるでしょう。そして、私なりには、こうした状況が続くようなら、その流れは間違いなく顕在化し、結果として、アメリカという国にとって非常に大きな打撃になるだろうと思います。

別に、アメリカという国が嫌いなわけではありません。むしろ、これまでアメリカという国が、世界をリードしてきたことについて、素直に敬意を表したいと思います。ただし、今回のトヨタリコール問題を巡る一連の議論から、訴訟大国とも言われるアメリカの限界について、ちょっと考えてみたのでした。

《おまけ》
アメリカという国の流儀に沿って、同地にて事業を展開し、それによって収益を得てきた企業については、上記のようなリスクと向き合って然るべきだろうと考えます。そういう意味で、今回のトヨタの件、特段、同情したり肩を持ったりというつもりはありません。トヨタという会社がアメリカという国のおかげで、これまで享受できた恩恵を考えれば、今回の件でのダメージは、それほど大きなものではないとも言えます。ただし、「どこで事業を展開するか」ということは、それだけ慎重に考えなければならないということは間違いないでしょう。例えば、今日、「中国が成長市場」等と言って、次々と中国に進出していく企業がありますが、それらには必ずリスクがあるということも重要です。それをきちんと認識せず、不用意に他国に出ていくということは、後々、相応の代償を払わなければならなくなるかもしれない点、注意を払う必要があるだろうと考えます。

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「中途半端さ」がNG

2010年02月19日 | 社会

オリンピック選手の服装問題が話題となりました。これについては、賛否両論があるようです。賛否両論というくらいですから、私としては、どちらでもよいと思っています。しっかりと着こなすべきだという意見も分かりますし、着こなしの自由なファッションがあってもよいのではないかとも考えます。

ただ一点、本件については、選手の「中途半端さ」が問題なのではないかと思います。

今回の件、オリンピックに関するものであり、そこにはメディアをはじめとした多くの方々が携わっています。そうである以上、そうした方々の意見や感性を無視するわけにはいきません。仮にそれを否定するというのであれば、今日のオリンピックをオリンピックたらしめている、メディア関係の方々を含めた人々と、真っ向勝負する気概が必要でしょう。

一方で、若者の尖がったところというのは、私自身、とても大好きです。そういう力が社会を変えてきたし、今後も変えていくであろうことを考えても、若者は尖がるべきだとも思います。

しかし、中途半端はいけません。

もし、オリンピックという一大イベントに関わった方々に反抗してでも、我流を通したいというのであれば、「オリンピック出場辞退も止むなし」くらいの意気込みでやっていただきたかったと思います。つまり、もしそれがファッションだと言って、自分のスタイルを主張したいのであれば、それくらいの覚悟でやっていただきたかったと思うのです(その覚悟がないなら、最初から尖がっちゃダメです)。

ところが、後日の記者会見で、すんなりと「反省してまーす」と言ってしまいました。重ねて言えば、ここも中途半端ではいけません。反省していないのなら、真っ向勝負で、オリンピック出場辞退のつもりで我を通して然るべきだし、そうでないなら、真摯な態度で反省の意を示すべきであろうと考えます。

服装問題を引き起こした時点での覚悟も中途半端なら、その後の記者会見の対応も中途半端・・・。本件、この「中途半端さ」こそが最大のポイントではないかと思います。

この問題を巡っては、「まだまだ若いのだから、目くじらを立てるな」という意見もあるようです。もちろん、今回の問題を引き起こした選手がまだ若いというのは、ひとつの見方ではあるでしょう。それが彼を許容してあげようという論拠にもなり得る点、否定はいたしません。しかし、私としては、「若いのなら、中途半端なことをせず、とことんやっていただきたい!」とも思うのです。

本件、一貫した「中途半端さ」が、何よりも煮え切らないように感じると同時に、これからの若者には、目一杯、真剣勝負に臨んでいただきたいと思うのでした。

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丁寧に議論するための分量

2010年02月05日 | 社会

Twitterの中で、他のユーザーの方とちょっとしたやり取りをさせていただきました。ただ、Twitterというのは140文字の字数制限があり、なかなか思うようなコミュニケーションができないような気がします。また、議論がぶつ切りになってしまうため、オープンなインターネットの良さを活用しきれない問題もあるように感じました。

ということで、ひとまず、やり取り(Twitter上の引用等、一部削除)を書き出してみました。

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■竹内
歴史共同研究の内容について、中国政府は関与していないと言っているらしいですが、その実、中国当局が大きく関わっていたという報道もあります。これが本当だとしたら、やっぱり大問題です。中国政府は大嘘つきで、案の定、南京大虐殺なんて、単なるでっち上げに過ぎないことの証左かもしれません。

■先方様
嘘をついていない政府が実在するなら、その国名を挙げて下さい。

■竹内
当然のことながら、それは当事者しか知らないことで、私が言える範疇にはありません。念のため申し上げておきますが、私は中国政府が嘘をついているとは断じていません。嘘をつくならお上手に、とは思いますが。

■先方様
思いっきり断じていますが・・・→【中国政府は大嘘つきで】 繰り返し質問しますが、嘘をついたことがない政府が存在するなら、その国名を挙げて下さい。

■先方様
質問を変えてみましょうかね、南京大虐殺が無かったと主張している学者が実在するなら、その名前を挙げて下さいな。

■竹内
ごめんなさい。こうした字数制限付きの短文での議論は控えさせていただきます。もし本当に議論をお望みなら、こちらにコメント下さい。http://blog.goo.ne.jp/sukune888。それと私の最初の投稿、今一度、熟読されることをお勧め致します。

■先方様
今君のような人たちに対して質問を書き込んだから、長文書ける暇ができたら君も書き込んでくれ、匿名でもかまわないよ。http://society6.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1259486366/

■竹内
お気遣い、ありがとうございます。ただ、ちょっと2ちゃんねる(匿名の掲示板)というのは苦手で・・・。また何かの機会がありましたら、議論させていただきたいと思います。

■先方様
もう二度と南京大虐殺は無かったと言う意味のことは言うなよ、ドイツだったらブタ箱行きだぞ。

■竹内
さて、ここは日本ですし、今後とも私は思った通りのことを申し上げていくつもりですので、よろしくお願いします。
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上記のやり取りから、私が思うことは以下の通りです。

1.本問題における「嘘」の危うさと重大性

南京事件については、肯定説から否定説の幅の中で、さまざまな意見があるものと認識しています。その中には、犠牲者の数はもとより、そもそもそうした事実すら全くなかったという論まで唱える人がいるというのが現状です。否定論者からすれば、「中国が嘘をついているのではないか」と勘繰るわけで、こうした懐疑的な見方を一掃するためにも、特に本問題をめぐっては、中国政府自身が真実のみを述べているということを堂々と示す必要があるものと思われます。

そして、そうした問題の性格上、本問題について、「二枚舌」と取られるような報道がなされることは、非常に重大な意味を持つのではないかと考える次第であり、そうした報道をされないためにも、当事者は極めて慎重に行動、及び発言すべきではないかと考えています。

2.私の投稿文の論理構成

私の投稿による最初の指摘は、大きく二つのポイントによって論理構成がされています。即ち、「これが本当だとしたら」という「仮定」と、「でっち上げに過ぎないことの証左かもしれません」という「可能性」の二つです。

これが意味するところは、まず現状において、その仮定が定まっていない以上、私自身、本件について、「中国は嘘をついているのではないか?」という疑念を排除できないながらも、結論のつけようがないということです。さらに、その仮定内容が確定したとしても、それによってもたらされる結論の可能性を述べるに留まっており、そこからさらにその可能性の中身を特定しなければ、最終的な結論に至らない論理構成となっています。

ところが先方様は、「思いっきり断じていますが・・・」とおっしゃられており、そのあたりの論理構成を全くご理解されていらっしゃらないように見受けられます。ただ、先方様は外国の方である可能性もあるため、そういう意味で、もしかしたら日本語の言語的な論理構成をご理解いただけていないかもしれない点、勘案しなければならないだろうと考えています(もし本当に外国の方であるとするならば、ある意味で、大変、日本語が堪能ですごい方だとも思いますが・・・)。

3.質問の意図が分からない

先方様からは、「嘘をついていない政府が実在するなら、その国名を挙げて下さい」、「南京大虐殺が無かったと主張している学者が実在するなら、その名前を挙げて下さい」といった質問が寄せられました。私としては、まずもって質問の意図が分からないため、何ともお答えのしようがない気がしております。これは、そもそもTwitterの字数制限によるもので、先方様もきちんと質問の内容を説明できていないだけなのかもしれません。

ただ一応、これだけの内容から、同質問に答えるとするならば(既に答えた内容を除いて)、まず前者については、「もし質問者の方が、嘘をついていない政府など実在しないという回答を期待されているとして、それが本問題に与える影響が不明です。仮に、他の政府もやっているだろうから、中国政府が嘘をついたとしても見逃してやれというのであれば、それは大いに筋が違うと思います。あるいはみんな嘘をついているのだから、何を根拠に信じるのかという類の話かもしれません。そうだとしても、そういう状況の中で、何を是とするかは個々人の判断でしょう」という程度のコメントを寄せるくらいかと思います。

また、後者に関しては、「本件については、実に多くの方々が、研究や考察をされていると理解しており、学術的見地も含めて、さまざまな議論があるものと認識しております。ただし、この問題に絡んでの「学術的」という言葉は、政治的な思惑も絡み、非常に恣意的であるとも考えられるため、私自身、あまり重要性を認めておらず、個別の論者の名前を挙げる必要性も感じません。また、もし仮に「南京で大虐殺があった」という学術的なコンセンサスが得られているということであれば、これに異を唱える人間は、世の中から「無学」扱いされる等の社会的不利益や冷遇を受けるものと思われます。しかし、少なくとも今の社会で、私はそれを感じませんし、それを感じない以上、仮に「学術的コンセンサス」があるとしても、むしろその「学術的コンセンサス」の方に問題がある可能性もあるように思います」といったところでしょうか。

4.ドイツを引き合いに出す安易さへの注意

先方様が、本件に絡んで「ドイツ」を持ちだされました。日本の戦争責任について、ドイツと比較する考え方があるのは理解します。しかし、日本の戦争に関する責任については、ドイツのそれと全く異なるものと考えております。

この点、もう15年近く前(1996年の1月頃)に書いた、私の学士論文でまとめております。時代は移り変わっておりますし、何よりも私自身が学生で、問題認識が浅はかな部分も散見されますが、ドイツとの関係性に関しては、それなりに整理ができているのではないかと思います。
※「日本の戦後補償問題

5.匿名の掲示板へのスタンス

先方様からは、匿名性が確保される掲示板への書き込みを勧められましたが、私はこれを辞退いたしました。私としては、インターネットにおいて、匿名で参加できることをいいことに、無責任な発言や荒らし行為が繰り返される問題について、非常に重く受け止めております。そして私自身、それらの行為者と同等レベルで、匿名の無責任な書き込みをすることには、強い抵抗感を覚えるため、インターネットでの議論には、基本的に実名で参加したいと考えている次第です。

そう考える以上、お誘いがあった掲示板に対して、私は実名で書き込むことしか頭にありません。ただし、今回の件について、私がそこまでして書き込んで、それに対してどのような反応があったか等、いちいちその掲示板をフォローする等という手間はかけたくないとも思っています。

匿名でコメントできるという意味では、このブログも同じではありますが、少なくともコメントが寄せられれば、自動的に私がそれを認識することができますし、そもそも、そんな実名の私宛にわざわざコメントをくださる方に対しては、きちんと対応したいと思っているため、外部の掲示板と本ブログへのコメントでは、まったく意味合いが異なると考えています。お誘いをお断りして心苦しくはありましたが、こうした理由により、私としては、外部掲示板との距離を一定に保ちたいと思っています。

ざっと、こんなところです。先方様には、このブログ記事のことも伝えましたし、何かご意見があるようなら、こちらにコメントをいただけるものと思います。

それにしても、オープンに議論をするというのは、とても大切なことです。そして、議論をする以上、それに相応しい真剣味や緊張感というのは、あって当然だろうと思います。さらに議論する相手に対して、できるだけ丁寧に伝えようとすると、私の場合、これくらいの分量になるのは、やむを得ないところでもあります。

こんなことを踏まえて考えると、Twitter上で深い議論をするというのは、とてもとても難しいと思うのでした。

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無記名投票の無責任

2010年02月03日 | 社会

相撲協会の理事選で、貴乃花親方が選出されました。自分と同世代であり、古くなってしまった組織を改革されようとする貴乃花親方に対しては、素直にエールを送りたいと思います。

ところで、今回の選挙では、その投票方法が大きな話題となりました。組織的な締め付けが厳しい今回のような状況では、「無記名投票こそが公平・公正な選挙になる」ということだったようですが、私は、この考え方に、ちょっとした違和感を覚えます。もちろん、今日の相撲協会の体質を考えれば、無記名で投票した方が、投票者の本音が出やすいし、それこそが選挙の本来あるべき姿であるという意味は分かるので、その議論の全てを否定しようなどというつもりは毛頭ありません。

しかし、それでもやはり、選挙において投票の権利を行使するからには、それに伴う責任を負って然るべきです。無記名投票は、投票者に対して、その責任を自覚させるどころか回避させてしまうという意味で、無責任投票者を生む欠陥制度ではないかというのが私見です。そして、この欠陥制度が正しいとされてしまうのは、そもそも選挙が行なわれる組織自体に問題があるからと言わざるを得ないということです。そういう意味で、今回の議論は、あくまでも相撲協会でのケースについてのものであり、無記名投票が良いかの如き議論を許してしまうのは、偏に相撲協会が抱える(締め付け等が指摘されるような)組織としての問題故なのだろうと私なりに解釈しています。

そもそもの筋論で言えば、組織の締め付けが強く、本音で投票することが造反と取られるといったところで、陰でコソコソと造反をする程度の覚悟しかないのであれば、最初から造反などするべきではないという見方もあるでしょう。自ら先頭に立って、堂々と理事選に立候補した貴乃花親方はもちろんのこと、一門を離れて貴乃花親方を支持した親方衆は、この点、立派に筋を通されたと思います。そして、本当に責任感を持って、この方々を支持するのであれば、無記名投票よりも、むしろ記名投票の下、堂々と意思表明をされたらどうかという視点があってもよいのではないかと思うのです(ただし、今回、造反したとされる方々が、たとえ公開性の高い投票方法であったとしても、同じように貴乃花親方に投票したかもしれませんので、今回の個別の投票行動について言及するつもりはありません)。

もちろん、人間には、いろいろな弱みがあるでしょうから、「そうは言っても・・・」という言い分もあるでしょう。それを否定するつもりもありません。

ただ、投票という権利行使とそれに伴う責任との関係性から、正論を述べるならば、無記名投票よりも、むしろ記名投票の方が、遥かに強い覚悟と責任感を持った人々によって行なわれる選挙になり得るのであり、結果として、「公平・公正な選挙」な選挙に繋がるという視点を示しておきたいと思うのです(少なくとも、無記名投票こそが正しいという議論には、釘を刺しておきたいと思います)。

突き詰めて言うと、こうした選挙のあり方は、広く政治の世界における選挙の考え方にも繋がってくるかもしれません。つまり、責任ある有権者とは何なのか、国民に真剣な投票行動を起こしてもらうためにはどうするべきかというヒントが、このあたりに隠されているのではないかとも思うのです。こうした問題は、将来的な政治システムの課題でもあるよう気がします(「投票の権利と責任」参照)。

《おまけ》
立浪一門から名乗り出た安治川親方が、貴乃花親方に票を投じたことを明らかにし、相撲協会を去るという報道がありました。筋を通して、見事に刺し違えたと思います。もちろん、これからの人生、協会でぬくぬくと生きていくようなことはできなくなるという意味で、大変になるでしょう。しかし、こういう覚悟を持って臨んだ人こそ、真に相撲協会の未来を考えていたかもしれないことは、けっして忘れてはいけないし、私個人としても、こうした筋を通せるような方々と共に、新しい社会作りに励みたいと思います。

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資本主義君からのお手紙

2009年12月29日 | 社会

以下、私の知り合い、資本主義君からのお手紙です。他人からの手紙をネットに上げるのはどうかと思いましたが、問題が問題ですし、資本主義君の言い分も分かるので、ひとまず世に知らしめるという意味で、こちらに掲載することにいたしました。

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こんにちは。いつもお世話させていただいています、資本主義です。

今までは忙しすぎて、なかなかテレビなどを見る時間がなかったのですが、最近、ちょくちょく時間が空くようになりました。そこでこの間、久しぶりにテレビを見ていたら、とあるコメンテーターの方が、私のことについて話していました。まあ、社会全体が大変だという話だったのですが、そのなかで「歪んだ資本主義」って言ったんです。正直、耳を疑いました。

-えぇ?何でそんなことを言うんですか?!-

そりゃ、たしかに私は、完璧ではないと思います。いろいろと問題もあるでしょう。しかし、それでも昔、共産主義さんと私と、どちらが良いかっていう話のなかで、「私の方が良い」って言って選んでくれたじゃないですか。それに何だかんだ言いながら、今日の人間さんたちの繁栄は、それなりに私が頑張ったからだという自負もしていました。それなにの・・・それなのに・・・。

そもそも、私を生み出したのは人間さんたちです。そして、私を使うのも人間さんたちです。「歪んだ資本主義」という話が出るに至る議論をじっくり聞いていると、単純な話、私を利用している人間さんたちの方が歪んでいるだけで、私はちっとも悪くないのではと思うのです。ただ残念なことに、私には、言い分を主張するだけの口がありません。それをいいことに、人間さんたちが自分たちの問題を棚に上げて、私ばかりを一方的に悪者扱いしているような感じを受けてしまい、それが悔しくて、悔しくてたまらないのです。

ごめんなさい。こんなことを愚痴っても仕方ないですよね。でも今、社会で起こっている問題を「歪んだ資本主義」などといって、私のように、人間さんたちが生み出した仕組みのせいばかりにするのではなく、人間さんたちが自分自身を見直してくれたら、もっときちんと良い答えが見つかるのではないかと思うのです。

生まれてきた以上、私は私なりに、これからも精一杯、人間さんたちのお役に立てるよう頑張っていきたいと思っています。なので、もしできれば、人間さんたちにも、もっともっと頑張っていただくようにお伝えください。よろしくお願いします。

資本主義より

追伸、今年も残り僅かとなりましたが、来年もお互いに良い年になるといいですね。
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うん?あ?こんな手紙、届くはずありませんか・・・。いやでも、もし資本主義君に口があったら、こんなことを言うのではないかと思ったのです。自分たちのことを棚に上げて、物申す口がないもの(仕組みや制度)へ責任をなすりつけるのは、けっして良くないことなので、それを自分自身への戒めともしつつ、今後の新しい社会作りに励んでいきたいと思います。

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若者だからこそ真剣

2009年12月28日 | 社会

先日、私の親世代の方から学生運動の話を伺いました。今の時代では、到底、考えられないような思考で、学生たちがエネルギッシュに活動していたことがよく分かります。ところで、こんな話と一緒に言われたことは、現代の若者に対する嘆きでした。

-最近の若者はだらしないんじゃないか?-

おっしゃる意味は、よく分かります。とくに私たちの親世代は、間違いなくひとつの時代を作り上げてきました。そうした方々からすれば、今の若者たちが情けないと感じることは、十分に理解できます。また私自身、そんな若者を全面的に弁護するのは、難しく、若者も若者なりに変わっていかなければいけない部分があるだろうと考えています。

しかし、そうは言っても、今の若者ばかりが悪いと思っているわけではありません。むしろ現代の若者は、今の親世代よりも敏感、且つ真剣に社会の未来像について、思い悩んでいると言うことができるような気がするのです。

当然のことですが、親の世代よりも、若者の世代の方が、この社会に長く留まって生きていくことになります。より多くの未来を残していると言っていいかもしれません。私は、そんな若者たちが、社会の未来に対して真剣にならないわけがないと思うのです。否、真剣になるからこそ、「最近の若者はだらしない」と言われるほど、塞ぎ込んでしまうのではないかとも思うわけです。

おそらく、親の世代が若者として暮らしていた時代、社会の仕組み(世界の価値観と言ってもいいかもしれません)は、今ほど固まっていなかったのではないかと思います。まだまだ成長していく余地が残されていたし、それがどういう方向に転じていくか分からない世界において、若者たちが学生運動で何かを変えられるという可能性が残されており、またそう思えた時代だったのではないかと思うのです。そうしたなかで、昔は若者たちの「社会を変えよう」とする活力が、学生運動というかたちで表現されたのではないかと考えます。

ところが、現代社会の成熟度は、かつてのそれとは比較にならないほどのレベルに達し、その仕組みはこの上なく強固、且つ硬直的なものへと変貌しました。もはや、学生運動などということは、自殺行為以外の何物でもなく、かと言って、個人でいくら頑張っても、何も変わらないという絶望感を味わうしかないというのが、現代の若者が抱える悩みのような気がしてならないのです。もちろん私は、このままで良いとは思いません。しかし、それだけ強固で硬直的になった社会の仕組みを前にして、その本質を見抜いてしまったが故に、動けなくなっているような若者がいることも、また事実ではないかと思うのです。少々、違った話ですが、「真面目な人ほどうつ病にかかりやすい」と言います。塞ぎ込んでしまっている若者たちには、これに通ずる真面目さがあるのではないかと思えてならないのです。

「現代の若者がだらしない」という指摘は、これはこれとして、率直に受け入れる必要があるでしょう。しかし、上の世代よりも未来を多く残している若者が、未来に対して真剣でないわけがないということも、また揺ぎない事実だと考えます。

私としては、そうした未来に対して真剣な若者たちが、「やればできる」と信じられるような仕組み、インフラを整えることで、これからの時代を大きく変えていくことに貢献していきたいと考えます。

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人材が豊富な時代

2009年12月18日 | 社会

今の世相を見る限り、社会が低迷し、リーダーシップが失われ、人材も不足していると思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、私は、けっしてそうは思いません。

むしろ私からすると、今日に至って、ものすごく優秀な人材がきちんと出てきてるように思いますし、幸い私は、そうした多くの人材と繋がっているような気がしてなりません。

かつての幕末から明治にかけての時代、それまでの社会の仕組みが限界を迎え、次の時代を担うべく若者が、次々と繋がっていきました。その結果として、彼らは社会に大きなうねりを作りだし、見事に次の社会の仕組みを構築しました。もちろん、その仕組みについては、いろいろと限界があったことも事実でしょう。しかし、当時の西欧列強がひしめく中で、日本が植民地化されることもなく、近代国家の体を保つことができたというのは、やはり見事だったと言うべきだろうと思います。

今日の社会情勢は、幕末のそれに似ており、その状況に危機感を持ち、且つ将来のビジョンを実現するための実行力を持ち合わせた人材が、たくさん動いていると思うのです。当然のことながら、現時点で彼らは無名の集団であり、形成しているコミュニティーも微小なので、ほとんど社会で目につくことはありません。しかし、私の目からは、そうした人材たちが、着実に社会を変えるだけの力を蓄えてきており、次の時代において、確実に社会の中軸を成すであろう器に近づいてきていると思えてならないのです。

そういう意味で、リーダーシップが失われ、人材がいなくなったというのは、嘘だと思います。もし、今の社会で、それを感じることができないのであれば、それはその人自身が、そうしたコミュニティーに参加できていないからであり、それはその人自身に、彼らと交わるに足る危機感とそれに見合った実行力が欠けているだけかもしれません。

自分自身が変わるだけで、この時代、いかに人材が豊富になってきているかを感じることは、十分にできると思うのです。

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大統領のお辞儀

2009年11月23日 | 社会

アメリカのオバマ大統領が、天皇に対して深々とお辞儀をしたということで、軽く話題になりました。

かつての戦勝国でもあり、今日においても世界の覇権国を自負するアメリカの価値観からすると、とんでもないことであることは理解できます。したがって、アメリカ国内におけるオバマ大統領に対する批判も分からないではありません。

しかし、これまでのアメリカ的価値観が限界に近づいていることは、やはり間違いないでしょう。そして、そうした流れのなかで、相手に対して敬意を表する意味でのお辞儀の文化や精神は、むしろこれからの新しい時代において、アメリカが積極的に学んでいかなければならないことではないかと思うのです。

もし、アメリカの方々が、お辞儀に対して、自分を落としめる卑屈な行為と捉えているとするのなら、それは大いに的外れです。このことは、日本人同士であれば、説明なしに極めて簡単に理解できることでしょう。むしろ相手に対して敬意を表するお辞儀は、その人の礼節をわきまえた人間性や、相手をきちんと受け入れることができる度量を示すという意味で、非常に立派な行為であると考えるべきです。

これから先、アメリカはこれまでの時代を振り返り、イスラム世界や中東地域にあるような反米思想、それを生み出してしまっている自国の限界に対して、どのように向き合っていくべきかについて、真剣に考えなければいけません。戦争や武力による平和維持の継続には、多大な犠牲とコスト負担を伴います。これまでのアメリカの手法によって、世界の秩序が保たれるのであれば、それに越したことはありませんが、あらゆる資源は有限であり、これまでのアメリカ的手法では、世界の秩序を保ち続けられないことは、既に明白であろうと思うのです。アメリカの方々には、もっと積極的に相手を受け入れることを示す努力が必要になってくると思われます。こうした現状のなか、アメリカが学ぶべきヒントは、相手への敬意をきちんと身をもって表すお辞儀の文化、あるいは精神に隠されていると思えてなりません。

もちろん、学ぶのはご本人たちですから、これをアメリカの方々に無理強いするわけにもいきません。何事も学ぶには、本人たちの自主性が求められます。ただ私は、一人の日本人として、かつての近代国家誕生以降、常に学ぶ対象であったアメリカという国に対して、せめてもの恩返しの意味で、日本の側から学ぶべきものがあることを伝えておきたいと思うのです(「脱亜入欧の終焉」参照)。そしてまた一方で、今回、アメリカのトップである大統領が、日本において、深々とお辞儀をされていたというのは、アメリカに新しい時代が到来したことを感じさせるものであり、大いに歓迎したいと思います。

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期待する好試合

2009年08月21日 | 社会

甲子園で行われている高校野球の全国大会も、いよいよクライマックスが近づいてきました。こうしたスポーツ観戦の楽しみ方は様々でしょう。私の場合、自分が住んでいる神奈川県を除けば、ほぼ負けている方を応援するようにしています。それは負けている方が可哀想だからという言い方もあるでしょうが、単純にその方が試合として盛り上がるからという言い方もできるだろうと思います。それぞれの出場選手が、これまでの野球人生を懸けて、死力を尽くして戦っているのです。好試合を期待したいと思うのは極めて普通のことでしょう。

ところで、私がこのブログの中で、「常識について思うこと」というタイトルを掲げて、非常識とも取れるような内容を書き連ねているのは、この「負けている方を応援する」心境に近いような気がしています。

この世の事象というのは、常に二面性に満ちています(あるいは多面的という言い方をしてもよいでしょう)。それは表裏、善悪、光陰というような極めて基本的な概念をも含めて通じることであるため、どちらかの性別、つまり男か女かという存在として、それに縛られた一個体たる人間が、それら全体を見極めるというのは、ほとんど不可能であるということでもあります(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)。

そうしたなか、常識というものは、この世の事象に対して、ひとつの視点が定着したときに生まれるものです。当然のことながら、それは大勢の人々によって支持されます。常識はさらに大勢を得て、ますます大きくなるというサイクルを繰り返し、常識としての地位を確固たるものにしていきます。こうなると、この世の二面性が忘れ去られ、一方の側面ばかりが是とされるようなことにもなり兼ねません。

これが私からすると、冒頭の高校野球で言うところの「ワンサイドゲーム」に見えてしまうのです。それでは、少数で非常識な「負けチーム」が可哀想ですし、また試合としても面白くありません。物事の本質は、その両面とも正しいと言うことができますし、またその間にあるとも言えるのです。常識と非常識は、表裏一体の関係にあり、本来、それらは均衡して然るべきであるとも考えられます。そういう意味で、もしかすると、「ワンサイドゲーム」に発展してしまう常識の一人勝ちは、この世を歪ませる要因にもなり得るわけです(但し、モラルに反する非常識、他人のご迷惑になるような非常識等は論外です)。

表裏一体の関係というのは、別の言い方をすれば、矛盾した関係という言葉に置き換えることも可能です。私がブログを通じて申し述べていることは、時にそうした大きな矛盾を抱えているのであり、そのような表裏一体の関係を表しているものでもあると言えるでしょう。読者の方々が、それに気付かれているかは分かりませんが、それはこのブログが、もともと「常識について思うこと」をテーマとしており、常識という概念を上記のような視点から紐解いているからにほかなりません。

ここまでの整理をした上で、私の言に対して、「矛盾しているではないか」、「変節しているではないか」と批判されるような方がいらしたとして、それはそれとして大いに結構なことであり、私としても堂々とそれらをお受けしたいと思います。

ただし、単に「矛盾していること」ばかりを指摘するということは、この世の矛盾の間に潜む物事の本質について、その方自身が理解できていないことを告白するだけになってしまうかもしれません。「変節している」と非難するような人は、一本筋が通った物事の本質を、その方自身が歪んだ姿勢で眺めているが故に、本来、真っ直ぐなそれが歪んだり、曲がったり見えてしまっているだけかもしれないことに注意が必要です。

何にせよ、高校野球における好試合を期待するのと同様、この世のあらゆる事象についても、均衡のとれたあり様を思い描いていきたいと思うのでした。

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ブランドと主従関係

2009年08月10日 | 社会

ブランドを単体として捉えた場合には、端的に二つの効用があると思います。

ひとつは、ブランドそのものの効用です。それは、ブランド自体が価値を持っているとされるものであり、例えば、ボールペンやタオル等、商品の品質が一定水準以上を保っている限り、そこに付いているロゴ(ブランド)によって、その価値が飛躍的に向上するような場合です。

もうひとつは、ブランドによる安心感や優越感が与えられるという効用です。これは商品やサービス等、財の中身がよく分からないときに、それが「良いもの」と認知してもらうためのものと言えるでしょう。こうした効用をブランドに求めている消費者は、財の中身(機能や質)を十分に理解できていないため、ひとまずブランドをひとつの指標として使いながら、財の選別を行っている場合が多いと思います(なかには、消費者が、商品やサービスの中身をよく理解し、その差別化ができた上で、ブランドを認知している場合もありますが、それはブランド単体としての効用ではなく、あくまでも財自体の価値から派生しているものと言えます。こうしたケースについては、後述のブランド形成の過程における問題として整理しています)。

上記、二つのケースにおいて共通して言えることは、財の価値を測る際に、ブランドばかりに偏った思考をしてしまうと、その質を正しく評価できず、実際のそれと大いに乖離してしまう可能性があるということです。

前者の例で言えば、財の価値が飛躍的に向上しているのは、そのブランド故であり、財の質自体(例えば、ボールペンとしての性能等)が評価されたからではないということであり、後者に関しては、そもそもその財の質を理解できないが故に、ブランドによる安心感や優越感を求めているケースであり、消費者がその質をきちんと評価できていないことは明白であるということになります。

ただし、ブランドがブランドとして確立するまでの過程においては、当然のことながら、その基となる財自体の質が、きちんと評価されてきたであろう事は間違いありません。むしろ、そうした過程と実績があるからこそ、ブランドがブランドとしての効用を発揮するのであり、ブランドと当該財の質(中身)とを切り分けて考えることは不可能であると思います。そういう意味で、やはりブランドは、その財の質(中身)を表していると言えるはずです。

しかし一方で、上記のようにブランドと財の質(中身)が乖離してしまうような現象が、何故起こり得るのかというところには、ちょっとした考えるポイントがあるように思います。

このような視点から、ブランドとは何かについてあらためて考えると、「簡単に評価できないもの」を表すことこそが、ブランドの存在意義ではないかと考えられます。例えば、電子製品の故障率というのは、なかなかスペック表だけで評価できるものではありません。こうした故障率のような、分かりにくい商品の質を考慮したい消費者にとっては、蓄積されたブランドイメージが大いに役に立つはずです。あるいは、食品と農薬との関係を考える際、安全性のような「簡単に評価できない」食品の質については、産地というブランドが、消費者にとって相当な安心感を与えることは事実でしょう。

このようにブランドは、「簡単に評価できない」財の質(中身)を知る手がかりとして、使うことができるということです(財の提供者側からすると、簡単に伝えられないことを伝えるためのツールとして、使うことができると言えるでしょう)。ここで大切なことは、「自分が何を知らないか」、「何を評価できないか」を知ることであり、そうした自分の至らぬ部分を十分に理解した上で、それに応じて、ブランドをツールとして使うことではないかと思うのです。

ブランドの重要性を否定するわけではありません。ただ、こうした視点を忘れ、「己に何が至らないのか」という、自分自身に対する真剣な問いかけをせず、安易にブランドに走ると、何でもブランドだけで解決しようとすることになり、結果として、ブランドに振り回されることになるというのが、考慮すべきポイントです。

ブランドをひけらかすような行為というものがあります。ブランドが付いている財を所有することによって、自分自身が変わったような感覚になるようなこともあるでしょう。特に、財の提供者側からすると、経済の成長軸が一段落し、提供する財の質を高めることが難しくなってくると、ブランド戦略から活路を見出そうとする傾向が強まってきます。そうしたブランドが氾濫する中で、ブランドでモノを選ぶ機会というのは、ますます増えてくるのではないかと考えられます。

しかし、私たち消費者としては、ブランドで選ぶということ自体、自分自身に見る目がないということの証左であるという可能性について、きちんと肝に銘じておく必要があるでしょう。そして、そのような謙虚な気持ちで、ブランドと向き合うことができれば、ブランドをひけらかしたり、ブランドによって自分が変わってしまったかのような感覚になる等、ブランドに振り回されることもなくなるのではないかと思うのです。

ブランドは、あくまでもツールです。物事の主従関係を違わずに、自分自身を「主」とし、ブランドを「従」として利用することができたら、とてもいいのではないかと思うのでした。

《おまけ》
ちなみに、私の場合、ホワイトデーのお返し等は、決まってデパ地下です。これは私自身、こうした類のモノを選別する能力が、皆無であると自認しているからです。したがって私は、こうしたモノを選ぶ場合には、ブランドを揃えるというデパートのブランドに頼っております(こんなところでネタをばらしてよいのだろうか・・・?)。いずれにせよ、私がこうした類のモノについて、全く見分ける能力がないことに対しては、極めて謙虚に受け止めているつもりでおります。

またここでは、ブランドを財(商品やサービス等)との関係で整理していますが、ブランドの問題は、それに留まりません。職業、学歴、肩書き・・・。これらも、全てブランドとして捉えることが可能です。こうしたものを含めて、ブランド志向を否定するわけではありませんが、それに頼らざるを得ない自分の限界をわきまえないと、思わぬところで失敗するであろうことは、一応、書き留めておきたいと思います。

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負担から投資への発想

2009年08月02日 | 社会

アクアラインが800円に値下げされたということで、パーキングエリアが混雑する等、ひとまずの効果があったようです。ただ、値下げをすることだけで効果があると考えるのは、極めて一時的な現象に過ぎないと考えたほうがいいと思うのです(「値下げ以上の知恵」参照)。

-800円になったので来た。千葉に着いてからどこに行くか考える-

こんなコメントをされる方がいらっしゃるようですが、現状では、そういう方々が非常に多いのではないかと思います。

この値下げについては、2011年3月までの期間限定で、国と千葉県が年間10億円ずつ負担するということらしいです。ただでさえ、財政が逼迫している中で、こうした社会実験にお金を注ぎ込めるというのは、大変素晴らしいことではあります。しかし、それは本質的な問題の所在が見えていない人々がすることではないかと思えてなりません。

それだけのお金があるならば、それを単なる社会実験への負担ではなく、高速道路の利用増大にも繋がる投資に回せるような使い方をした方が、良いのではないかと思うのです。アクアラインの先には、あれだけ広大な土地があり、空の玄関・成田空港も近く、日本の観光産業を大いに栄えさせるだけのネタがたくさんあるのです(「日本に眠る宝物」参照)。それにも関わらず、それらを眠らせたまま、こうした社会実験を進めてしまう今の行政責任者の方々には、少々、残念な気持ちになってしまいます。

余談ですが、お台場のガンダムに関するニュースとして、「ガンダム像の肩の高さで記念撮影できる権利が260万1,000円で落札」というものがありました。このことをもって、特段、誰を責めるというわけではないですが、単純に何かが歪んでいると思うのです。それは、日本のコンテンツをもっとリーズナブルなかたちで、きちんと多くの人々に楽しんでもらうための仕組みや施設が、決定的に欠けていると思わざるを得ないということです。ひとまず、落札された方には、「260万円はかかったけれども、良かったですね」と声をかけるほかありません。しかし、「そんな金なんかないけど、俺もそうしたい!」と願っている人々が、見えないところには、たくさんいるでしょうし、そういう人々に対して何をするべきかという点も重要でしょう。

一案として、アクアラインの先にディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンのように、日本のコンテンツを堪能できる広大な施設ができたら(日本のコンテンツの質や量を考えたら、到底、これまでのレジャー施設の次元では収まらない、非常に広大なものになるでしょう)、いろいろなものが大きく変わってくるだろうと思います。コンテンツを愛する人々がそれらを十分に楽しめるようになり、コンテンツを作る人々の生活が豊かなり、日本の観光産業も栄え、海外からの評価も上がり・・・もちろん、アクアラインの利用も増大することでしょう。アクアラインには、そうした産業隆盛のヒントがあると思うのです。

もちろん、こうした社会実験に意味がないと決め付けるつもりはありません。もし、この社会実験が終わった後に、そもそもアクアラインは何をしなければならないのか、日本の産業全体においてどのような役割を果たすべきなのか、それをどのように進めていかなければならないのかといったことについて、行政を預かる方々が気付けるようになったとしたら、それはそれで、この実験には大いに価値があったということになるでしょう。

そして、私としては、せめてそれくらいの期待はしたいと思います。また、そう考えることによって、この社会実験への経済的負担が、そうした「気付き」のための投資であると考えることができるようになると思うのです。

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無数のスーザン・ボイルさん

2009年08月01日 | 社会

YouTubeで、時の人にもなったスーザン・ボイルさんは、今、いろいろなところで活躍されているようです。それはそれで、大変結構なことだと思うのですが、この問題を扱っているメディアの方々には、できれば少し考えていただきたいと思います。

スーザン・ボイルさんの話を、シンデレラストーリーのような美談として扱うのは良いですが、才能があるのに、機会に恵まれていないスーザン・ボイルさんと同じような人々が、世界には無数に存在しているであろうことも忘れてはならないでしょう。そして、そういう人々が無数に存在してしまうのは、今のメディアが、きちんとそういう人々の才能を拾えていないからだという、メディアの方々の真剣な自省があってもいいように考えます。それは、メディアシステム全体の仕組みに関わる問題で、特定の個人が背負うべきものではありません。また自省というのは、あくまでも、その本人が気付いて行うものなので、私ごときが強要するようなことではありません。

ただ、美談は美談として語りつつも、その裏側に無数に潜んでいる同質の見えないものを感じ取ることは、極めて大切だと思います。残念ながら、少なくとも私が知る限りにおいて、メディアの方々が、スーザン・ボイルさんの美談を語っても、そうした美談を生み出してしまっている(才能を拾えていなかった)メディアとしての問題、彼女と同じような境遇の人々が、現在もたくさんいてしまっているであろうことの問題について、自らを見つめ直すような発言がなかったように思います。

もちろん、それでもスーザン・ボイルさんの良さに気付いた時点で、それをきちんと拾い上げているという意味で、メディアが機能しているということは間違いありません。そこについて評価をせずに、一方的な言い方をするのも良くないと思います。ただ、それでもやはり、物事の二面性を考えた場合、今のメディアのスタンスは、そのバランスがあまり良いとは感じないのです。

非常に単純な話ですが、才能に満ち溢れていて、それを活かしたいと思っている、過去のスーザン・ボイルさんのような境遇の人々は、本当にたくさんいらっしゃると思います。そして、その方々は、きっと見えないところで叫び続けているのではないかと思うのです。私としては、そんな「魂の叫び」とでも言うべき方々の思いを背負うことができ、それに応えた行動をとっていくことが、これからの新しい時代の仕組みにおいて、とても大切なのではないかと思うのです。

《おまけ》
ここで述べていることは、私がメディアの問題全体を通じて、繰り返し述べていることでもありますが、この問題の解決は、格差社会の是正に繋がっていくものと考えています。特に、私の場合、こうした考え方をいわゆるメディアシステムにのみ適用しようというのではなく、広く産業インフラともなり得るコンピューターに入れ込んでいくことを想定しています。このことによって、広く経済活動をされている方々に対して、たくさんの機会を提供することが可能となり、結果として、格差社会の是正に貢献できるものと思うのです。ちょっと面倒くさい話と思われるかもしれませんが、要は、見えない人々の気持ちを汲み取っていくということ、それに基づいた行動を取っていというくことが、とても大切なのではないかということです。

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縮まらない月との距離

2009年07月22日 | 社会

つい2日前、人類初の月面着陸から40年かと思ったら、今日は皆既日食ということで、ずいぶんと月の話題が多いような気がします。残念ながら、今日は全国的に曇りや雨で、日食を観測するのには厳しい状況だったようですが、ここでは少し、月について考えてみたいと思います。

人類史上初の月面着陸は、1969年7月20日ということで、既に40年が経過したことになります。一方で、少々不思議に思うのは、この有人月面着陸のプロジェクトが、1972年12月のアポロ17号で終わってしまっていることです。アポロ計画の中止には、資金的な事情があったというのが通説のようですが、それにしても科学の進歩が目覚しかったこの40年近く、それ以降、人類が一度も月に行っていないことに対しては、少々不思議な気がしてなりません。

単純に飛行機、船舶、自動車などのあらゆる交通手段には、当時、まったく考えられないような高度なコンピューターが積まれるようになり、その性能は飛躍的に向上しました。当然のことながら、そうした最先端の科学技術は、宇宙開発に適用されているはずですし、1969年から72年までの3年間で、6回にも渡って人類が月に行っていると言うのにも関わらず、それ以降、今日に至るまで、ただの一度も行けていないということには、相当な違和感を覚えてしまうのです。

そもそも、月は謎だらけです。

何故そこにあるのか、何故地球の衛星として回っているのかについては、きちんとした学説が固まっているわけではありません。地球が生まれたときに一緒に生まれたという説、宇宙から飛んできたのでそれを捕捉したという説、地球から割れて誕生したという説・・・。いろいろとありますが、実際のところ、定まった学説があるわけではないのです。太陽系にある他の「惑星と衛星」の関係からすると、月は地球の衛星としては非常に大きいとされています。これは月の起源と深く関係することですが、これについても未だに解明されていません。また月は、常に地球に対して同じ面を向けており、それは月の重心が偏っているからだという話もありますが、これについても、どうしてそうなったのかが明らかになっているわけではありません。

こんなにも謎に満ちた月に対して、アポロ計画以降の40年近く、ただの一度も行けていないということには、少なからぬ違和感を覚えてしまうのです。もちろん、宇宙開発にはお金がかかりますし、単純に知的好奇心を満たすためだけに、月の調査を進めるわけにはいかないという反論は、よく分かります。しかし、それを言ってしまったら、人工衛星を含む、宇宙開発自体を否定することにも繋がりかねません。周知の通り、宇宙開発には、知的好奇心を満たすためだけでなく、軍事的な意味合いが強く反映されます。そうした背景や事情を無視して、宇宙開発について論じることはできないでしょう。

ただ、それにしても、月という天然衛星をそっちのけで、この数十年間、巨費を投じて、一所懸命、人工衛星や宇宙ステーション等の人工物を作ろうとしていることにも違和感を覚えます。天然衛星である月をそっちのけにできる(例えば、軍事的に使い物にならないと断じられる)ほど、人類は月について分かっていないように思いますし、そんな結論を導き出せるほど、精密な調査が終わっているようには思えません。

もちろん、単純に月は遠すぎるという理由もあるでしょうし、宇宙開発における月の優先順位が下がったといったことも考えられます。ただ、それにしても、本当にそれだけの理由で、科学技術の発達によって、40年前よりも、相当行きやすくなっているであろう月、しかもその当時、3年で6回も行くことができた月に、近年、全く行かれていないというのは、やはり不自然な気がします。

このように考えていくと、いくつかの疑問が湧いてきます。

-もしかしたら、アポロ計画の月面着陸には隠された謎がある?-

こんな疑問もあるでしょう。それは既に、いろいろなところで取り上げられているテーマでもあります。もちろん、こうした疑問を持ってして、安易に「人類は月に行っていない」等と結論付ける必要はないでしょう。月面着陸時の映像等を検証して、そうした類の議論が展開されることもありますが、私自身、それだけを持ってして、「人類は月に行っていない」等と断じるつもりはありません。むしろ、私の場合、きっと人類は何らかのかたちで、月に行っているのだろうと思っています。どのような経緯かは分かりませんが、むしろ40年間、人類が月との間に距離を置いているのには、それなりの理由があるのでしょうし、もしかしたら、それは人類が月に行ってしまったからこそであると考えた方がいいかもしれないとも考えます。

こんな議論を展開すると、何やらオカルトめいた話に聞こえるかもしれません。実際、私自身、オカルトを完全否定するつもりはありませんので、そういう意味で、月面着陸の映像に対して、疑問を呈するような検証についても、それなりの興味を覚えます(たしかに、あの映像をそのまま全て信じろといわれても、少々困ります)。

何を是とするかは、それぞれ個人の判断であり、そこには何人も立ち入ることはできません。これは大前提です。

ただ単純に、ここ数日間、話題になっていた月に関しては、40年近くに渡る著しい科学進歩の中で、それとの距離を取り続けている人類の姿勢に対して、少々、不可思議であるとする視点について、細々とでも示しておきたいと思ったのでした。

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ウイグル暴動に思うこと

2009年07月10日 | 社会

去年のオリンピック前にチベットでの暴動が問題になった中国で、今度は新疆ウイグル自治区での暴動がニュースとして取り上げられています。

中国という国は、10億人以上の人口を抱える超大国であり、アジアの盟主(あるいは世界の覇権国?)として君臨せんばかりの勢いを持っていると言われたりもします。たしかに、同国の政治や経済を含めた様々なシステムは、中央統制型の仕組みで動いており、それらがうまく機能している間は、それこそが中国の強みであると言うことができるでしょう。しかし逆に、少しでも歯車が狂い始めると、そうしたシステム全体が、根幹から崩れ去るような脆弱性も内包しているのではないかと考えるべきではないかと思います。

何事にも犠牲がつきものです。現在の中国という国を確立するまでには、実に大きな犠牲を払ってきたと言えると思います。歴史的に、王朝が変わる度に繰り広げられた、自王朝の正当化の過程の中で、前王朝に関係する多くの人々が犠牲になってきたと言われています。つい数十年前においては、文化大革命と呼ばれる一大運動がありましたが、これは多くの人民を巻き込んだ粛清運動でもありました。文化大革命に関係する犠牲者は、数千万人規模にも及ぶと言われますが、逆の見方をすれば、そのように力でねじ伏せるような国家形成であったが故に、それだけ強大な国になり得たということもできるのかもしれません。そしてまた、このような中央統制型での国家形成というのは、ある意味で、中国的であるとも言えるような気がします。

特に少数民族については、もともと中華思想という言葉があるくらい、中央統制的な姿勢が強く反映されていると考えて然るべきですし、そうした歴史が現政権の背景にあるということは、紛れもない事実でしょう。これは良し悪しの次元の問題というよりも、少なくとも、そうした歴史があったということを認識している必要はあるであろうということです。

今回のウイグル自治区での暴動が、具体的に何に関する問題を巡り、どのような事柄をきっかけに勃発したものなのか、一連の報道を見ていても、なかなかはっきりしない部分があります。ただ、おそらくそれは、ここ数ヶ月、数年間での出来事を背景にしているというよりも、今日の「中華人民共和国」という国の成り立ちや歴史に、深く関係している問題が背景にあると思えてならないのです。

このように考えていくと、果たして、中国という国が強大である(かのように見える)ことばかりに目を奪われ、同国こそがアジアの盟主、世界の覇権国かの如く論じるのは、若干、先走りすぎのような気がしてなりません。

もっと端的に言えば、今回のように自国内において、武力衝突の問題を引き起こしてしまうような国が、果たして本当に世界をリードできるのかということです。特に、これからの時代における世界平和の実現については、前世紀と社会構造が大きく変わっており、武力を持って武力を制することが、極めて困難であることを十分に認識する必要があります。つまり、いかに武力行使を伴わずに、平和を実現するかということが求められてくる時代なわけです。私自身、この課題については、モバイルインターネットを積極的に利用した、オープンな情報通信ネットワークこそが、極めて重要な役割を果たすであろうと考えております(「四次元戦争の時代」参照)が、こうした発想と行動なくして、次の時代をリードしていくことは不可能ではないかと思うのです。

然るに、中国という国は、到底その域には達し得ず、むしろこれまでの成り立ち、そこから派生する様々な問題について、まさにこれから向き合って解決していかなければならないフェーズにあると考えます。それは、見方によっては、「今日の強大国」の地位を獲得するために、中国が自ら背負った「負の遺産」の整理と言えるかもしれません。2008年のチベットに続き、今回のウイグルでの暴動事件は、その序章であり、これからしばらくの間、中国ではこうした傾向が続くような気もしています。

仮に、もしそうだとしたら、一連の「負の遺産」の清算が終わったとき、時代は新しくなっていることでしょう。そして、その新しい時代における国家の概念の変化にあわせて、現在の中国の土地に住む人々が、担うべき役割も、きっとあるのではないかと思います。

私は、一人の日本人であり、よその国の事情に首を突っ込むことができない以上、日本という国の中で、次の時代に向けた枠組み作りのための準備を淡々と進めていきたいと思います(「世界のリーダーたるべき日本」、「産業から始める理由」参照)。

《おまけ》
私は、自らを世界の中心と考える「中華思想」そのものは、大変立派な考え方なのではないかと思います。それは「高いプライド」を持つという意味において、けっして非難されるべき考え方ではないでしょう。ただし、それを他者に押し付け、他者の価値を否定してしまった瞬間、おかしな方向に走ってしまうのだと考えます。お節介をせず、自分の内なるところで、静かに「高いプライド」を保てていれば、きっと「中華思想」は、もっともっと素晴らしい考え方として、受け入れられるようになるのではないかと思えてなりません。

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ニュースはさらりと見る

2009年06月30日 | 社会

7月から新しいアニメが始まります。そのなかには、続編のような作品もあるので、そういう場合には、一応きちんと前作を見ることにしています。そんなわけで、最近、見ているのが「狼と香辛料」です(「狼と香辛料Ⅱ」が始まるのです)。

「狼と香辛料」では、中世ヨーロッパのような世界のなかで、行商人・ロレンスと狼神・ホロが、共に旅をしていくのですが、この二人の会話がとても楽しめます。お互い何となく話をしている感じなのですが、それが非常に知性に富んでいるというか、知的な匂いがして心地良いのです。現実世界においては、テレビのようなマスメディアを通じて、知識人のように振舞われる方々が、それらしい話をされたりしますが、そうした内容よりも格段に面白いですし、知的な感じがするのです。

マスメディアで語られる政治、経済等、比較的堅いテーマの話は、その雰囲気から、それらを見てこそ、自らの知的レベルが維持されると思われる方々も多いと思います。それはそれで、間違ってはいないと思いますが、けっしてそれだけでもないでしょう。差し迫っている問題について、限られた枠組みのなかで、限られた議論しかできていない時、その外側の世界を知らずして展開されているそれは、むしろ「迷える子羊たちの嘆き」のようなものでしかありません。無意味であるとは言いませんが、それほど取り立てて高尚だったり、レベルが高いと言う必要もないでしょう。

私としては、ニュースについても同じようなものを感じます。バラエティ番組が氾濫しているなかで、「せめてニュースでも見て賢くなろう」という感覚も分からないではないですが、分野を問わず、ニュースを見たから知的レベルが上がるというような単純な話でもないと思います。

ニュースの場合は、現状からの発展や変更点をまとめて伝えることが多くなります。これはこれで、意味があることですが、見方によっては、「まだそこか」とか、あるいは「そっちに行っちゃったか」というようなかたちで、未来型に辿り着いていないことへのフラストレーションばかりが積もることにもなるでしょう(少なくとも、私の場合はその連続です)。

この世界は、複雑な計算では導き出せない事象で溢れています。それは時に、カオスという言葉で表現されたりします。カオスの読み解き方については、本ブログでも既に取り上げている通りです(「カオス世界の読み取り方」参照)が、上記の未来型というのは、そのカオス世界における大きな「チェックポイント」のようなものだと考えればよいでしょう(右図参照)。こうしたカオスの流れのなかで、ひとつひとつのニュースは、現状が「ここまで来た」ということを教えてくれはしますが、必ずしも、その先の未来を指し示しているわけではないのです。何故なら、それらはさらに互いに干渉し合いながら、計算できない動きを繰り返しつつ、時間と共に未来に向かって進んでいくからです。

ニュースをじっくり見るということは、時によって必要でしょうし、そこから得られるものがないわけではないと思います。しかし、ニュースを見て、分かったような気になってしまうと、本来見たいものや見るべき本質を見失う危険性もあるようにも考えます。

そうした意味で、私はニュースの見過ぎには気をつけた方がいいと思いますし、お堅い議論にドップリはまってしまうことにも注意を要すると考えます。そんなわけで、「ニュースはさらりと見る」くらいでどうでしょう、というのが「狼と香辛料」を見ながら思ったことなのでした。

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