常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

グー・チョキ・パーの世界

2009年02月17日 | 社会

人間には、それぞれ個性があります。ただ個性という言葉にしてしまうと、実社会における機能が不明瞭になるかもしれませんので、それをもう少し社会における効用という視点から、分かりやすく表現するならば、役割分担をしながら生きているということになろうかと思います。

役割分担とは、それぞれ与えられたもの、果たすべきものが違うということであり、それらの間に優劣はありません。さらに突っ込んだ言い方をすれば、ただ異なる役割を担うため、異なる個体が存在することに意味があるということになろうかと思います。

このことは、言うなればジャンケンのようなもので、グー・チョキ・パーのそれぞれが、互いの間に優劣(勝負)の関係が成立することはあっても、直ちにそれが絶対的な優劣を決するものではないということです。

ここは少し余談です。

現在、放送されているアニメ「とある魔術の禁書目録」には、たくさんの超能力者や魔術師たちが登場します。そのうちの超能力者には、レベル付けがされており、最強のレベル5まであるのですが、主人公・当麻は、残念ながらレベル0です。つい数話前、最強・レベル5のアクセラレータと当麻が戦いました。いろいろとあるのですが、最終的に最弱レベル0の当麻が、最強レベル5のアクセラレータに勝ってしまうのです。これを見て、「単にアニメだから」と流してしまうのも結構ですが、私はここに、世界にある本質的で重要な意味合いが含まれているように思えてなりません。つまり、人間の能力や存在価値におけるジャンケンのような関係が示されていると思うのです。

話を戻します。

要は、どんなに偉そうに振舞っている人がいたとしても、所詮はグーがチョキに勝っているというだけであり、パーを出したら「あなた負けですよ」ということです。逆に、自分がくだらないダメ人間だと卑屈になっている人がいたとしても、所詮チョキがグーに負けているというだけで、パーには「あなた勝てるじゃないですか」ということでもあります(「人間の優劣と競争社会」参照)。

そういう意味で、自分は頭が良いとか、偉いとかいうつもりになっている方々(今、私の目が届く範囲には、ほとんどいらっしゃいませんが)に対して、私は敢えて、その方々ができないことや理解できないことを聞いてみたりします。少々、意地悪かもしれませんが、世界がグー・チョキ・パーの関係で成り立っていることを忘れているような方々には、自分が思っているほど頭は良くないし、偉くもないということをきちんと教えて差し上げることも、大切ではないかと思うのです(「使える人と使えない人」参照)。

もとを糺せば、頭が良いと評価されたり、偉いと思われている人々が、そうしていられるのは、今の社会の仕組みや評価軸のおかげです。もちろん、そういう社会の仕組みや評価軸にあわせて、一所懸命努力したであろうことについては、素直に認めるべきでしょう。しかし私は、とくにこのような激変の時代にあって、私たちが学ぶべきは、そのように機能するに至った社会の仕組みや評価軸を生み出した先人たちの努力やそれを支えた精神にあると考えます。然るに、そうした先人たちの偉業の本質に目を向けられず、時代が大きく動いているなかで、自分は頭が良いとか、偉いなどと思い込んでいる人たちには、次の時代において、大きな挫折が待ち受けていると思わずにはいられないのです。

つまりは、グー・チョキで凝り固まりつつあるルールにおいて、たしかに「グー」は勝っていられますが、延々と勝ち続けられるほど大したものでもないだろうと考えるべきだということです。

またそれとは逆に、自分の存在意義や生きる価値を見失いそうになっている方々もいらっしゃいます。私は、そうした方々に対して、もっとポジティブに「できること」について、きちんと知っていただくことが大切なのではないかと思います。お節介かもしれませんが、そういう方々にとっても、世界がグー・チョキ・パーで成り立っていることを認識していただくことが大切ではないかと思うのです。

社会の仕組みが定まり、それに合わせて人間に対する評価軸が決まってくると、いろいろと優劣を決しやすくなるため、グー・チョキのようにはっきり分かれることは、よく理解できます。そして、そうしたものが大きく幅を効かせるという流れも、ある意味で仕方のないことだと思います。

しかし、時代の変遷期においては、そこに大きな限界が生まれ、「パー」が頭をもたげてくるのです。「パー」の登場により、これまで勝ち続けていた「グー」は負けるようになり、負け続けていた「チョキ」は勝てるようになります。

「パー」の到来とともに、時代は大きく変わり始めるでしょう。

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右上の「アナログ」表示

2009年02月09日 | 社会

最近、テレビを見ながら思うのは、右上に表示される「アナログ」という文字についてです。何か「間もなくあなたのテレビは見られなくなります」という宣告をされているようで、あまり気持ちが良いものではありません。これは言うまでもなく、テレビのデジタル地上波移行に伴う措置なのですが、いわゆる社会的ニーズという観点からすると、どうしても腑に落ちない部分があります。

その昔、白黒テレビからカラーテレビに移行したときというのは、視聴者の強いニーズがあったと思いますし、それに応じようと頑張った業界の方々には、心底、頭が下がる思いがします。甚だ直感的な話ではありますが、単純にモノクロだったものを、カラーで見てみたいという欲求は、強くあって当然ではないかという気がします。そういう意味で、テレビのカラー化は、当時の社会が求めていたものであり、時代の流れと解釈できるのではないかと考えます。

その一方で、現在、進められようとしている地上波デジタルへの移行は、果たしてどうなのかというところが気になるのです。あまり細かい部分を突っついて、問題を広げようとは思いませんが、もしこれが時代の流れに逆らった無茶な政策になるのであれば、それに関わった方々には、それ相応の責任を取っていただく必要はあろうかと思います。

ずいぶん前になりますが、各メジャーアニメの本編終了後、地上波デジタル移行を宣伝するような映像が放送される時期がありました。その中で、「クレヨンしんちゃん」では、「地デジになると、画面がきれいになって、カッコよくなるんだぞぉ」といった類の台詞があったのを覚えています。もちろん、カッコよくなるわけではなく、単なるギャグとして、そういう話をしているのですが、そうした地デジの話が、ギャグになってしまうこと自体に大きな問題があるのではないかと思うのです。つまり、そこまでの高画質は、少なくとも「クレヨンしんちゃん」には、無意味であるにも関わらず、それが進められてしまっているということに大きな問題があるということです。

ここで考えるべきは、無意味であると思われてしまうのが、単に「クレヨンしんちゃん」にとってだけなのか、あるいは多くのコンテンツにも共通して言えることなのかということでしょう。

私が考える結論から言えば、「高画質が無意味」は、他の多くのコンテンツにとっても、かなり共通して言えるのではないかということです。

これもちょっと前の液晶テレビのCMですが、「空と海の青の違いで、僕は泣いたりする」という文句がありました。実際に、そういう人がどれだけいるのかは知りませんが、私自身、そういう人がいても良いとは思います。ただ正直に言って、私には、テレビを見ながらそう思ってしまう感覚がよく理解できません。私の場合、たとえ、そういうことがあるにしても、その「青の違い」で泣くためには、それに至るまでに、かなりきちんとしたストーリー展開や背景となる物語が必要ではないかと思います。これが、他の大多数の人々にとって、どうなのかは分かりませんが、もしこうした私の感覚が、社会の大多数の人々にとっても理解できる感覚であるとするならば、現在のテレビ業界にとって大切なことは、画質を高めるということよりも、「青の違い」で泣かせるだけのストーリーや物語を磨くことになるはずです(「青の違い」を表現するまでに至るメーカーやそれを含むテレビ関係の方々の弛まない努力があったということは、それはそれでストーリーとして成り立ち得ますが、大部分の一般の人々には、それはほとんど関係ないことではないかと思います)。

こうした視点に立って、物事を捉えたときに、これからのテレビにとって大切なことは、画質云々よりも、より柔軟な双方向性の確保や多様なコンテンツを視聴可能にする仕組みではないかと思います。

現在では、限られた人々しか情報発信ができなかったり、番組制作に携われなかったりという片方向性が大きな問題なのです。これにより、情報に偏りが生まれるということはもちろん、広告業としての限界から番組制作の予算が削られたり、それに伴いクリエイター層搾取の構造が進行したりといった問題も深刻化しているのです。つまり、画質以前に、番組そのものの質や業界としての産業構造自体を、根本的にどのように変えていくかという取り組みが急務であると言えるわけです。

これに対する有効な解決策として、私は従来の片方向的な放送に対して、双方向性を確保できる通信技術を積極的に活用したメディアの形成であろうと考えています(「3次元DBと著作権」、「コンテンツ制作体制の未来」、「次時代のコンテンツ評価」、「通信と放送の融合」等参照)。

こうしたポイントについて、既に私は、電波行政に非常に影響力があるとされる方々や、電波行政に対して責任ある立場の方々に対してお話をしたことがあります。反応はまちまちですが、その中のひとつには、「電波の話をするときには、絶対に放送に立ち入った話をしてはいけない」というものもありました。私は、この言葉から、今日の電波行政における放送業界の強さを感じ取りましたが、それはそれとして結構なことだと思います。

ただし、「放送業界が強い」ということと、「放送業界が正しい」ということとは全く別の次元で考えなければなりません。

「放送業界が強い」というのは、過去に放送業界を立ち上げてこられた偉大な先人たちが、社会ニーズに合わせて、今日の放送の仕組みを整えられ、それが多くの人々に支持されたからにほかなりません。つまり「放送業界が強い」背景には、過去に社会全体から支持されるような「正しい」ことをしてきたという実績があり、それは偏に先人たちの遺業の集積であったということです。

これに対して、私が別次元で考えるべき「放送業界が正しい」という言葉には、過去ではなく、これからの時代においても社会ニーズに適合した振る舞いを続けられるかということです。それは、けっして過去の積み上げの結果には、囚われない概念であるということがポイントです。

もちろん、こうした強さと正しさの違いを区別できずに、単に今日の放送業界の強さに目が眩んでしまう人々や、そのしがらみから抜け出せない人々がいてしまうことも理解できるので、それ自体を非難することはできません。

しかし、地位や権限は、常にそれに応じた責任を伴うものです。強さと正しさの違いを理解できず、それを見誤って判断してしまった場合には、その見誤ったことに対する責任は必ず取らなければなりません。

そんなことを思いながら、テレビに表示される「アナログ」という文字が視界に入るたび、これからの放送業界とそれを支える人々の行く末について、ちょっと考えてみるのでした。

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タブーを見過ごす罪

2009年01月12日 | 社会

全ての嘘が悪いとは言いません。時には、嘘が必要なことがあるでしょうし、その嘘によって、全体が救われるということもあるだろうと思います。しかし、嘘は万能ではなく、少なくともある一定の時点まで、隠しておかなければ機能しません。そして、その一定期間、嘘を隠し通すためには、さらに別の嘘を重ねていかなければならず、それは次第に大きな塊となっていきます。社会におけるこうした嘘が、とてつもなく大きな塊になってくると、それはいわゆる「タブー」と呼ばれ、触れてはいけない類の話になってきます。

元来、嘘が生まれた要因が、この世界を成立させるための必然として存在したとするならば、それから派生するであろうタブーを暴くという行為は、あまり良いことではないのかもしれません。そういう意味で、私自身、タブーについて無理やり暴露するような言い方はしないように気をつけたいと考えています。

しかし一方で、タブーに対して何も知ろうとしない、あるいは知って知らぬふりをするというのも問題です。何故ならば、タブーが存在するということは、それを守ろうとする人々にも、非常に大きな負担を負わせてしまっているからです。

タブーが大きくなるということは、嘘の量が多くなるということであり、それらは、以下の2つのことを意味します。

①タブーを隠し通すことの困難化
  -枝葉末節に至る嘘までをも隠し通す必要性

②タブーを隠す人々の権力肥大
  -情報漏洩阻止のための統制強化と権力集中化

これらは、タブーを隠し通す目的で展開される行為が過激化し、さらに暴走する可能性を示しているとも言えます。それはタブーを隠し通すのが難しくなる一方で、あくまでもタブーを隠さなければならない人たちが強大化し、彼らがその反対勢力を潰しにかかるという構図です。

このこと自体、致し方ないことかもしれません。そもそも嘘をついたり、タブーの原因を作ったりした人々が、その秘密を守るというのは、至極当然という気もします。

問題は、それらの嘘や秘密を生まれながらにして、守らざるを得ない立場にいる人々もいるであろうということです。それだけでなく、本人が意図するしないに関わらず、そうした枠組みに取り込まれ、やむを得ずタブーを守る側の人間にならざるを得なくなった人々の存在も否定し得ません。そうした人々からすれば、嘘や秘密を隠すこと自体に、大きな意味を見出せない可能性がありますし、むしろそうした嘘をひた隠しにしたり、嘘の上塗りの片棒を担がされて生きていかなければならないことに、とてつもない苦痛を感じているかもしれません。さらにその構図は、ますます大きくなっている可能性もあるのです。

ここでのポイントは、長い歴史の中で、多くの営みを重ねてきた人類は、過去についてしまった嘘によって、ただそれを上塗りしていくことを宿命として背負っている可能性があるということです。それは今日において、たとえタブーの秘密を守る立場にある人々であっても、その源となる過去の嘘に縛られることを望んでおらず、致し方なくタブーを守っている可能性があるということでもあります。

嘘で固めた生活を続けるということは、極めて息苦しいものでしょうし、それが直接的に自分の成した行為によるものでないとするならば、それはとてつもない苦痛であることは、容易に想像できます。

私たちのように一般の人々が、タブーに対して無知であることは、元来、それを知らぬことが許されているという意味で、問題ないことだと言えるでしょう。しかし一方で、そのことによって、苦しみ続ける人々がいるであろう可能性についても、きちんと認識しておくことが大切です。

そうした中で、タブーを知ってはいけない人間、秘密を隠されている側の人間としてできることは、タブーの中身についてきちんと学ぼうとし、その歴史の重さと先人たちの思いをきちんと受け止めようとすることです。そして、タブーによって暴かれた本来の歴史や、それに加担してきた人々を許し、タブーが暴かれても、現在を生きる関係者が、きちんと暮らしていける社会を築いていくことが、これからの新しい時代においては、非常に重要なのではないかと思います。

《おまけ》 
天皇家については、多くのタブーがあるようです。本文でも触れたように、私自身、それを暴くようなものの言い方をしないように気をつけたいと思っています。しかし、タブーの真相や可能性について、気付いているにも関わらず、それを知って知らぬふりをすることで、その関係者が苦しむとしたら、知らないふりを決め込む側にも罪があるのではないかと考えます。

時折、マスコミ等で徳仁親王・雅子さんご夫妻についての報道がなされたりしますが、あの方々が背負われているものには、長い歴史のなかで積み上げられてきた「負の遺産」が含まれていると考えるべきでしょう。徳仁親王・雅子さんご夫妻が向き合っているのは、単なる現天皇家ではなく、脈々と受け継がれてきた長い天皇家の歴史そのものではないかと思えてなりません。

一人の日本国民として、あの方々ばかりに、歴史の闇を押し付けるのは、けっしてフェアではないと思うのです。そういう意味でも、徳仁親王・雅子さんご夫妻には、力強く生きていただきたいと心から願うばかりです。

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闇を受け入れる勇気

2008年12月28日 | 社会

きれい事や理想論を口にすることは、大いに結構なことだと思います。私自身、このブログで伝えようとしていることは、組織、社会、環境のせいにせず、人間ひとりひとりが、自分の力を信じ、それを行使していくことで、地球や宇宙の姿すらも変えることができるという理想論です。

きれい事や理想論は、人々に夢や希望を与えてくれるし、前向きに生きるための力となってくれます。事の大小を問わず、きれい事や理想論を口にしたり、それにプラスのエネルギーを得て、今日、明日を生きていくということは、人間にとって、とても大切なことです。

ただ一方で、きれい事や理想論を口にする以上、その裏側に潜む醜い部分を受け入れるという度量や勇気も必要であることを忘れてはなりません。世界は、表と裏で成り立っています。表のきれい事や理想論を口にする以上は、裏側に潜む醜く汚れた世界についても、きちんと知っておく必要があると思うのです。

先日、非常に著名な女性タレントが亡くなられたという報道がありました。人が亡くなっているのですから、その方を悪く言う必要はありません。素直にお悔やみを述べるということは、ごく当たり前のことだろうと思います。

しかしながら、簡潔にお悔やみを申し述べる以上に、その方の人生を美化するような言葉を並び立てるというのであれば、その方の死の真相についても、もっと真面目に探求していく必要があるのではないかとも考えます。今回の死因について、単に「謎」として片付けるのは、あまりにも都合が良すぎるのではないかと思うのです。

その方については、生前からとても有名で凄惨な事件との関係性について、いろいろな噂があったようです。その事件については、あまりにも酷かったためか、それを再現した映画までありました。以前、私は、その映画をレンタルで見たことがありましたが、あまりにも惨たらしい内容であったため、途中で視聴を止めてしまったことを覚えています。

その方が、この事件にどれほど関与されていたのかは分かりませんし、今後、その真偽を含めて、きちんと検証していく必要があると思います。ただ少なくとも、その方の死を考える際に、この事件との関係について、一切触れないという報道は、あまりにも偏りがあると考えます。亡くなった方の死を悼む言葉を述べること以上に、その方の人生を語ろうと言うのならば、その方が抱えていた闇の部分にも、きちんと触れいかなければなりません。

生前、その方を苦しめる人々がいたのかもしれませんし、そういう人々が、その方を死に追いやったとしたら、それは許されるべきではないでしょう。しかし、もしその方が、あの事件に関与していたとしたら、その方のせいで、大変な死に方をしてしまった人がいたということになるのです。これは、とんでもないことですし、それこそ許されるべきことではありません。現時点では、あくまでも可能性の話ですが、そうした闇の部分に全く目を向けず、単なる「きれい事」ばかりを並べ立てて、お悔やみを述べるというのは、偽善の謗りを免れないと思うのです。

見たいものだけに目を向けて、見たくないものに蓋をしたままでは、社会は一向に良くなりません。今日、解決できない問題があることは事実ですが、それらから目を背けるだけでは、何の解決にもならないのです。きれい事や理想論を語るのは、大いに結構なことですが、その裏側にある闇の部分までを受け入れる勇気を持たずに、軽はずみなことを言うべきではありません。

冒頭に述べたとおり、きれい事や理想論は、人間が生きていくために必要な夢や希望を与えてくれます。そうした意味で、人はこれからもきれい事や理想論を口にしながら、生きていくことは必然だと考えます。だからこそ私は、それらと表裏一体の関係にある、醜く汚れた世界に対しても、目を背けずに、きちんと向き合っていく必要があると思うのです。

闇から目を背けない勇気、それらを受け入れる強い心が、これからの社会を大きく変えていくのではないかと思います。

《おまけ》
時折、私のことを「単なる理想論者」と思われる方々がいらっしゃるようです。そうした見方を、いちいち否定するつもりはありません。ただ私は、上記のようなものを含めて、世界にはとんでもない闇が存在していることを知り、それらを受け入れた上で、それに見合った理想論を述べているつもりです。

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お遊びが過ぎたら

2008年11月29日 | 社会

遊ぶことは大切なことです。遊びを知らずに、肩肘張った生き方ばかりでは、とても長続きしませんし、楽しくもありません。せっかくの人生を過ごすのであれば、目一杯楽しんだ方がいいと思います。

ところで、遊びをするにあたっては、「正しい遊び方」というものがあります。この遊び方を間違えると、他人に迷惑をかけることにもなりますし、単なる悪ノリになり兼ねません。下手をすると、犯罪にまで発展します。大切なことは、守るべきものを守りつつ、目一杯正しく遊びを楽しむということです。

そして、どんなことをするにしても、人間は遊びの感覚を持つことができるし、それを楽しむということができる生き物だと思います。たとえば、ビジネスマンが仕事をする上で、いくら「仕事が命だ」と言ったとしても、そこには「金儲け=マネーゲーム」という遊びの側面があることも事実でしょう。そして、金融システムが高度に発達し、人間のあらゆる社会行動が、それと密接に関わるようになっている現代において、「マネーゲーム」は、何もビジネスマンに限ったものではなく、ビジネスと直接関係のない個人、法人、国家等のあらゆる主体が、「マネーゲーム」のなかで動いているとも言えるわけです。

このように表現してしまうと、全てが「マネーゲーム」で動いており、世の中が悪い方向にでも向かっているような印象を与えてしまうかもしれませんが、けっしてそうでもないと思います。冒頭に述べた通り、少なくとも元来、人間が生きていく上で、遊びの感覚が必要であるということからすれば、「マネーゲーム」そのものが悪であると決め付けることはできないでしょう。むしろ、それが楽しいのであれば、それを大いに楽しむべきだと思います。

このように遊びの必要性を認めた上で、重要になってくるのは、きちんとルールを守るということです。

現代社会における「マネーゲーム」のネガティブな側面というのは、所詮、遊びに過ぎない余計なおカネに、さぞかし全ての価値があるかの如く錯覚してしまう人々が出てきていることではないかと考えます。そして、世の中のほとんどの人々が、こうした価値観に支配されると、ルールそっちのけで、ひたすらおカネを求めることばかりに執着する風潮が蔓延してしまい、楽しく遊ぶべき「マネーゲーム」が、つまらない争いの原因になったりしてしまうのです。

繰り返しですが「マネーゲーム」は、所詮、遊びであり、参加するにあたっては、そのルールに則って楽しまなければなりません。しかし、厄介なことに、そのルールは人間によって作られているもので、破ろうと思えば破ることもできるし、実際に多くの人々がそれを破って、不当な利を得ている、あるいは得てきたという現実があります(「社会ルールの欠陥」参照)。こうした問題を論っていったら、おそらくキリがないでしょう。ただ一方で、そうは言っても、遊びの参加者たる世界中の大多数の人々が、それを良しとしている以上、ルール違反があることを理由に、遊びを終わらせる必要はないのかもしれません。その大多数の人々が、ルール違反があるという現実を知らないのか、あるいは知っていて知らぬふりをしているのかは関係ありません。どんなかたちであれ、ひとまずは気が済むまで、その「マネーゲーム」のなかで、「勝った」、「負けた」を楽しめばいいということのような気がします。

しかし、あまり遊びが過ぎるのも問題です。「マネーゲーム」に没頭するあまり、おカネのためなら人を殺すとか、戦争をしかけるというように、遊びのルールの次元を超えたレベルで、人として守るべき「道」を外すということは、けっして許されるものではありません。

遊びを楽しむにあたって、ルールを破る程度のことは、その遊びの破綻を意味するくらいのもので、それほど重大なことではないと言うこともできます。それに対して、人間の根源的な問題たる「生命」をも弄ぶような行為は、人間の「道」を外すことでもあります。「道」は、遊びのルールよりも高い次元に存在する、また別のルールです。「マネーゲーム」を楽しむにあたり、人としての「道」すらも守れなくなってしまうようでは、それは「遊びが過ぎる」ということであり、ゲームオーバーにしなければなりません。

残念ながら、これまでの世界において、「マネーゲーム」の駆け引きのために、数多くの人命が奪われてきたという歴史があることも、事実であると言わざるを得ないでしょう。そして、近年においては、科学の力が高度に発達して、人間が地球全体に及ぼす影響が極めて大きくなっており、殺人や戦争の大規模化はもちろん、もっと単純な「マネーゲーム」の結果すらも、地球破壊に繋がるようになってきました。こうした変化によって、「マネーゲーム」がもたらす負の側面が、一部の人命が奪われるといったレベルの話ではなく、人類全体の生命が奪われるということに発展しつつあるのです。

こうした状況を鑑みて、既存の「マネーゲーム」のプレイヤーには、そろそろゲームオーバーを宣告しなければならないかもしれません。ただ、ゲームオーバーが、人生の終わりを意味するものではありません。所詮、お遊びです。やり直したければ、やり直しもきくはずです。

いずれにせよ、しばらくは大丈夫でしょうが、この状態が続けば、いずれ人類は取り返しのつかないツケを払わされることになるのです。物事の本質を見失い、「マネーゲーム」ばかりにのめり込んでしまった人々は、少々、度が過ぎました。

「お遊びはここまでだ」

そろそろ、こんな言葉を発しつつ、新しい「マネーゲーム」を支配していくプレイヤーが登場するようになると思います。

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社会を作る「実力」の時代

2008年11月26日 | 社会

社会生活を営む上で、地位や肩書きは重要なことでありながらも、それが全てではありません。とくに時代の転換期というのは、年齢や実績、それに伴う地位や肩書きの重要性が低下し、それらとは無関係の「実力」が物をいう時代であるとも言えます。

ここで「実力」という言葉の意味について、きちんと定義しておきたいと思います。ここで言う「実力」とは、これからの時代を創造していく力です。もう少し、分解して考えるならば「ビジョン」と「実行力」ということになるかもしれません。それは、けっして過去を作り上げてきた力ではなく、過去を踏まえた上で未来を作り上げていく力です。そしてまた、それは潜在的なものであり、可視化させることが極めて難しいものでもあります。それが故に、なかなか認められるものではなく、過去を作り上げてきた力を可視化させた地位や肩書きとは、無関係にならざるを得ません。この点が、非常に重要なポイントです。

こうした意味での「実力ある人間」が、地位や肩書きを手にしている場合、社会は力強く前に進んでいきます。地位や肩書きは、社会を大きく変えていくためのツールであり、武器です。それらが「実力ある人間」に委ねられていれば、社会はその者の意思に従って、大きく前進していくことになります。逆に、閉塞感がある社会というのは、全体として、地位や肩書きと実力のバランスが不釣合いの状態であると言えるでしょう。

もちろん、地位や肩書きのある方々が、一様に実力が欠如しているといった不釣合いばかりではありません。それ相応の釣り合いがとれている方々もいらっしゃいます。したがって、私がある程度の地位や肩書きがある方々とお会いするときには、私なりに、彼らに時代を変えられる実力があるのか、次の時代を切り拓ける力を秘めているのかを測っています。

そして、その測定結果について、現時点における私の感想を述べるならば、やはり時代の傾向を反映しており、ほとんどの方々にその実力はないと思われます。非常に残念なことですが、大多数の地位や肩書きある方々は、それを築くまでに得た成功体験が邪魔をして、新しい時代における問題の本質や解決策を見極めらない状態にあるようです。

「これは誰が言っているのですか?」

私が、ひとつの解決策を示したときに、こんな返答をされる方がいらっしゃいます。「誰が言っているのか?」という質問は、自分の頭で問題を考えたり、本質を見極めたりする実力がなく、その判断をどういう地位や肩書きのある人が言っているのかに委ねていることを意味しています。「誰が言っているのか?」という質問は、私にとって驚愕するほどの愚問なのです。最も正確に答えるとするならば、目の前にいる「私が言っている」ということになるでしょう。しかしもちろん、そういう質問をされる方にとって、「私が言っています」などというのは、答えになりません。

もしかすると、こういう質問をされる方は、その質問が持つ重大な意味に気付かれていないのかもしれません。しかし、その質問が持つ意味は、明らかに「私は自分の頭で考えていません」という告白なのです。自らの実力不足を吐露してしまっているに等しい発言を平然としてしまう方々に、もはや次の時代を担うことなどできるはずがありません。

地位や肩書きは、分かりやすいものです。自分の力で考えずとも、地位や肩書きがある人の発言ということで、その発言自体に、何かしらの効力があるような錯覚に陥ってしまうことは、ある意味で仕方のないことだろうと思います。実際に、そうした発言をされる地位や肩書きのある方々が、「実力がある人」であれば、それは確かに効力があるとみるべきです。

しかし、冒頭に述べたように、時代の転換期たる現在において、過去の積み重ねの結果を「実力」と定義しないとするならば、「実力がない人」のみならず、「実力」とは何たるかを見極められないで軽はずみな言動をとってしまう人も、やはり「実力のない人間」になってしまいます。そういう人は、それに見合うように地位や肩書きを返上して、時代の表舞台から退出するほかなくなるでしょう。

逆に、地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、表舞台に立ち続けることができます。その理由の説明には、いくつかの仕方がありますが、そのうちのひとつが、地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、「苦労している人」だからです。

「実力がある人」が、地位や肩書きを手に入れて、社会から認められるまでには、非常に大変な苦労をしなければなりません。このことは極めて重要で、苦労をしている人というのは、その経験があるからこそ、安易に他人を否定したりせず、謙虚に新しい人々の言に耳を傾け、次の時代を共に作り上げていくことができるのです。この「次の時代を共に作り上げていくことができる」という点で、その人は地位や肩書きを備えた「実力がある人」と言うことができます。

しかし、既述のように、そうした地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、残念ながら極めて少数になってしまっているのではないかと思えてなりません。もちろん、地位や肩書きばかりで、本質を見極める能力のない「実力のない人々」が、増えてしまっているというのは、社会の状況を鑑みれば、ある意味当然のことだろうとも思います。

そうした「実力のない人々」には、これからの社会において、一旦、表舞台から退出していただくことになるでしょう。しかし、大切なことは、けっしてそれで終わりでもないということです。今一度、苦労し直すことで、自らの過ちや驕りに気付き、あらためて新しい時代に求められる「実力」を身につけたうえで、表舞台に復帰することはできるはずです。

歴史は繰り返します。失敗を成功に繋げ、成功しては失敗するという循環は巡り続けるのです。機会はオープンであり、成功のあとに失敗をし、そこからさらに成功を目指せるかどうかは本人次第です。少々気が早いですが、地位や肩書きばかりで「実力のない人々」には、私から今のうちにエールを送っておきたいと思います。

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命を張る仕事

2008年11月23日 | 社会

元事務次官夫妻が殺害されるという事件がありました。まずもって、こうした行為は正当化されるべきものではなく、いかなる理由があろうとも、殺人行為は許されてはなりません。

ところで、この事件の読み解き方には、いろいろあるとは思いますが、そのうちのひとつとして、年金問題に関わるテロ行為であるという見方がありました。しかし、今朝からさかんに報道されている内容によると、犯人が自首をしてきて、その供述では「保健所にペットを殺されて」云々ということのようです。

もちろん、真相は分かりません。ただ率直な感想を言うと、とても報道されているままの内容だけが、真実ではないだろうということです。人の思考パターンは、極めて多様であると考えるべきです。保健所にペットを殺されて、事務次官経験者を殺害するという思考もあり得ると考えるべきなのでしょう。しかし、そうした思考があり得るとしても、ただ、それが故に今回の犯人の供述を鵜呑みにするという必要もありません。

この事件の背後には、非常に巨大な権力や勢力が関係しており、それらの人々が裏側でさまざまなメッセージを交換していると考える必要もあるでしょう。年金問題は、非常に大きな問題です。そうしたこととも関連して、国家運営の根幹に関わる人々の関与も否定できません。

事件の真相はさておき、ここで被害に遭われた官僚の方々について、考えてみたいと思います。

年金問題を含め、関わった全ての案件について、被害に遭われた方々は、国のためと思って仕事をされてきたのでしょう。逆に、それくらいの信念がなければ、そうした重要な仕事をこなすことはできないだろうと考えます。しかし結果として、年金問題では、多くの国民の怒りを買うことになりました。私自身、もともと年金制度には、大きな疑問を感じていましたが、それは全国民的な規模で決定的となり、「国家詐欺」という喩えが使われるほどに至るのです。もしかすると、そうしうた国民の怨嗟の声が、今回の事件に利用された可能性もあります。そして、もしそうだとすれば、今回の事件は、国民の怒りが引き起こしたとも言えます。

この可能性を考慮した場合、問題の本質は、「国家と国民の乖離現象」にあるのではないかと考えます。つまり、「国家のため」にしたことが、必ずしも「国民のため」にしたことに結びつかないということです。

本来、国家は国民のためにあるのであり、それは今日においても、厳然たる事実であるとは思います。しかし、大きなパラダイムシフトを迎える時代にあって、「国家のため」のことと、「国民のため」のことが、徐々に乖離してしまう現象が起こっているのです。このことは、何となく理解できることかもしれません。そして、もっとも大切なことは、これは時代の流れであり、こうした現象は、時が進むにつれて顕著になっていくだろうということです。今は、何となくでしか理解できないことが、非常に分かりやすいかたちで多発するようになるということでもあります。

こうなってくると、現在、社会において責任ある方々、例えば今回被害に遭われたような中央官庁のトップの地位にある方々は、極めて大変な時期に、ものすごい重責を担っているということになります。それは、もしかしたら、自らの命を懸けなければならないほどの責任を負っているということでもあるのです。国民のためだと思ってやったことなのに、国民に殺されるなど、たまったものではありません。

しかし、この問題の答えは、実に簡単です。自分の頭で考えればよいのです。

これからの時代にあって、国家の仕組みのなかで、ただ与えられた仕事だけに埋没してしまうようでは、真に国民のための仕事はできません。国家の限界を見極めたうえで、真に国民のためになることとは何かを考えればよいのです。国家は、万能ではないのです。制度や仕組みは、古くなっていきます。これからの時代は、国家という大きな箱が、とんでもな壁にぶち当たることを感じ取り、それを理解し、そのことを見極めつつ、真に国民のためになることとは何かについて、自分の頭で考えればよいのです。

先日、ある中央官庁の要職にある方にお会いしました。私の印象では、その方は、こうした時代の流れを読めておらず、相変わらず、現在ある国家の仕組みや制度のみに縛られた発想をされているように見受けられました。同席していた私の仲間は、その方の的外れな発言に対して、「将来的に、きっちり責任を取らせる」と言っていましたが、私は、それはそれで当然のことだと思います。

繰り返しですが、答えは簡単です。想像してみることです。自分の頭で考えるのです。真に求められていることが何なのか、国民のための仕事とは何なのかについて、枠組みに囚われないことが大切です。命を張る覚悟で、考えてみれば、きっと答えは見つかります。

今後、国民のためにやったのに、国民によって殺されるなどという悲劇が起こらないことを祈るばかりです。

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名に恥じぬ仕事

2008年08月18日 | 社会

ここ数日、いかにも夏休みらしい日々を過ごしていました。だいぶ日焼けもしましたが、冷房がきいた屋内の施設でゆっくり過ごすというのもありました。そのなかには、映画鑑賞もあったわけで、前から気になっていた「崖の上のポニョ」を見ることもできました。

ところで、この作品については、とても残念な気がしています。率直に言って、この作品を作られた責任者の方に関しては、いまや世間一般で言われているような魅力はないように思いました。

その方が、過去において、素晴らしい作品を生み出してきたことは事実であり、今日、その方は一般的に巨匠という扱いを受けています。私自身、その方の作品のなかで、大好きなものもたくさんあります。「天空の城ラピュタ」は、確実に10回以上見たと思います。独特な世界観ばかりでなく、日本のアニメーションを世界に発信した功労者という意味でも、その方の偉業は間違いないでしょう。

ただ、ここしばらくの間、その方の作品に対しては、ちょっとした違和感を覚えていました。そして、今回の作品が、私のその違和感を決定的なものにしたように思うのです。その方が、巨匠と言われるからには、それに見合うような仕事をしていただきたいと思わざるを得ません。

「崖の上のポニョ」という作品が、ゼロベースから作り上げられたもので、お金も名前もない状態から生み出された作品ということであれば、それなりの評価のしようはあると思います。しかし、今回の作品は、その方が既に巨匠と呼ばれる地位にあって、多くの関係者や協力企業が集まった結果物であると考えたとき、それがあまりにもお粗末に見えてしまうのです。周囲にいた子供たちが、映画が終わった直後に口にしたのは、「これで終わり?」、「怖かった」、「次はポケモンを見たい」といった言葉でした。これは、子供たちに夢を売っていかなければいけないアニメ商売として、致命的な問題指摘であるとも思います。

何がどのように悪いというのは、挙げていったらキリがありませんし、またそういう類の話は、言う側にとっても、聞く側にとっても、あまり気持ちがいいものではないので、ここで細かく言及することは避けたいと思います。

巨匠の名を返上すべきなどと言うつもりはありません。ただ、その名に恥じないような仕事をしていただきたいと願うばかりです。

一方で、「崖の上のポニョ」を見た翌日、プラネタリウム映画で「銀河鉄道の夜」を鑑賞しましたが、これは良かったです。宮沢賢治の原作に基づいて、プラネタリウムらしく「星空」を活かしながら、ジョバンニが旅をしていくストーリーや構成は見事だったと思います。まず綺麗だし、素直に見て良かったと思えました。それから、スタッフやキャストの密度の濃さがすごいです。あらためてインターネットで調べてみると、「原作:宮沢賢治、脚本 / CG:KAGAYA、音楽:加賀谷玲、朗読:桑島法子、ナレーション:大場真人、制作:KAGAYAスタジオ」となっています。これこそプロの業だし、少数ながら、そのプロ集団が、真なる愛情と情熱を注いだからこそ、あの作品が生まれたのだろうと納得がいってしまいます。

今日のような時代だからこそ、限られたお金と時間を、どこに投資するかということについては、ますます真剣に考えていかざるを得ません。楽しむべきコンテンツが、次から次へと湧き出るように溢れてしまっているなか、限られたお金と時間を有効に活かして、ひとつでも多く、そうした素晴らしい作品に出会いたいと思う願望は強くなる一方なのです。

「崖の上のポニョ」が無駄であったとは思いません。同作品のおかげで、あらためて「銀河鉄道の夜」のような作品の良さや大切さについて、きちんと気付かせてもらえました。しかし、そんな評価は、同作品の制作に関わられた方々にとって本望ではないでしょうし、私にとっても、今後とも生み出されるであろう作品に対して、望み続けるものではありません。

今の社会において、きちんと評価を受けている方々には、その名に恥じない仕事をされることを望むばかりです。

《おまけ》
桑島法子さんは、名声優だと思っていますが、「銀河鉄道の夜」のなかでも、やはりその名に恥じない素晴らしい仕事をされていたと思います。

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隠して通す正義の重さ

2008年08月12日 | 社会

23年前の今日、日航機が墜落する事故がありました。この事故を巡っては、いろいろな議論がなされています。真相については、未だ謎に包まれているとされており、事故の原因やその後の救助活動に対して、疑問を呈する意見が後を絶ちません。

私自身、この事故については、当時の記憶として、いくつか憶えていることがあります。そのなかで、とくに印象的だったのは、フライトレコーダーに録音されたクルーの方々と管制塔のやり取りのような会話でした。当時の段階では、フライトレコーダーの中身そのものが公表されることはなく、声優を使った会話のやり取りが、テレビの報道番組などでしきりに流されたのです。「ライトターン」、「レフトターン」といった言葉が淡々と繰り返されるなか、飛行機が制御される様子が再現されるような映像を覚えています。

後日、フライトレコーダーの中身が公表されて、聞いたことがありますが、それ以前までに覚えていた会話の印象と、あまりにも違うことに愕然としました。当たり前のことですが、とてつもない緊迫感と、必死に飛行機を立て直そうとするクルーの方々の思いがひしひしと伝わってくるのです。聞いているだけで、胸を締め付けられるような思いがしました。当時、声優さんで再現された「ライトターン」、「レフトターン」という会話とは、あまりにもかけ離れていることにショックを受けたのです。

その事故から、23年の月日が経ったということです。冒頭にも述べたとおり、この事故については、いろいろな憶測を含めて、さまざまな議論がなされています。そして私自身は、この事故について、少なくとも一般的にメディアで報道されていたような、「事故の原因が機体後部の圧力隔壁の破損だった」ということを、そのまま信じるのは厳しいように思っています。

この事故に関する事実整理や原因分析については、インターネット上での情報のみならず、既に出版されている多くの書籍のなかでも展開されているので、ここでは省略いたします。また、それらの分析には、間違った憶測が含まれている可能性も否定し得ませんので、最終的に何が正しいかを論ずるのは、困難だろうとも思います。しかし、そうだからと言って、一般的に言われている事故に至る経緯や原因、あるいは救助活動の中身が、全て問題がなかったということにはならないことは確かでしょう。私としては、どんなかたちであるかは別として、何かしらの重要な真相が隠されていることは、間違いないと考えざるを得ないと思っています。

ところで、もしこの事故に隠された真相があるとするならば、当然、それを隠している方々がいることになります。500人を超える犠牲者を出した事故について、その真相を隠蔽するということは、大変なことです。しかし、それだけ大変なことをするからには、隠蔽をする方々にも、それなりの理由がきちんとあるのだと思います。私は、そういう意味で、そうした「真相を隠す」行為そのものにも、やむを得ない何らかの理由があり、致し方ないものがあるのではないかと考えます。別の言い方をすれば、真相を隠す方々からすれば、500人以上の犠牲者を出そうとも、この事故を隠蔽し続けることで、守らなければならない正義があると信じているということでしょう。私は、現時点において、こうした隠蔽の事実があったとしても、それ自体を責めることは難しいと考えます。もしかしたら、そうした方々が、事故の真相を隠蔽して、彼らなりの正義を守り通しているが故に、私たちが享受できている何かがあるのかもしれません。

しかし、そう考えることと「事故の真相」が正当化されることとは、全く次元が異なります。事故で多くの方々が亡くなったことは事実であり、本来、けっしてあってはならないことなのです。

私たちは、隠蔽される側の人間であり、事故の真相を知る立場にはありません。しかし一方で、事故の真相を隠蔽される方々がいらっしゃるとするならば、その守らなければならない正義が、亡くなった多くの方々の犠牲のうえに成り立っているということを絶対に忘れてはいけません。そして、生きている限りにおいて、犠牲になった方々や遺族の方々の思いを背負っていていただかなければなりません。

事故を隠蔽することで守る正義は、本当に犠牲になった多くの方々の命よりも重いものなのでしょうか。事故を隠蔽している方々がいらっしゃるとするならば、その方々にとっては、常に真剣な自問自答を必要とするテーマだと思います。

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休漁にみるエネルギー問題

2008年07月15日 | 社会

原油高の影響により、漁業で生活を営んでいる方々が、大きなダメージを受けているようです。本日、関係者の方々が、その窮状を訴えるために、全国で一斉休漁するという報道がありました。私は、現在の社会において責任ある地位の方々が、この問題に対して根本的な解決ができ得るのかということについて、あまり期待をしていません。もちろん、現在の枠組みのなかで、できる限りの対策を検討し、対処していくことはあろうかと思いますが、原油高という根本的な問題を解決できるような策を講じるのは、極めて難しいだろうと考えます。

つい数ヶ月前、ガソリンの暫定税率分である25円が重大問題であるかのように振舞った政界の方々、それをしきりに取り上げたマスコミの方々、さらにそれらに振り回された多くの国民がいました。

私は、一介の素人ではありますが、エネルギー問題の深刻性や危険性については、以前より気付いたことがあったので、それに関して指摘をしてきました(「有限のエネルギーを巡って・・・」、「エネルギー問題への違和感」など参照)。それは、私の周囲にいる方々に対して、口頭で直接伝えてきたことでもありましたが、当時のほとんどの人々にとって、それはあまり現実的な話ではありませんでした。

つい先日、ある方から、「最近、世の中が怖い。社会に先が見えない。鬱のようなものだ」という告白を受けました。その方にも、ずいぶん前から社会が向かっている将来の危険性については、申し述べさせていただいていましたが、ようやく今になって、私の言葉の意味を理解していただいたような気がしました。その方にとって、私の話が多少なりとも現実的な話として、聞こえるようになったようです。

しかし、だからと言って、私の言葉が正しいとか、信じろなどと言うつもりもありません。

目前にある難解な問題について、既存の枠組みのなかでの解決を図るということ自体、良いことですし、何とかなると信じる自由があることは確かです。やるだけのことをやって、もし既存の枠組みではどうにもならなくなったとき、人々は自ずと真剣に、新しい枠組みとは何かについて、考えるようになるでしょう。

たまたま私は、現時点において、既存の枠組みでは、根本的な解決し得ない問題が多々あると思っており、これから別の枠組みを作っていく必要があると感じている人間であるというだけだと思います。そんな私がするべきことは、現在、私たちが直面している問題が、本当に既存の枠組みでは解決しないということが確定したとき、社会がスムースに次の新しい枠組みに移行できるよう、淡々と準備しておくことなのではないかと考えています。

そしてまた、世の中が悪くなるということは、一方的にマイナスの意味だけがあるとは思いません。社会全体の悪化現象は、それだけ多くの人々が、将来のことを真剣に考えるようになることと直結しているように思うのです。このことは、社会全体にとって大変重要であり、大切なことだと考えます。

昨日、ある方とお話をさせていただいた際、たまたま「パラダイムが変わる」という言葉が出てきました。パラダイムシフトという言葉は、ずいぶん前から使われています。しかし私は、真のパラダイムシフトはまだ起こっておらず、まさにこれからが、本格的なパラダイムシフトの時代なのではないかと考えています。

今回、休漁をされた関係者の方々にとって、既存の枠組みのなかで、様々な解決を試みる、あるいは訴えていくということは大切なことであり、それらには、多くの方々の生活が懸かっている点、見逃すことができません。つまり、それだけ深刻な状況に陥りつつあるということです。しかし、それでも事態を改善できず、出口が見つからないような絶望的な状況になったとしても、その先には、それまで見えなかった新しい道が拓けているように思うのです。

私の話には物騒な内容が含まれていることも多いので、現実にならないで済むのなら、それはそれで大いに結構なことです。例えば、今回の休漁は、エネルギー・原油価格の高騰という事象が、漁業に及ぼした結果として起きたものでしたが、エネルギー問題は、生活に直結したあらゆるところに多大なる影響を及ぼします。到底、漁業や鮮魚といった分野に納まる類の話ではありません。これから先、私たちの生活は、もっともっと大変な状況に追い込まれても、おかしくないのです。そして、社会に対する警鐘としての私の言葉が、現実味を帯びるということは、これからますます、社会が絶望的な状況に陥るということを意味するのだろうと思います。

しかし、もしそれらが現実味を帯びるほど、社会が荒廃してしまったとしても、一方でそうした絶望的な状況を経るということは、次へのステップに向けてどうしても必要な過程であり、それは必ず明るい未来へと繋がっていくものではないかと考えています。そして、どんな状況になったとしても、新しい社会を構築するための努力は怠ってはならないと思うのでした。

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お金遣いの時代

2008年07月11日 | 社会

現代社会においては、資本経済が非常に大きな役割を果たしています。そのルールのなかで、仕事の価値は、常にお金に換算されていくため、お金持ちというのは、立派な仕事をした人ということであり、また人生の成功者という見られ方をしてきました。つまり、その人々が行ってきた仕事の価値が、お金の量で可視化できるため、その尺度を持って、人の価値を量り、評価してきたということです。

しかし近年、資本主義のルールに頼ってばかりではいられないことを示唆するような問題が多く見られるようになり、人々の価値観のみならず、社会全体の仕組みも大きく変わらなければならなくなってきました。エネルギー、食糧、環境などを巡り、地球規模で起こっている諸問題は、世界全体を荒廃させるようなインパクトを持ち得ますし、そのまま無策で過ごそうものなら、社会そのものが地盤沈下を起こしてしまうことになり兼ねません。万が一、そのような状況に陥ってしまったら、いくらその社会のなかで、一所懸命お金を稼いだところで、いずれその荒廃した社会に自らも飲み込まれ、まともな生活を続けることができなくなってしまいます。それでは、頑張ってお金を稼いでも、何の意味もありません。

即ち、これからは世の中の仕組みが、大きく変わらなければならない時代であるということです。そして、これには莫大なコストがかかるのです。

ここに大きなパラダイムシフトが生まれます。つまり、これからの時代において、社会から求められることは、いかにお金を稼ぐかではなく、地球規模のあらゆる問題をも解決し、将来にわたって持続可能な世界を実現するため、いかにお金を遣うかということになるということです。これは、今までのように「お金持ち」ばかりが尊敬されたり、評価されるのではなく、次の時代に向けて、社会を変えていくための「お金遣い」の人々が、評価されていく時代になると言うこともできるでしょう。

もちろん、歴史は繰り返されており、過去においても「お金遣い」が台頭し、その結果として「お金持ち」が生まれるといった循環はあったため、このこと自体、それほど特別なことではないかもしれません。ただし、こうした問題が、地球規模で起こったことは過去に例がなく、全人類がこれらに向き合わなければいけなくなったという点で、パラダイムシフトと言うべき現象が起こるであろうことは、予見されて然るべきだと思うのです。

そして、パラダイムシフトが起こるような、極めて大きな変化が起こる時代において、「お金を遣う」ということは、実は大変難しいことであることにも注意が必要です。つまり、過去の経験のみからは、お金を投じた結果を予測することができないだけでなく、動かさなければいけない金額も桁外れに大きくなるため、そこには未来に対する明確なビジョンと確固たる信念が求められるということです。もちろん、それらは地球規模の問題を解決するという、非常に大きな視野から発されていなければなりません。

しかし実際、私自身、今日において社会的に高い地位や莫大な資産を持っている方々から、そうしたビジョンや信念を感じることは、ほとんどありませんし、自らが持つ力を使って、具体的に何かをしようという話に触れることも、まずありません。大抵、社会における問題点を列挙し、その責任を他人に擦り付けてやらせようとしたり、他人を責めたりという方々が、大部分であるように思います。当然、この繰り返しで、社会がよくなるはずがありません。

こうした現状を踏まえたうえで、結局、これからの時代において大切なことは、「お金を持っていること」ではなく、「お金を遣うこと」であり、それを通じて、いかに社会を変えていくかということではないかと、強く思わざるを得ないのです。

今でこそ、「お金持ち」が羨望の眼差しを集める対象になっているかもしれませんが、これからの時代において、単に「お金持ち」であることは「お金を遣えない人」、あるいは「お金を何に遣っていいのか分からない人」という意味で、無能という評価を受けるようになるかもしれません。大切なのはビジョンや信念であり、そうした社会的価値観に基づいて、「お金遣い」たちが活躍していくことは、これからの時代における自然の流れであり、必然のように思えてならないのです。

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地球温暖化の謎

2008年07月08日 | 社会

地球温暖化問題については、一般的に二酸化炭素のような温室効果ガスの増加が原因であると言われていますが、これに対して異を唱える学説が出てきています。そのうちのひとつに、地球温暖化問題には太陽活動が大きく関わっているというものがあります。その要旨は、以下の通りです。

 -地球温暖化には、雲の量が大きく関係している。
 -雲の量が増えれば寒冷化、雲の量が減れば温暖化になる。
 -雲は、大気中のイオンの働きによって発生する。
 -大気中のイオンは、宇宙線が増えれば増える。
 -宇宙線は、太陽風(高温のプラズマ)によって遮られる。

つまり、太陽活動が活発化→太陽風が増大→宇宙線が遮られ減少→大気中のイオンが減少→雲の量が減少→地球温暖化というわけです。この学説にどれだけの信憑性があるのかは、まだはっきりしませんが、私自身なかなか面白いと思いますし、それなりに説得力があるのではないかとも感じています。

太陽の力は偉大です。数時間の日照時間の差によって、まったく同じ場所が、真夏になったり真冬になったりしてするほどです。私が住んでいるところで、一年を通じて一番暑いときと、一番寒いときの温度差は35℃くらいでしょう。この35℃の開きをもたらすものは、細かくは諸々あるでしょうが、最も大きいものは言うまでもなく太陽が照っている時間の差です。

そして雲の量は、日照時間に直接影響を及ぼすものではありませんが、単純に考えて、日照条件に多大な影響を及ぼすであろうことは容易に想像できます。そうした意味で、雲の量(雲の被覆率)が、地球の温度に大きな影響を及ぼすというのは、至極自然な感じがするのです。ある説によれば、雲の被覆率が1%変わると地球の温度が3℃変わると見積もられているといいますが、これは大変な数字です。

一方で、一般的に言われている地球温暖化と二酸化炭素との関係も、無視できないのだろうと思います。そもそも大気中の二酸化炭素の濃度を正確に測定できていないといった問題もありますが、地球温暖化と二酸化炭素との関係については、アメリカの元副大統領アル・ゴア氏の「不都合な真実」などでも、指摘されているところです。何をどこまで信じるべきかの問題はあるにせよ、可能性のひとつとして、「不都合な真実」で言われているように、地球温暖化と二酸化炭素濃度の増大というふたつの要素が、何らかのかたちで結びついている可能性はあるように思うのです。

ただ順序として、二酸化炭素が増えたから温暖化を引き起こしているのではなく、地球全体が温暖化することで、海に蓄えられていた二酸化炭素が大量に大気に放出され、その結果、二酸化炭素濃度が高まっているという可能性も、十分にあり得るのではないかと考えます。一説によると、海中に存在する二酸化炭素の量は、大気中のおよそ60倍に及ぶといいます。温暖化の影響による水温上昇によって、溶解度が低下するため、海に蓄えられていた大量の二酸化炭素が、大気中に放出されるという仮説も、これはこれで説得力があるように思うのです。

地球温暖化の議論は、まだまだ分からないことだらけです。そのような状況において、今の私たちにできることは、ひとまずいろいろな可能性について検討をし、あらゆる可能性に対して、現在できる限りの対策をとっていくということしかないのでしょう。

私は、仮に地球温暖化の原因が二酸化炭素ではなかったという結論になったとしても、それはそれでいいし、それまでの二酸化炭素削減に向けた取り組みは、けっして無駄にはならないと考えています。現在、社会全体が躍起になって、二酸化炭素削減のために動いていること自体には、今日のエネルギー問題への解決に向けた努力という意味で、価値があるでしょう。二酸化炭素の排出量を減らすということは、必然的に有限資源である化石燃料の消費を減らすということにもなります。石油をなるべく消費しないような生活を送ることについて、地球規模で考えるということは、大変意義深いことだと思うのです。そしてこれは、今日のように有限である石油に依存しきっている現代社会に対して、警鐘としても機能するでしょう。そういう意味で、どんな難解な問題であろうとも、今私たちができる限りの対策をとっていくという姿勢を保ち続けることが、最も重要なのではないかと思うのです。

そして、さらに議論を深めていくと、この問題はもはや、人類が物理的にどうにかして解決できるようなレベルではなくなるという可能性にまで発展するかもしれません。仮に、太陽風が地球温暖化の原因だとするならば、それを人間が物理的にどう制御するかというのは、非常に難しい問題になるであろうことは容易に想像できます。

地球温暖化の問題に対して、私たちが必死になって、地球の問題として考えていたのに、気がついてみたら宇宙的問題にすり替わっていたとしたら、それは非常に大変なことです。しかし、一方で大変取り組み甲斐のある課題のようにも思います。

この問題がどう転ぶにせよ、私自身、非常に興味深いものを感じます。

ただ繰り返しですが、本問題については、分からないことだらけです。私は、私なりのアプローチで、将来におけるエネルギー問題や食糧問題などについて考え、必要と思われる行動を起こしていきたいと思っています。そして具体的に、それらがどう交わるのかはまったく分かりませんが、そうした活動の延長線上に、この難解な温暖化問題についてもきちんとした答えを見出せるような気がするのです。

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「萌え」の本質と役割

2008年07月02日 | 社会

元来、アイドルとは偶像であり、理想の像です。1980年代にアイドルブームなるものがあり、多くの若者が熱狂したといいます。しかし今日、昔でいうところのアイドルは、ずいぶん減ってきたように思います。

代わって見られるのは、いわゆるアキバ系文化を中心とした「萌え」の要素を含んだキャラクターのように思うのです。「萌え」の定義には、いろいろあるようなので一概には言えませんが、少なくともアニメ、漫画、ゲームなどの世界のなかで、異性などについて、ある種の理想型を見出したときの感動や興奮を表しているように感じます。また、それらのキャラクターについては、生身の人間ではなく、PC画面や紙などの平面にだけ存在するということで、「2次元」という表現がされたりします。

しかし、こうした「2次元」への憧憬を抱くということは、生身の人間が住む現実世界である「3次元」からの逃避というかたちにも映るため、「萌え」や「2次元」の世界が病的であるというレッテルを貼られることも多いように思います。けれども私は、この一連の事象をそのようにだけ整理するのは、適当でないと考えます。

「萌え」の対象となるものは、その人にとってのある種の理想像であり、それは分かりやすい言葉で表現すれば、アイドルであると言えるでしょう。それが「3次元」の生身の人間であろうが、「2次元」のキャラクターであろうが、アイドルのなかに理想型を見出し、それを追い求めるという本質的な意味では、まったく違いが見当たりません。

「萌え」や「2次元」が病的であると断じられる背景には、その理想の世界だけが、自分にとっての唯一の世界であると錯覚をしてしまうことにあると思います。そういう意味で、「萌え」や「2次元」を楽しんでいる方々は、これらの世界を楽しむと同時に、きちんと「3次元」のなかでも真面目に生きていれば、まったく問題がないと言えるでしょう。

むしろ深刻な問題を抱えているのは、「萌え」や「2次元」を完全否定し、「3次元(現実世界)」こそが絶対であると信じている人々かもしれません。所詮、現実世界には理想型など存在しないと割り切ってしまい、理想を追い求めることを止めてしまっている人々は、「現実と理想にギャップなどあって当たり前」、「所詮そんなもの」で済ませてしまいます。その思考が異性に対して反映されれば、「所詮男なんて・・・」、「所詮女なんて・・・」という気持ちから、いい加減なお付き合いをするようなことにも繋がりかねません。そうした生き方を否定するわけではありませんが、少なくともそのようにして理想を諦めたような人々、あるいは「3次元」にドップリ浸っている人々が、「2次元」とはいえ理想を諦めず、それを追い求め続けている人に対して、病的だと嘲笑するような社会であってはならないと思うのです。

私自身、「萌え」や「2次元」といった世界のなかで、アイドルや理想像を追い求めるのは、大いに結構なことだと思います。そのことは、高い理想を求めるが故に、現実とのギャップを埋めようとする行為でもあると言えます。既に、理想を我が物にしている人は、それはそれで結構なことです。しかし、世の中には、そんなに人生がうまくいっていない人々もたくさんいるのであり、そういう人々が理想を追い求める結果として、「萌え」や「2次元」を楽しむことが、許されてもいいのではないかと思います。

また「萌え」や「2次元」を楽しんでいる方々に対しては、それはそれで大いに楽しむとして、そこだけに留まらず、「3次元」である現実世界のなかにおいても、夢や希望や理想像をけっして諦めることなく、ひたすらそれを追い求めていただきたいと思います。ときどき「萌え」や「2次元」を楽しんでいる方々のうち、「3次元」に対して、非常に攻撃的であったり、ネガティブな感情をさらけ出したりされる方々もいらっしゃいますが、そうした行為は、同じように「萌え」や「2次元」を楽しんでいる方々を、苦しい立場に追い込むことにもなることを認識する必要があります。

せっかく、「萌え」ることを通じて、理想型を見出しているのであれば、そのエネルギーを糧として、建設的に「3次元」の世界を変えていくことに注力した方がいいはずです。私は、そのように現実世界をポジティブに変えていくエネルギーを生み出すことこそが、「萌え」の本質的な意味であり、「3次元」たる現実世界において期待されるべき役割なのではないかと思います。

「萌え」ている諸君、今日も大いなる誇りを持って「萌え」てください。そして「3次元」をより良いものにしていきましょう。その磨いていくべき「3次元」とは現実社会であり、そこに存在する自分自身です。

そして私は、本記事を私の女神様、ベルダンディーに捧げます。m( _ _ )m

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「負け組」たちへのエール

2008年06月12日 | 社会

先日の秋葉原の事件に関しては、既に記させていただいたとおり(「惨劇を無駄にしないために」参照)であり、今回、罪を犯してしまった人については、一切同情の余地はありません。犯した罪の重みを受け止め、残った人生のすべてをかけて、償いをするほかないのだろうと思います。

しかし一方で、罪を犯す前までの彼が考えたり、悩んだりしたことは、よく理解できます。彼は、自分自身を「負け組」と呼んで、社会に対して絶望し、「負け組」になった自分を恨んでいたようです。そして実際、彼と同じような気持ちになっている人々は、世の中にたくさんいるだろうし、そういう人々が社会に絶望したり、自虐的な発想をしたりしているだろうと思うと、それはそれで心が痛みます。

表現の問題はあるにせよ、実際に世の中は、いわゆる「勝ち組」と「負け組」に分かれつつあります。社会全体は、「勝ち組」がさらに勝ち続けるための仕組みが強化されながら、競争そのものもますます激しくなってきています。「勝ち組」のなかですら、さらに勝ち続ける者と脱落者に分かれていくなかで、早い段階で「負け組」に入ってしまった人々にとっては、絶望的な状況といってよいのかもしれません。そういう意味で、罪を犯す前の彼のような人々は、非常に多く存在するでしょうし、彼自身が言っているように、見方によっては、そういう人々をいつ暴発するか分からない「犯罪者予備軍」といえる側面があるように思うのです。

けれども、私はそうした「犯罪者予備軍」と言われかねない方々に、もっともっと自信を持っていただきたいと思います。

「勝ち組」と「負け組」に分かれて、熾烈に競争を繰り返す社会には、大きな問題があります。競争から脱落し、「負け組」となった人々ばかりが悪者扱いされたり、ダメ人間扱いされたりするのは間違っています。むしろ、今の問題ある社会に対して何の疑念も抱かず、それにドップリと浸かった生き方をしている人のほうが、重症かもしれません。

いわゆる「負け組」のレッテルを貼られている人々は、そういうレッテルを貼る社会の仕組みや価値観の方にこそ問題があることをきちんと認識し、己の正しさを信じ、ひたむきに生きていれば、それでよいのだと思うのです。

もう少し、踏み込んで言えば、そもそも「勝ち組」、「負け組」という言葉は、どこかの誰かが勝手に作ったものです。そんなものに左右されることはないはずです。もし、どうしても「勝ち組」、「負け組」という言葉を使いたければ、それは全ての人生を終えたときにはじめて使える言葉だと考えるべきでしょう。人間は生きている限り、無限の可能性を秘めています。負けていたとしても、最後に勝てばよいのです。試合は完全に終わるまで分かりません。その人の人生の価値や勝負の結果は、人生を終えるときにしか決まらないということを、きちんと認識しなければなりません。人生の途中段階において「勝った」、「負けた」というのは、お遊びのようなもので、それに惑わされるのは真剣に生きていない証拠でもあります。己の信じた道を忠実に守りながら、人生を全うすることこそ、人生の「勝ち組」になるということであり、それは誰にでもできることのはずです。

自虐的になる必要はないでしょう。自暴自棄になってもいけません。自棄を起こして、他人を殺傷するようなことは、絶対にあってはならないことです。取り返しのつかない罪を犯してしまっては、取り返しのつかぬ代償を払うことになります。自らの行為で、他人はもちろん、自分までも不幸のどん底に落としていくのは、あまりにも馬鹿げています。

これから、社会の仕組みやルールは大きく変わります。仕組みやルールが変わったときに活躍をするのは、既存の仕組みやルールに縛られていない「負け組」と呼ばれる自由な人々でしょう。私は、「負け組」の人々が、この時代を耐え抜けば、きっと次のステージで輝けるときが来ると信じています。耐えることは、とても辛いことでもありますが、耐え抜いた者たちだけが行ける輝かしいステージがあるのも事実だと思うのです。

「犯罪者予備軍」と呼ばれて本当の犯罪者になってしまうか、新しい時代で活躍していく人間になるかどうかは、誰が決めるわけでもなく、その人自身の意思と選択にかかっていると思います。

====================
「負け組」たちよ。
耐えて、耐えて、耐え忍べ!
今、爆発するな。もったいないぞ!
せっかくなら最後に笑え。
明るい未来を信じてみろ。
====================
「負け組」代表より

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惨劇を無駄にしないために

2008年06月09日 | 社会

秋葉原で大変な惨劇が起こりました。通り魔事件としては、最悪の犠牲者数でもあり、被害者ご遺族や関係の方々の心境を考えると、こうした事件が二度と起きないようにと心から願うばかりです。

ところで、現実問題として、こうした事件が再発しないようにするということは、とても難しいことでもあります。警備を固めるといった「犯罪を抑え込む」手法もありますが、こうした手法は、犯罪とは無縁の「善良な人々」に対しても、監視の目やチェックをかけていくということにもなり、息苦しく住み難い社会を作っていくことにも繋がります。もちろん、それで問題を解決できるのであれば、大いに進めていくべきでしょうし、ある程度の効果が期待できることも事実でしょう。しかし、そうした手法ばかりに頼って、問題を根絶するということは、非常に難しいことだと思うのです。

また一方で、こうした惨劇を起こす人々は、凡そ「普段は温厚」、「おとなしくて無口」な人だったりします。つまり、普段は穏やかで、とても事件を起こすように見えないような人々が、考えられないような残忍な事件を起こすようになってきているのです。規制や監視の目を厳しくすればするほど、こうした問題の原因となる心の闇は、さらに奥底へと沈み込みながら、根を張っていくでしょう。そのように、安易な力技での対策は、ますますこうした傾向を強めていくのではないかという点で注意が必要です。

少々、観点を変えます。

一昔前、校内暴力や暴走族が社会的な問題となった時代がありました。社会を取り仕切っている大人と、社会に適応できなかったり、社会が間違っていると思ったりしている子供たちとの対決は、かなり表立って行われていたように思います。子供たちは、社会を受け入れることができず、その不平不満を堂々と大人たちにぶつけていくし、大人たちもそれに対して、真正面から向き合っていたように思うのです。昔の問題も、今の問題も軽んじるわけではなく、少なくとも当時の傾向として「悪ガキ」や「ツッパリ」が、多くの問題を起こしていたという意味で、それらは見えやすく、またそこを抑え込むかたちで問題を解決するという手法が十分に機能していたのではないかと思います。社会を取り仕切っている大人たちには力があるため、それを続けていくことで、社会全体の力で、子供たちのそうした抵抗を抑え込むことはできました。そして、そうすることで社会のルールは守られつつ、大人たちの力で豊かな社会を実現できました。

時代が進むにつれて、代わって出てきたのが、抑え込まれた子供たちのフラストレーションが、社会の目が及ばないところで爆発したり、隠れていたエネルギーが突然爆発したりといった現象ではないかと思います。家庭内暴力や子供たちの「キレる」現象は、傍目からはおとなしくしている子供たちが、その内に抱える負の感情やエネルギーを社会に対して、正面からぶつけることができず、社会の目が届かないところでぶつけたり、隠していたフラストレーションが、ある日突然爆発したりというかたちで表れた結果だと考えることができると思うのです。

私は、こうした現象は、社会に対する絶望感から生み出されている部分があるのではないかと考えます。言い換えると、社会の仕組みが強大すぎて、何をやっても無駄であるという諦めの風潮が、大きな原因ではないかということです。

つまり、「悪ガキ」や「ツッパリ」が、問題児となっていた時代では、「暴れれば何とかなる」、「何か行動すれば世の中が変わる」という期待を持つことができたのではないかと思うのです。実際、「ツッパリ」がカッコよく見えたのには、社会に反抗しているという姿勢やスタイルが、当時の若者から支持されたという側面があったでしょう。しかし、「悪ガキ」や「ツッパリ」が、社会から抑え込まれると同時に、経済や政治を含む、社会全体の仕組みがますます硬直化、または強大化していくにつれ、いつの間にか「何をやっても無駄」、「所詮社会とはそんなもの」という諦め感を生んでしまったのではないかと思います。ひとつの傾向として、例えば今日において、一昔前の暴走族のようなことをやる子供たちは、「(無駄なことをしている)カッコ悪い人々」に見られるような風潮があるように思えてなりません。こうした傾向が、どれだけ進んでいるかはともかく、それらは社会に対しての絶望感から生まれているという側面があるように思うわけです。

ここで見落としてならないことは、社会に絶望している人々が、もはや過激な言葉や行動で、自らの意思を表現することすら諦めているということです。それは、傍目からは「普段は温厚」だったり、「おとなしくて無口」な人々と見られることが大きな落とし穴になります。

話を通り魔事件に戻します。

こうした悲惨な事件が起こるたびに、「普段おとなしい人間がどうして?」などという議論がなされたりしますが、それに答えを出せない方々は、表面上の「おとなしい」という部分に目を奪われているような気がします。その人の内側で、膨れ上がっていった負の感情やエネルギーがあったことが見落とされているように思えてならないのです。そして、それは硬直化した社会全体の仕組みが、多くの人々に諦められてしまうほど、絶望的な状況にあって、その出口を誰もきちんと見出せていないことに、大きな原因があるように思うのです。

「おとなしくて無口」な人々は、何も考えていないわけではなく、ものすごい感情やエネルギーを内に秘めている人々です。それは、時に惨劇を引き起こしてしまうほど、恐ろしいかたちで負の効果を生み出します。しかし一方で、人間のそうした力は、常に負の効果を生み出すわけではなく、きちんとした方向性を持たせれば、正の効果を生み出すこともできるだろうという点が、極めて重要なことです。

今回の悲劇のなかで、事件を引き起こした犯人に対して、同情の余地はありません。犯した罪については、残った全ての人生をかけて償うべきでしょう。しかし、それだけでは問題の本質が解決されることになりません。上記のような硬直化し、また強大化してしまった社会の仕組みを残したままでは、問題の根本的な解決はされ得ず、またいずれ同じような悲劇が繰り返されると考えた方がいいかもしれないのです。そして、もしそうだとするならば、現在を生きている私たちが考えるべきことは、今後の明るい未来に向けて、いかに社会を変えていくことかということであり、夢や希望を持てる社会を実現するかということではないかと思います。

今回の事件で、犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りするとともに、その犠牲から、これからを生きる私たちが学ぶべきこと、私たちが為すべきことを真剣に考えていきたいと思うのでした。

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