ブランドを単体として捉えた場合には、端的に二つの効用があると思います。
ひとつは、ブランドそのものの効用です。それは、ブランド自体が価値を持っているとされるものであり、例えば、ボールペンやタオル等、商品の品質が一定水準以上を保っている限り、そこに付いているロゴ(ブランド)によって、その価値が飛躍的に向上するような場合です。
もうひとつは、ブランドによる安心感や優越感が与えられるという効用です。これは商品やサービス等、財の中身がよく分からないときに、それが「良いもの」と認知してもらうためのものと言えるでしょう。こうした効用をブランドに求めている消費者は、財の中身(機能や質)を十分に理解できていないため、ひとまずブランドをひとつの指標として使いながら、財の選別を行っている場合が多いと思います(なかには、消費者が、商品やサービスの中身をよく理解し、その差別化ができた上で、ブランドを認知している場合もありますが、それはブランド単体としての効用ではなく、あくまでも財自体の価値から派生しているものと言えます。こうしたケースについては、後述のブランド形成の過程における問題として整理しています)。
上記、二つのケースにおいて共通して言えることは、財の価値を測る際に、ブランドばかりに偏った思考をしてしまうと、その質を正しく評価できず、実際のそれと大いに乖離してしまう可能性があるということです。
前者の例で言えば、財の価値が飛躍的に向上しているのは、そのブランド故であり、財の質自体(例えば、ボールペンとしての性能等)が評価されたからではないということであり、後者に関しては、そもそもその財の質を理解できないが故に、ブランドによる安心感や優越感を求めているケースであり、消費者がその質をきちんと評価できていないことは明白であるということになります。
ただし、ブランドがブランドとして確立するまでの過程においては、当然のことながら、その基となる財自体の質が、きちんと評価されてきたであろう事は間違いありません。むしろ、そうした過程と実績があるからこそ、ブランドがブランドとしての効用を発揮するのであり、ブランドと当該財の質(中身)とを切り分けて考えることは不可能であると思います。そういう意味で、やはりブランドは、その財の質(中身)を表していると言えるはずです。
しかし一方で、上記のようにブランドと財の質(中身)が乖離してしまうような現象が、何故起こり得るのかというところには、ちょっとした考えるポイントがあるように思います。
このような視点から、ブランドとは何かについてあらためて考えると、「簡単に評価できないもの」を表すことこそが、ブランドの存在意義ではないかと考えられます。例えば、電子製品の故障率というのは、なかなかスペック表だけで評価できるものではありません。こうした故障率のような、分かりにくい商品の質を考慮したい消費者にとっては、蓄積されたブランドイメージが大いに役に立つはずです。あるいは、食品と農薬との関係を考える際、安全性のような「簡単に評価できない」食品の質については、産地というブランドが、消費者にとって相当な安心感を与えることは事実でしょう。
このようにブランドは、「簡単に評価できない」財の質(中身)を知る手がかりとして、使うことができるということです(財の提供者側からすると、簡単に伝えられないことを伝えるためのツールとして、使うことができると言えるでしょう)。ここで大切なことは、「自分が何を知らないか」、「何を評価できないか」を知ることであり、そうした自分の至らぬ部分を十分に理解した上で、それに応じて、ブランドをツールとして使うことではないかと思うのです。
ブランドの重要性を否定するわけではありません。ただ、こうした視点を忘れ、「己に何が至らないのか」という、自分自身に対する真剣な問いかけをせず、安易にブランドに走ると、何でもブランドだけで解決しようとすることになり、結果として、ブランドに振り回されることになるというのが、考慮すべきポイントです。
ブランドをひけらかすような行為というものがあります。ブランドが付いている財を所有することによって、自分自身が変わったような感覚になるようなこともあるでしょう。特に、財の提供者側からすると、経済の成長軸が一段落し、提供する財の質を高めることが難しくなってくると、ブランド戦略から活路を見出そうとする傾向が強まってきます。そうしたブランドが氾濫する中で、ブランドでモノを選ぶ機会というのは、ますます増えてくるのではないかと考えられます。
しかし、私たち消費者としては、ブランドで選ぶということ自体、自分自身に見る目がないということの証左であるという可能性について、きちんと肝に銘じておく必要があるでしょう。そして、そのような謙虚な気持ちで、ブランドと向き合うことができれば、ブランドをひけらかしたり、ブランドによって自分が変わってしまったかのような感覚になる等、ブランドに振り回されることもなくなるのではないかと思うのです。
ブランドは、あくまでもツールです。物事の主従関係を違わずに、自分自身を「主」とし、ブランドを「従」として利用することができたら、とてもいいのではないかと思うのでした。
《おまけ》
ちなみに、私の場合、ホワイトデーのお返し等は、決まってデパ地下です。これは私自身、こうした類のモノを選別する能力が、皆無であると自認しているからです。したがって私は、こうしたモノを選ぶ場合には、ブランドを揃えるというデパートのブランドに頼っております(こんなところでネタをばらしてよいのだろうか・・・?)。いずれにせよ、私がこうした類のモノについて、全く見分ける能力がないことに対しては、極めて謙虚に受け止めているつもりでおります。
またここでは、ブランドを財(商品やサービス等)との関係で整理していますが、ブランドの問題は、それに留まりません。職業、学歴、肩書き・・・。これらも、全てブランドとして捉えることが可能です。こうしたものを含めて、ブランド志向を否定するわけではありませんが、それに頼らざるを得ない自分の限界をわきまえないと、思わぬところで失敗するであろうことは、一応、書き留めておきたいと思います。
おっしゃられてるように、ブランドはツールでもありますね、「従」でありながらも依存しないようにと思います。
蛇足ですが、本のタイトルと内容が全く比例していないものが最近多いです、いい意味での裏切りもありますが、「世界一わかりやすい」とか「五分でわかる」などタイトル、シリーズというブランドで買わせている傾向はあると思います。中身は全く伴わないものも少なくありません。。
コメントありがとうございます。ブランドは、その限界を知って使っていれば、とても便利なものだと思います。「五分でわかる」的なタイトルには、自分も昔、ずいぶん引っかかりました(笑)。