簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

鈴ヶ森の刑場(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-07 | Weblog



 お仕置き場、鈴ヶ森の刑場が人通りの多い街道沿いにつくられたのは、浪人など
による犯罪が増加傾向にあったことから、刑を見せしめにするためと言う。
ここでは明治に入り廃止されるまでのおよそ220年の間に、10万とも、20万人とも言
われる処刑が行われたらしいが、これらを証明する記録は残されていないそうだ。



 国道の拡幅で当時の姿を留めないと言う敷地内には、墓標や供養碑、祠・石仏、
石柱、井戸や供花台、「火炙台」や「磔台」に使われた石などが秩序無く、無造作に
置かれていて、それがかえって不気味で、その説明を読めば背筋も寒くなる。



 ここでは、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七など、映画や歌、芝居など
で馴染みの者が処刑されている。中でも哀れを誘うのは、江戸本郷で加賀藩御用
達をつとめる八百屋の箱入り娘・お七である。当時はまだ16歳であった。



 お七一家は、天和の大火で焼け出された。身を寄せた寺でお七は美男の僧に出
会い、一目ぼれしてしまう。しばらくして家は再建され、戻ったものの「もう一度会い
たい」と言う想いは募るばかり。
家が無くなれば寺に行けるのでは、とついには自宅に火をつけた。



 当時火付けはその結果の大小を問わず大罪で、捕らえられたお七は市中を引き
回され、この地で火炙りの極刑に処せられたのである。
悲嘆にくれる両親は表立った供養も出来ず、位牌と想い出の振袖を密かに隠して
いたが、その後縁あって供養を託す上人と出会う。



 岡山県久米南町にある誕生寺の第15世通誉上人である。
上人は寺に持ち帰り丁重に供養し代々伝え残したと言い、その振袖は今も同寺の
宝物館で大切に保管されている。(続)



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涙橋(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-05 | Weblog





 北品川宿を抜け、南品川宿との境を流れる目黒川に架かる品川橋を渡る。
江戸時代には境橋と呼ばれていたそうだ。
当時このあたりでは農民が自作の野菜や山菜などの青物を持ち寄って売りさばい
ていた。
そんな青物横丁から鮫洲の商店街を進む。更にその先で、立合川が海にそそぐ河
口近くに架かる浜川橋を渡る。今は何の変哲もない町中の普通の橋である。





 橋を渡れば左手にしながわ区民公園があり、その向こうには大井競馬場が有る。
右は京浜本線の高架が見え、車の往来の激しい第一京浜国道が並走している。
周りは大小のマンション、飲食店、商店、オフィスなどが混在する通りである。

 

 今では賑やかな活気ある道だ。
しかし江戸時代、この道では罪を犯し処刑される罪人が、身体を縛められ、裸馬に
乗せられて府内からこの道を通りここ品川に作られた刑場まで引き回されていた。
そんな罪人を家族や知人が、手を差し伸べるすべもなく密かに後に続き見送ったの
がこの橋で、誰もが永久の別れに涙を流したと言う。
そんなことからいつしかこの橋を「涙橋」と呼ぶようになった。



 さらに進むと国道15号線と合流するあたりに、木立が生い茂っている小さな森が
見えてくる。東海道品川宿の南入口近く、鈴ヶ森の大経寺である。
ここには慶安四(1651)年にお仕置き場、鈴ヶ森の刑場が作られた。
この寺はこの地で処刑された者を供養するために建てられたのだと言う。
周りは鬱蒼としているわけでもなく、不気味な静寂に包まれているわけでもない。
なのに、なぜか陰鬱な場所である。(続)



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品川宿(東海道歩き旅・武蔵の国)

2017-06-02 | Weblog



 東京ディズニーランドが出来てまだ間のない頃、そこで終日遊んだあと、子供たち
を連れ泊まった宿がこの駅前に有った高輪プリンスホテルである。



 当時のことは早や記憶も薄らいで何となく思い浮かぶ程度だが、周囲には随分と
高層ビルが増え、街がきれいになり、ホテルも建て替わっているようで、そんな変貌
し過ぎた姿にはあまり懐かしさも感じられない。



 八ツ山橋を越え、山手線、東海道新幹線、京急線を越えれば、品川宿である。
東海道の玄関口最初の宿場として栄えた宿内には本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭93
軒、家屋1600軒、人口7000人の規模を誇り、飯盛り女も多く抱えていた。



 宿は八ツ山口が入り口で目黒川までの間が徒歩新宿・北品川宿、そこから青物
横丁・鮫洲の辺りまでが南品川宿で、全長2.4キロにも及ぶ大宿場町であった。



 当時の人々は旅立つ人を見送るのも、江戸に入る人を出迎えるのもこの宿であっ
た。付近には桜の御殿山、モミジの海晏寺、品川神社や荏原神社、品川寺などの社
寺も多く遊興地として、また出会いと別れの場としても相当な賑わいを見せていたと
言う。



 街道筋には当時を彷彿させる古い建物は残されてはいないが、本陣跡や幕末の
遺跡などには、サインも立てられ往時を偲ばせる松の木も何本か植えられている。
電線が地中化された通りの幅は、ほぼ当時とは変わらないそうだ。
そんな通りはビッチリと隙間もなく現代のお店が軒を連ね、人や車の行き来が多い
商店街になっている。(続)



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