常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

期待する好試合

2009年08月21日 | 社会

甲子園で行われている高校野球の全国大会も、いよいよクライマックスが近づいてきました。こうしたスポーツ観戦の楽しみ方は様々でしょう。私の場合、自分が住んでいる神奈川県を除けば、ほぼ負けている方を応援するようにしています。それは負けている方が可哀想だからという言い方もあるでしょうが、単純にその方が試合として盛り上がるからという言い方もできるだろうと思います。それぞれの出場選手が、これまでの野球人生を懸けて、死力を尽くして戦っているのです。好試合を期待したいと思うのは極めて普通のことでしょう。

ところで、私がこのブログの中で、「常識について思うこと」というタイトルを掲げて、非常識とも取れるような内容を書き連ねているのは、この「負けている方を応援する」心境に近いような気がしています。

この世の事象というのは、常に二面性に満ちています(あるいは多面的という言い方をしてもよいでしょう)。それは表裏、善悪、光陰というような極めて基本的な概念をも含めて通じることであるため、どちらかの性別、つまり男か女かという存在として、それに縛られた一個体たる人間が、それら全体を見極めるというのは、ほとんど不可能であるということでもあります(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)。

そうしたなか、常識というものは、この世の事象に対して、ひとつの視点が定着したときに生まれるものです。当然のことながら、それは大勢の人々によって支持されます。常識はさらに大勢を得て、ますます大きくなるというサイクルを繰り返し、常識としての地位を確固たるものにしていきます。こうなると、この世の二面性が忘れ去られ、一方の側面ばかりが是とされるようなことにもなり兼ねません。

これが私からすると、冒頭の高校野球で言うところの「ワンサイドゲーム」に見えてしまうのです。それでは、少数で非常識な「負けチーム」が可哀想ですし、また試合としても面白くありません。物事の本質は、その両面とも正しいと言うことができますし、またその間にあるとも言えるのです。常識と非常識は、表裏一体の関係にあり、本来、それらは均衡して然るべきであるとも考えられます。そういう意味で、もしかすると、「ワンサイドゲーム」に発展してしまう常識の一人勝ちは、この世を歪ませる要因にもなり得るわけです(但し、モラルに反する非常識、他人のご迷惑になるような非常識等は論外です)。

表裏一体の関係というのは、別の言い方をすれば、矛盾した関係という言葉に置き換えることも可能です。私がブログを通じて申し述べていることは、時にそうした大きな矛盾を抱えているのであり、そのような表裏一体の関係を表しているものでもあると言えるでしょう。読者の方々が、それに気付かれているかは分かりませんが、それはこのブログが、もともと「常識について思うこと」をテーマとしており、常識という概念を上記のような視点から紐解いているからにほかなりません。

ここまでの整理をした上で、私の言に対して、「矛盾しているではないか」、「変節しているではないか」と批判されるような方がいらしたとして、それはそれとして大いに結構なことであり、私としても堂々とそれらをお受けしたいと思います。

ただし、単に「矛盾していること」ばかりを指摘するということは、この世の矛盾の間に潜む物事の本質について、その方自身が理解できていないことを告白するだけになってしまうかもしれません。「変節している」と非難するような人は、一本筋が通った物事の本質を、その方自身が歪んだ姿勢で眺めているが故に、本来、真っ直ぐなそれが歪んだり、曲がったり見えてしまっているだけかもしれないことに注意が必要です。

何にせよ、高校野球における好試合を期待するのと同様、この世のあらゆる事象についても、均衡のとれたあり様を思い描いていきたいと思うのでした。

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